episode xvi 星月夜


 いつかと同じように、気付いたらサクヤの左手が頬に触れていた。そしていつもと変わらない穏やかな笑みで彼はナギを見ていた。何かを言いかけていた、そういうふうに唇が動いた絶妙なタイミングで、遠く暗がりから事態(強制)終了のアナウンスが発せられる。
「すいませんけどねー! そこのドラマの役者さんたちー! 手短に済ますか、いっそもうちょっとでっかい声で話すかしてもらえませんかねー! そろそろ俺らも暇ぶっこいてまーす!」
リュカの前触れのない大音量のクレームにより、ナギはようやく周囲の状況というやつに意識を向けることができた。八番隊、みんな仲良く勢ぞろい。バルトがリュカを小突いている。それを窘めるアンジェリカと項垂れているサブロー。マユリはこちらに向かって朗らかに手を振っている。ナギはそれらを全て順序良く確認した後、高速で後ずさった。最悪だ。死にたい──後ずさった先で肌触りの悪い壁にぶちあたる。ナギの背には、最初から最後まで完全にお客様と化していたカラスが座っていた。
「終わったのか? 随分中途半端に見えるが」
 最悪だ! 死にたい! ──今度こそ脳内ではっきりとそう叫ぶが逃げ場はない。ある意味で四面楚歌の状況下で、ナギは完全に言葉を失って座りこんだ。立ち上がれない。いや、立ち直れない。ここまでの失態を、未だかつて彼女は犯したことがない。
「隊ちょー! よく分からんけど、俺たちこっから会話しなきゃだめー? 結構めんどくさいよ、これー!」
これ見よがしに両手でメガホンをつくってリュカが声を張り上げる。ナギの自尊心を粉々に砕いたことなど彼にとっては瑣末事だ。サクヤはと言えば、実にあっさりと踵を返して生温かい目のクレーマーたちと合流を果たす。
 ナギは紅潮した首から上を両手ですっぽりと覆った。カラスは特に文句も言わずからかいもせず、黙って背もたれ代わりになってくれている。もしかするとこの中で一番気が効くのはこのニーベルングではないのか。いや、さっきの発言からするとこれは腹の底で嫌らしく笑い転げているのかもしれない。ともあれ今はカラスの無言の厚意に甘えることにした。
 そうしてナギが心頭滅却モードに突入して数十秒、サクヤは手招きだけでナギとカラスを呼び寄せる。ナギはカラスに後押しされるようにしてようやく輪の中に入る始末だった。
「これでやっと八番隊全員集合か」
バルトの苦笑交じりの台詞に、ナギを含めた数人が思わず顔を見合わせた。
「隊長の見た目がちょっとばっかしクレイジーになったってこと以外は、モトサヤって感じだよなー?」
リュカは軽い確認のつもりで誰ともなく話を振った。が、それが地雷だった。輪になった八人の間で様々な種類の視線が飛び交った。失策だったことは理解したが、リュカは後頭部を掻きながらあろうことか舌打ちをかます。
「違うのかもしんないけど、ここは無理やり鞘におさめとくとこだろっ。喧嘩はあとまわしな!」
「一理ある」
すぐさま同意を示したのは意外にもナギだった。これにはリュカもほっとした、のも束の間。
「……でもごめん。どうしても、一発だけ」
「あ?」
 ナギが決意の表情で立ちあがる。そのまま標的を一点に絞り、迷いなく距離を詰めた。
「待った! ばか、リュカ止めろ!」
 もう遅い。ナギは標的のジャケットの襟を鷲掴みにすると、奥歯を食いしばって右の拳を振りかぶっていた。サブローは叫んだだけだったし、リュカはナギを制するどころか本能的に仰け反って退避。他は皆、突然のことにただただ唖然と一部始終を見守るだけだった。
 派手な音はしなかった。遠くで響く魔ガンの爆発音やニーベルングの咆哮とは対照的に、鈍く籠った骨の音がしただけだ。逆に言うと音だけが地味だった。シグは何の抵抗も防御もせず殴り飛ばされたから、当然体勢を崩して後方に倒れ込んだ。
「ナギ! あんた怪我人相手になにやってんのっ」
アンジェリカが頭を抱えて呆れとも怒りともつかない金切り声をあげる。何をと言われても、収拾がつかない感情を拳にこめて、渾身の力でシグの顔面にお見舞いした、としか言えない。そしてそれは見ていた者には分かりすぎるほどに分かるだろうから説明はしない。
 シグの無言の口元からは真っ赤な血が、だらだらと垂れていた。
「なんだ……俺、この光景見たことあるぞ」
「奇遇。俺も」
リュカとサブローは揃って遠巻きに既視感満載のこの光景を眺めている。覚えている限りでは前回は平手打ちだった。兎にも角にもここでシグを庇ってはいけない。サブローの脳裏には強くその教訓だけが刻まれている。
「全部片付いたら話がある!」
ナギの一方的な宣言にシグは了承も拒否も示さない。ナギもいちいちそれを待たない。やるだけやって言うだけ言うと、鬼気迫る表情のまま踵を返した。
「おいシグ……、大丈夫か」
様子を伺っていたバルトがおそるおそるシグに近寄る。反応はやはりない。後から後から滲みだしてくる口内の血液にも、シグはどこか上の空で対処していた。
「奥歯折れた」
シグがようやく発した言葉は「何が」「どうした」のごくごく単純な構成でありながら、それなりに衝撃的なものだった。百聞は一見にしかずとばかりに証拠品がシグの口内から手のひらへ転がり出る。血まみれの哀れな破片と化した左奥歯だ。
 凄惨な現場に凍りつく外野をよそに、シグは無造作に立ちあがった。唾液と共に残った不快な血を吐き出す。
「……何」
 バルトが至近距離で意味ありげに固まっているのが鬱陶しい。返答はなく、そうかと思うと背中を思いきりたたかれた。これにはシグも反応せざるを得ない。せっかく立ちあがったところをまたよろめいて、前のめりに噎せかえった。
「は……!? 何なの……っ」
「いや? 気が抜けた炭酸みたいな顔してるから、喝でも入れといてやろうってな。ほら。ブリーフィングの仕切り直しだ。顔は冷やしとけよ」
 準備の良いバルトから湿布薬を投げ渡される。シグはそれをまた黙って張り付けながら、少し離れた位置で歪な円陣を組む連中に合流した。
「お待たせしました」
「いや……えーと、大丈夫なの」
「問題ありません」
 サクヤはおそらく殉職した奥歯の心配をしているのだろうから、シグもそう答えた。ブリーフィング中に暴力行為に及んだ女は、アンジェリカからこっぴどくお灸をすえられている。
 本当は問題と呼べるものは山のようにあって、しかもそのどれもこれもが一筋縄ではいかない混み入ったもののはずなのに、この空間では全てが些細なもののように感じられた。
「ったく、いい加減本題に戻るぞ。問題は、あのデカブツ本体をどう片づけるか、だ」
ぼやいたバルトの視線の先には、夜空をぼんやりと照らすサギの巨体がある。
「簡単だろ。本気出せばいいわけよ、俺たちが」
「言うじゃねえか」
リュカは通常通り、どこまでも楽観的だ。しかしその抽象的すぎる提案はあながち間違いでもない。サブローも小さく唸りながら同意を示した。
「何が恐いって、まあ……ぶっちゃけデカイだけって気はするな。強いて他に挙げるなら癪に障るほど美白でいらっしゃる点か?」
「んなの見りゃ分かるっての。他になんかねーのかよ。実は一か所白くないとか、近づくとめっぽう臭いとか」
「そのどっかで聞いたことあるやりとりやめろっ。知りたいのはサギのチャームポイントじゃなくてウィークポイントだ」
バルトの的確すぎる諌めにリュカとサブローは揃って苦笑した。しかし一度緩んだタガはおいそれと締まらない。
「だなー。下から撃っても尻? にあたるだけで全く効果なしときた。ってかほんと、いい加減そのあたりに気づいて作戦を立てなおせよって話だよな……いつまで尻? を撃ってんだよあいつらは」