「聴くんですか」
「内容によっては皆を集める必要があるかもしれないしね」
「素敵なゴスペルだといいんですけど」
そうは思えないから顔の筋肉がひきつってしまう。建物と調度品の古さと、このプレーヤーと円盤の時代はいかにもずれている。違和感の正体が露骨に顔を出したことに警戒心を抱かずにはいられなかった。針は静かに、レコードの上に乗せられる。刹那。
オオォォォォォォオオオオオオオ……! ──犬の遠吠え、ではない。魑魅魍魎の嘆きの声でもない。確信を持っているくせにサクヤは再び針を戻して、ニーベルングの咆哮を再生した。興味津々に同じ行動を何度も繰り返す。その都度ニーベルングの雄叫びが室内に轟いた。
「あの、お気に入りのところ申し訳ないんですけど……そろそろ私、頭が変になりそう」
「ちょっと、ちょっと待って。この鳴き方……」
「サクヤ隊長……ついにニーベルング語まで手を広げたんですね……」
連続再生十回目でようやく針が外された。サクヤは一人で思考を巡らせている。口元を手で覆うのは考え事をしているときの癖らしい、ナギがそんなことを言っていたのを思い出してアンジェリカは思わずサクヤの顔をのぞきこんだ。
「隊長ー? 私席外しましょうかー?」
「いや、ごめん。ちょっと考えがまとまらないな……思っていたよりまずい状況なのかもしれない」
「どういう意味です?」
「僕の記憶が正しければ、この鳴き方、リベンティーナのときとほとんど同じなんだ。つまり他のニーベルングを招集するための咆哮。洋館から聞こえるニーベルングの鳴き声っていうのはこれのことなんだろうけど……。録音にしろ再生にしろ、人の手が入らないと無理、だよね」
「……空砲撃ちます?」
「そうしよう、二発で」
アンジェリカが魔ガンを取り出した直後だった。
パァン! ──少し遠くで空砲が鳴る。既に緊張していた二人の空気がここで更に張り詰める。
「ニーベルング!? おそらく四階、ナギたちです!」
パァン! ──言うが早いか二発目が轟いた。ということはニーベルングそのものではないらしい、切羽詰まったのが台無しだ。判別しがたい間隔にアンジェリカが青筋を浮かべる。ほっとしたのも束の間、予想外の三発目が鳴り響いた。
「……幽霊?」
「そんなわけないでしょう、でも何かあったのは確かです。レコードの件は一旦置いて合流しましょう」
廊下を走っていると踊り場にシグの姿が見えた。空砲を聞いて玄関から突っ走って来たらしい、一瞬だけこちらに視線を移して階段を駆け上がっていく。サクヤとアンジェリカもすぐにその後を追った。
「サブローさん!」
四階の廊下に出て真っ先に目に入ったのは、中央付近で楽しそうに万歳をするサブローの背中だった。楽しそうというのは先行したイメージの話で、実際彼が置かれた状況は絶体絶命という非常に分かりやすいものだった。両手を挙げたサブローよりも更に前方に数名の人影が見える。
「先住民がいたのか……」
呟くシグの横には先に到着していたバルトとリュカ。サクヤとアンジェリカもすぐに合流を果たした。見ただけで分かるのは、サブローがサンドイッチ状態である時点で完全にこちら側は不利だということだ。相手方は何か銃器を構えているようだが、それがハンドガンなのか魔ガンなのかここからでは判断できない。いずれにせよこちらからは手出しできない。今撃てばサブローごと廊下が吹っ飛ぶ。そんなことは全員が承知しているはずだがリュカはしびれを切らして懐に右手をいれた。
「どこの馬鹿か知らねーけど、先手必勝じゃねえの? サブさん避けて天井あたり一発撃てば……」
「駄目だ。魔ガンは使うな」
間髪いれずサクヤが制する。珍しく語気を強めたのはシグやバルトに対する牽制でもあった。
「使うなって、じゃどうすんのっ。相手銃こっち向けてんのよ? 正当防衛ってやつでしょーよ!」
「わけは後で説明する。とにかく“彼ら”相手に魔ガンは使えない。……ナギとマユリは……?」
「分からねぇな、俺たちが着いたときには既にこの状態が出来上ってた。まぁサブローが丸腰お手挙げ状態ってことは、とっつかまったんだろ。……ドジ踏んだな」
バルトが苦虫をつぶしたように顔を歪める。
「で、どうするよ隊長。睨みあってても埒が明かないどころか、こっちが不利な状況は変わらねぇ。策はあるのか」
「策は無い、というより一旦退いて情報整理する必要がある。……サブローは五十メートル何秒だったっけ」
「そういうの記録してるのはナギなんで分かりませんよ。劇的に遅けりゃ体に穴が空くだけの話です」
指示を待たずして、シグは懐から通常のハンドガンを引き抜いた。サクヤの回りくどい言い方は今に限ってはシグを苛立たせるものだった。いとも簡単に隊員全員を窮地に追いやってくれたサブローの迂闊さにも充分に腹が立っている。この期に及んで魔ガンを撃てない理由すら把握していないリュカなんかは論外だ。
「俺とバルトで弾幕を張ります。隊長とリュカはサブローさんの援護を」
「分かった。二階まで下りて全員窓から飛び下りるんだ。昼間使用したポイントまで退避する」
各々口の中で返事を済ませる。合図はなかった。突如シグの狂ったような連射が始まり、絶え間ない銃声と硝煙の臭いが廊下に充満する。
「サブロー、横だ! 飛べ!」
舞いあがる埃と容赦の無い銃弾の雨を掻き分けるようにして、サブローはがむしゃらに窓を突き破って落ちて行った。きちんと受け身をとれば死にはしない高さだ。素人じゃないのだからそこまで面倒は見切れない。人影は応戦するでもなく、頭を低くして一番奥の部屋へ逃げて行った。シグとバルトの弾が切れるころには四階廊下には敵も味方もきれいさっぱりいなくなっていた。
「シグ、俺たちも退避するぞ。分かってるだろ。優先すべきは情報整理だ」
シグの胸の内を見透かしたようにバルトが先手を打ってきた。バルトは粗雑なようでいて隊員の心中の機微には誰より敏感だ。そのおせっかいも今は極端に鬱陶しく感じる。
「……分かってるよ。命令は“退避”だ」
棒立ちのバルトを追い越して、シグは階段を走り下りた。
フォールバングの森の中腹、大きな“洞”を二つも持つブナの樹があった。視線よりも上、高い位置の洞は何かの鳥が営巣しているらしい、作戦終了後にじっくり観察して帰ろうと思っていたポイントだ。低い位置にある大きな洞の横にサクヤは腰を下ろした。ナギとマユリを除く八番隊の面々は皆、疲労困憊といった様子でよろよろと枯葉の絨毯の上にくずれこむ。
「サブロー、怪我は?」
「え、ああ無いです、掠り傷です」
四階から無我夢中で飛び降りたにしては、確かに生傷が少ない。受け身が上手いのか、運がいいだけか。
「じゃあ分かってる範囲で状況を説明してくれ」
「……屋根裏っていうか、隠し部屋があったんですよあの屋敷。四階の一番奥の部屋がそれに繋がってて、連中はその部屋に潜んでて俺たちの様子を伺ってたってわけです。それを迂闊にマユリが見つけちまったもんで……まあ後は芋づる式に」
マユリを盾にナギが、その二人を盾に自分が丸腰お手上げ状態を余儀なくされたということだろう。想像通りとは言え何とも不甲斐ない話である。
シグは屋敷の外観を見たときのナギの印象を思い出していた。彼女が言っていた足りない部分とは五階であり、余計な部分とはそれをカモフラージュするための巨大な屋根だったのだ。もっと慎重に頭を働かせていれば気付けたのかもしれない。今さら悔やんでも後の祭りなのだが。