episode xvi 星月夜


 月があった。サギの口内で、今宵の夜空を彩る満月が煌々と輝いていた。そしてそれは次の瞬間轟音とともに地上に落ちた。視界が余すところなく白く染まった。グングニルという組織が作ったニーベルングを撃破する唯一の手段、その爆発、その光、その焔が、彼らの立つ大地を焼いた。グングニル機関の中央に聳え立っていた主塔は、火柱をあげる瓦礫だけを残して姿を消した。
 爆発と同時に拡散した熱波に煽られて、ハヤブサは不時着を余儀なくされた。
「目当てのものが無いってばれたみたいだけど? どう動くんだろうね、あの単細胞は」
 機転を利かせて搭乗者二人に覆いかぶさったハヤブサの身体を、瓦礫でも押しのけるようにしてシグは這いだした。同じく這いだそうともがくナギの手を、取ろうとして躊躇する。シグの頬を渾身の力で殴り飛ばした彼女の右手はほとんど力が入っていないようにみえる。自業自得といえばそうなのだが、無視して握ると折れそうだ。結局は手首を掴んで半ば乱暴に引き摺りだす形になった。
「ハヤブサは? 大丈夫?」
「羽を少し焼かれたようです。飛ぶことはできますが、最高のパフォーマンスは約束しかねます」
「気にしないで。無事なら良かった」
 いや、良くないだろう──力づくとはいえ一応引き摺りだした自分には礼の一つもなく、ニーベルングの心配にかまけるナギを、シグは半眼で見下ろしていた。
 対してサギは、綺麗さっぱり何もなくなった宙から呆然と地下の穴を見下ろしている。この場所に鶏がいた痕跡はある。それも今の今まで。それが手品のように消えうせている理由と仕掛けを模索した。それらに心当たりはなかったが、眼下を虫のように這う人の群れと、その虫のような人間に加担する誇りのない同族がせっせと下準備をしたことは間違いない。彼らはサギにとってこの上なく腹立たしく、目ざわりな存在だった。
 塔を一撃で破壊するためのラインタイトを収拾するのに、随分な月日をかけた。無力なヒトがニーベルングに抗う唯一の術を逆手にとって、彼らの欺瞞の塔を粉々にしてやればどれほど気分がいいだろうと考えた。王と呼ばれるただ特別なだけの木偶の坊も、同じように始末できるはずだった。怒りで猛り狂わずにはいられない。そこにあるのにそこにない、新月に向かって吠えた。
「本来の目的は王の抹殺だったはずです。別のやり方であれば、サギならうまくやったかもしれません」
「手段に固執すると、大事なものを見落とすらしいから」
「どーでもいーけど、事態は別に好転してはないよね。俺たちはあれを仕留めなきゃならない。今ここで。……でなきゃ次“主砲”が狙うのは人間だろ」
「次ってまさかそんな──」
 ナギの疑問への回答は、サギから即座になされた。猛るだけ猛り、その口元から吐き出されたラインタイトの塊が隕石のように炎をまとって降ってくる。ナギの頭は空っぽだった。何も考えないまま、いつものようにブリュンヒルデを握りいつものように標的に向かって構え、思いきり引き金を引いた。
 目の前で星が砕けたようだった。肌が、髪が、喉が焼ける。何より右手に激痛。頭の中で後悔と不安とがせめぎ合った。シグを殴るのは後回しにしておけば良かっただとか、この後何回これを凌げば終わりがくるのかだとか。熱風に煽られてナギは後方に吹き飛ぶ。その背を、シグが間一髪で受け止めた。
「ナギ。あと一回でいいから、このままここで的になってくれない?」
 前言撤回。背後から聞こえた情も何もない打診に再び右手拳に力が入った。
「あと一回って何! 何基準!」
「信じていいよ。俺誰かと違って外さないし」
 シグの声は、ナギの耳元で聞こえた。だからその不似合いで穏やかな息遣いや、こぼした苦笑まで伝わってくる。
「待って、シグ」
「飛べるんだよな! 悪いけどあんたにはつきあってもらうぞ」
それはハヤブサに向けられた言葉だった。ハヤブサは一も二もなく従順にシグを背中に乗せて離陸した。先ほどまでの切れのある飛び方ではない。傷ついた羽を極力羽ばたかせないように慎重に上昇していく。目だたずに目的地にたどり着くには好都合かもしれない。
「シグ!」
 誰かに名前を呼ばれた気がした。それをかき消すくらいの大声で、シグの名を叫んだ。
「ナギ! いいからあんたはこっちに集中しなさいっ! シグなら大丈夫だから!」
気付けばアンジェリカが隣に立っていた。無事を喜ぶ心の余裕がない。
「陽動すればいいんだろ!? マユリ、せーので一緒に撃つぞ、二時の方向、とにかくシグたちと逆!」
「ナギちゃんはど真ん中ね!」
サブローが、マユリが、煤けた顔で合流してくる。これで大丈夫、シグなら大丈夫──? 違う、そうじゃない。これでは意味が無い。彼を殴り飛ばしたことが、一緒にハヤブサに乗ったことが、これまで二人で過ごしてきた日々の全てが、無意味なものになってしまう。
 シグからは生きている気配がしなかった。ナギだけがはじめからそれを知っていた。もうほとんど感覚のなくなった右手人差し指を引き金にかける。そうするほかなかった。シグを世界につなぎとめておく手段が、もうこれの他には見当たらない。視界の中央にサギを捉えながら、ナギの瞳はシグとハヤブサの姿を探していた。
 シグはハヤブサの背骨にうつ伏せ状態で張り付いて、息を殺してそのときを待った。三発目の主砲を吐きだしたその後の、警戒心のまるでないがら空きの背中。シグはローグとヴォータンを交互に撃った。“むら”がないように満遍なく、息つく間もなく連射した。地上から見るとそれは、小さな明かりが灯っては消え、また灯っては消えるイルミネーションのようだった。ダメージははじめから期待していない。シグが期待したのは、その長い首ごとこちらに振り向いてくれるという体勢だけだ。
 かくして狙いどおり、サギが振り向いた瞬間にハヤブサは絶好の位置を確保していた。シグは自らハヤブサから飛び降り、島のような大きさのサギの顔面に着地する。着地と呼べるほど鮮やかではなかった。左大腿から全身を引き裂くような痛みが走った。その場に倒れこみそうになるのを気力だけでつなぎとめる。
 間近で見るサギの皮膚は、死んだ珊瑚礁のようにでこぼこした歪な表面で、目を見張るほど美しくも神々しくもなかった。ただひたすらに白いだけ、ひたすらに巨大なだけ、八番隊の皆ではじめに確認し合ったそれだけの脅威だった。
 シグはサギの鼻っ面に立って右眼にローグを、左目にヴォータンを向けた。
「あんたも俺も、とっくの昔に用済みなんだよ。敗者は潔く消えようぜ」
それぞれ一度ずつ、感触を確かめながら丁寧に引き金を引いた。銃身も手元も一切ぶれない、
消すべきものを確実に消すための精密射撃。シグが得意としてきたもの。早撃ちでも連射でもない、彼の存在証明。
 弾け飛んだのが巨大な眼球となれば、いつものように肉の焦げるにおいだけで済むはずがない。爆発音に混ざって不快な水音が、熱風を打ち消すように温かい雨が降り注いだ。この世のものとは思えない醜い悲鳴がサイレンさながらにけたたましく鳴り響く。
 シグは糸がきれたマリオネットのように両腕を下げた。のたうちまわるサギの顔面に留まることは至難の業で、抗わず逆らわず、転げるままに身を任せた。
(……正直少し、疲れたな)
 糸は遥か昔に切れていた。何度も切れては、その度に歪に結びなおしてきただけだ。人でなくてもいいから人らしく、生きていなくてもいいから生きているふりをしていたかった。望みは充分すぎるほどに、果たされたように思えた。
 だからサギの爪が高速で降りおろされて視界を埋め尽くしたとしても、ぼんやりと観察するだけにとどめた。恐怖を感じなかったのは、その資格がないことを知っていたのと、胸いっぱいのよくわからない満足感のせいだろう。少なくとも次の展開を予期してのことではない。