「さて、と」
頭と気持ちの切り替えのために、何となくそう言った。その声に呼応するように、胸元で鈴の音が鳴った。小さく繊細に。サクヤは数秒固まった後、おそるおそる胸ポケットからそれを取り出すと複雑な笑みを浮かべて唸った。
「間に合わなかったな。……というより、凄いな、本当に咲いた」
サクヤの手の中で、がくから上しかなかったユキスズカが誇らしげに花開いていた。残る全ての生命力をおそらくは開花のために費やしたのだろう、花弁は綻び、色あせている。
「鈴音の花か。その花を思えば、世界ははじめからひとつだったのかもしれないな。種の存続という大義名分が、憎悪や嫌悪といった負の感情を作り出した。あるいは、逆も考えられようが」
「……どういう意味だい」
「正だろうが負だろうが、感情というものは生きるために仕組まれた高位のシステムだ、という話だ」
「そうじゃない。どうしてこれが、『世界がひとつだった』ことの証になる?」
カラスは不敵に笑った。しかしそれが背の上にいるサクヤに伝わることはない。逆に、サクヤの困惑した表情はカラスには手に取るように分かった。
「それはそもそも黒い花だ。ニブルヘイムであればどこにでも咲いている。……が、私が亀裂を作るはるか以前から、こちらの世界でも根付いていたようだ」
「亀裂を通って運ばれたわけじゃない、と?」
「さあな。そう考えたほうがつじつまが合うというだけの話だ。気になるか?」
「気にはなる」
即答した。不機嫌そうなのは、カラスがこの土壇場になってこういう話をし始めたのが、どうやら作為的なものらしいということが知れていたからだ。
サクヤは再び、亀裂の向こう側へ視線を向けた。ニブルヘイムと呼ばれる、今この場所とは別の理を持つ世界。その理を越えて咲く、ユキスズカの花。
「サクヤ。お前はニブルヘイムの環境に適応した身体を既に持っている。望めば世界の根源、原初の謎を解き明かすことも不可能ではないだろう。……選ぶがいい。私にはお前の選択に答える用意がある」
「僕は──」
その答えが正しいかどうかを考えることはしなかった。ただ思ったままを口にした。カラスはまた不敵に笑い、誰かに何かを告げるために一度高らかに咆哮を上げた。
*
廊下に出て八番目の扉の前に立つ。ノックはしない。自分が隊長を務める隊の執務室だから当然と言えば当然だったが、一旦立ち止まって中の気配をそれとなく確認するのは癖だ。気配でなく香り、かもしれない。隙間から仄かに漂う香りが鼻孔をくすぐる。サクヤはいつも通り静かに扉を開けた。
他人には分からない規則性で積み上げている机上の本、保留にしてあった案件の書類、出掛けに椅子の背にかけてきたジャケット、それらだけを上手くよけて室内は片付いていた。ティーテーブルには優先度の高い順に並べ替えられた書類の山と淹れたての紅茶。
「お疲れ様。凄いタイミングだね? 今淹れたとこ」
カップから立ち昇る湯気で、ナギの笑顔が霞んで見えた。それだけのことを少し残念に感じる。彼女は大抵この後、溜まった仕事を怒涛のように説明し始めるから、今のを見逃すと次の休憩時間までは拝めない可能性が高い。
運が無かったと思いながら、サクヤは自分のティーカップを手に取った。
「良い香りだ」
気の利かない台詞が、口をついて出る。
「買い出しのついでにちょっと新しいの買ってみた。夕方疲れたときにいいでしょ?」
相槌もそこそこに喉を潤すサクヤ、無意識に笑みが漏れる。その様子を、ナギは訝しげに観察する。
「……また笑ってる」
「え?」
「何かいいことでもあった?」
「ないよ? むしろ長老会に重箱の隅をつつかれてきたところ」
思いだすのはよそう、と再び紅茶に口をつけた。
「だったらなんでこう……こんなにも幸せそうというか嬉しそうに笑えるのかと……。あ、ほらまた」
仄かに甘い香りが口内に広がったところで、現行犯逮捕される。確かに指摘されなければ気付かないほど無意識に口元が緩んでいた。
「ああ、そういうことか。……特別美味しいからね、ナギの淹れる紅茶は」
「……またそうやってはぐらかす」
ナギは溜息をひとつつくと、空になった自分のカップと書類を持って執務室を後にした。サクヤのありのままの回答はお気に召さなかったらしい。
「いや、正直に言ったんだけどな……」
毎度のことながらうまく伝わらないものだ、小さく唸りながら後頭部を掻く。室内に残った紅茶の香りとぬくもりに、サクヤはまた笑みをこぼしていた。そして頭の、どこか隅の領域で考える。
──これはいつのことだっただろう。随分前のことのようにも思えるし、昨日のことのようにも思える。本当はこんな日は存在していなかったのかもしれないし、もっと別の形で実際にあったのかもしれない。記憶の断片をいいようにつなぎ合わせた妄想か、願望を忠実に再現した夢か、いずれにせよ「今」ではないことだけは確かだ。八番隊執務室はもう無い。
(「今」じゃない、か)
意識が別に発生したことを自覚した。真っ暗とも一色とも言えない奇妙な空間に意識だけが漂っていた。微かに紅茶の香りだけが残っている。
何もかも片付いたら、ひとつだけどうしてもやりたいことがあった。よくよく考えるとそれは自分主体ではなかったから、彼女に頼んでおかなければならなかったのだが、相変わらずそういう肝心なことはまんまと伝えそびれて今に至っている。余計なことは随分口に出してきたのに、だ。
今──またその言葉がひっかかる。意識ははっきりしていて随分いろんなことを鮮明に考えることができる。だのに周囲の状況が判然としない。まさかうっかり死んでしまったのだろうか。それにしてはずっと良い香りが続いている。紅茶のそれではなく、もっとずっと懐かしい、彼と彼女の原風景にあった香り。
とにもかくにも自らの生死を確認したかった。散らかった意識をかき集めて、心臓らしき場所を探す。鼓動を聞くために耳を澄ませた。彼の心臓は、鈴の音に似た美しい響きで小さく鳴った。
かと思えば野犬の遠吠えのような、悲痛にまみれた長い長い雄叫びが腹の底に伝わってきた。サクヤはそれをきっかけに閉じているらしい瞼をこじあけることにする。予想や期待をこっぴどく裏切った現実の幕開けだった。
「うおおおおおおお! 隊長おおおおおぉぉぉぉ……!」
まず視界に入ったのは見慣れない高い天井と、その隙間から見え隠れする青空だった。やけに天気がいいらしい、こんなにも清々しいと思える空色をサクヤは随分久しぶりに拝んだ気がした。
「サクヤ隊長おおおおぉぉう!」
次に視線を、放心状態の見知った面々に移す。アンジェリカが居て、マユリが居て、サブローが、リュカが、神妙な面持ちでこちらを覗きこんでいた。その背景と周囲の音で、ここが駅のホームだと知る。おそらくグラスハイムの中央駅。天井ばかりが視界をかすめるのは、自分の身体が横たわっているからに他ならないが、起きようとすると謎の圧力によって押し戻される。などと知らぬふりを続けていたかったが、そうも言っていられなくなった。サクヤはようやく、自分の腹の上に覆いかぶさって号泣するバルトに視線を移した。
「バルト、悪いんだけどそろそろ起きたいから」