西部との境界、第一防衛ラインを越えて一時間。ムスペル地区上空でサクヤは朝を迎えることになった。遠くの稜線が明るい。夜明けまでにこの場所にたどり着くことが、作戦成功のための必要条件だったからまずは一安心というところだ。ここまでに迎撃したニーベルングは三体、夜間迷彩は十分に功を奏したといっていい。かろうじて、という断りは必要だが全員五体満足でここまでやってこれた。
「サギが墜ちた」
「うん。間に合ったみたいだ」
空の亀裂を前にして、他に言うべきことがありそうなものだが、カラスは仲間から受信した情報をそのまま口にしただけだった。改めて言われるまでもなく、サクヤもそれは承知していた。そうでなければもっと多くの、有体に言うなら星の数ほどのサギ派の待ち伏せを受けたはずだ。今、亀裂の前に立ちはだかるのは三体。サギの忠臣だとか側近だとか、そういうふうに解釈していいイーグル級二体とアルバトロス級一体である。
「よりにもよって……」
誰の目も気にしなくていいと思うと閉口し、深い嘆息が漏れた。アルバトロス級──通常、一個小隊でお相手する限界等級である。戦車一輌で戦艦を相手取るようなものだ。否、冷静に、客観的に戦力を分析するなら今の自分は戦車一輌におそらく値しない。
「カラス、あれに幅寄せしてくれないか。飛び移りたい」
「……何の冗談だ、それは」
「冗談? いや、そんな気力は残ってないよ。あれを足場にして、まずイーグル級を片付ける。仮に残りが鶏を目指したとしても、僕が上にいない状態なら君も応戦できるだろ?」
「お前が落ちても私は追わない。王の護衛を優先するぞ」
「それでいい。落ちるつもりはない」
そこまでの過剰な自己犠牲精神は、後にも先にも持った試しがない。それに──帰ったら、何もかも綺麗に片付いたら、どうしてもやりたいことがある。ただこういう局面でそういう内容を口にするのはどうも宜しくないらしい。この手のジンクスを信じた試しはなかったが、今回に限っては念には念を入れて、胸の内に留めておくことにした。
こちらが仕掛ける前に、アルバトロス級が咆哮をあげ突進してきた。サクヤはしかめ面のまま腰を浮かせて「お乗換え」に備える。体力も気力も限界寸前、ニブル汚染された肌は上空の気圧だの風圧だのに耐えるだけで精一杯だ。おそらく自分は今、誰にも見せられないような形相で魔ガンを握っているのだろう。まあいい、それこそ誰も見ていないのだから取り繕う必要もない。
ただただ大きく口を広げニブルを吐きだそうとするニーベルングに向かって、サクヤはすれ違いざまにダイヴする。ごろごろとその背を無様に転がった。ごろごろ。かなりごろごろと。勢いづいて端まで。
「サクヤ!」
カラスは急旋回して、敵ニーベルングと交戦の構えを見せた。あるいはサクヤを再びキャッチするためだったかもしれない。言っていることとやっていることがものの見事に矛盾している。大理石のように硬い背の縁で、サクヤは可笑しそうにそれを見ていた。落下はかろうじて免れたようだ。
鶏に向かって旋廻するイーグル級を一体、見送った。もう一体はまっすぐサクヤめがけて飛んでくる。短く深呼吸を済ませて息を止めた。同時に感情を遮断する。安堵や恐怖、緊張とそれに伴うはずの使命感、全て断絶してジークフリートを握り締めた。体当たりしてくるイーグル級の首の下に身体を滑り込ませ、仰向けのまま、サクヤの顔面すれすれの位置にある喉下に銃口を押し当てた。
「まず一体」
爆発はサクヤを中心に起きた。自爆かと問われたら、限りなくそれに近いものだとしか言えない。一瞬で火達磨になったイーグル級の陰から、二発目、三発目の爆発音が轟いた。カラスにはその音だけしか確認できない。四発目が鳴り響くや否や、アルバトロス級はいきなり高度を下げた。その降下スピードよりも遙かに速く、ちぎれた首が焔を上げてこぼれていく。肉が焦げるにおいも視界を覆うはずの黒煙も、空の上では一瞬のうちに流されて、首なしニーベルングが滑空する異様な光景が現れた。
(でたらめだな……)
カラスは呆れと感心とが入り混じった感想を、ただ胸中で呟いた。大部分は恐怖だったかもしれない。長い首筋を電気のようなものが走り抜けていった。ぞっとする、というのがこういう感覚なら、まさにそれだった。自分が背に乗せてきたのは、イーグル級もアルバトロス級も関係なくものの数秒で灰にする男だ。一騎当千にも程がある。
そうしてカラスが恐れおののいていることまた数秒、電池が切れたラジコンのように、アルバトロスの足場が下方に傾く。サクヤは体勢を崩し、成す術もなく大空へ放り出された。風が気持ちいい、その割りに大して感動するような光景でもない。空の上で生身の人間は、完膚なきまでに無力だ。それをまざまざと思い知らされるだけの果てしない空間。
投げだされた身体は恐怖やら諦観やらを覚える間もなく、カラスの大口に受け止められた。牙で串刺しにしないよう力加減は調整されているようだったが痛いものは痛い。挟まれているのだから当然か。単純明快に言うならこれは「食われている」という状態に近いのではないか。
「助けないとかなんとか言ってた気がするけど」
音声会話を行えばサクヤが落ちてしまうため、カラスはその皮肉を黙って受け入れるしかなかった。胸中では偉そうに「これは貸しだ」と豪語していたが、伝えるのはやめておく。どうせこれもサクヤの想定内だ。腹立たしいことこの上ないが、そうにちがいないのだ。
少し開いた鶏との距離をつめるべく、カラスはサクヤを咥えたままスピードをあげた。敵はもう一体、そのはずだったのだが。
眼前の壮絶な光景に、サクヤは思わず息を呑んだ。半開きのカラスの口内で自らもだらしなく口をあけてしまう。
鶏の巨大な口が、イーグル級の身体を真っ二つに噛み切った。一瞬のできごとだった。まるで当然そうあるべきだったとでもいうように、鶏は何事もなかったかのように悠々自適に翼を翻す。これが自然の摂理、サクヤはそれをいまさらながらに見せつけられただけの話だ。
そうして両目を見開いていても始まらない。深い深い溜息の後に通常の呼吸を再開した。
「空が、明るいな」
カラスの牙の隙間から見える白んだ空に、サクヤは目を細めた。流れてくる心地よい明け方の風に、ほとんどとれて(燃えて)しまった黒い包帯がたなびく。少し暑い。カラスの上あごをこじ開けてその鼻っ面をよじ登ると、グングニル塔の方に美しい朝日が輝くのが見えた。それがあまりに爽快で、思わず伸びなどしてしまう。
「いい気なもんだな。滅茶苦茶な戦い方だったが」
「次を考えなくていいなら多少の無茶はするよ。どう考えたってあれが最後だ。僕の役目は終わったからね」
彼らの進行方向には、雷がそのまま版画になってしまったような黒い亀裂がある。この先はニーベルングの世界だ。サクヤはその中をまじまじと覗きこんではみたものの、何が見えるというわけでもなく一人唸る羽目になった。ただ恒久の闇があるばかりだ。
「閉じることはできない、って言ったね」
「今のところその方法はない」
カラスの端的な解答にサクヤもただ頷いただけだった。そして懐からおもむろにファフニールを取り出すと、鶏に向けて差し出した。
「ひとつだけ予言をしておこう」
大陸横断中ただの一言も発しなかった鶏が、ここにきてその巨大な口を大きく開いた。嫌な笑みを浮かべる。全身を黒く染めた夜間迷彩は、朝日に彩られた今では陰湿で邪悪な何かになり果てている。少なくとも、人の眼からはそう見えた。
「お前たちの世界は絶対悪を失った。次にその銃口を向けるのは同じ人間だろう」
「かもしれないね。それでも、手を取り合える人がいれば一緒に前には進んで行ける」
サクヤは臆することなく、そして何の迷いもなく静かに答え、ファフニールを手放した。あるべきものを、あるべき場所へ。鶏もまた、礼どころか別れの挨拶ひとつもなしに大きく羽をはばたかせ、亀裂の向こう側へ消えた。
ムスペル上空に取り残されたのは純粋にただ黒いニーベルングが一体と、その上で思いきり伸びをする黒い包帯の青年が一人。生まれたての朝日の下では、彼らの存在は良くも悪くも際立ったものだった。他人の眼からすれば、これらは陰湿で邪悪な何かにしか見えないのかもしれない。