知らぬ間に大量の汗が頬を伝って床に落ちていた。震える手で通信機のスイッチを入れる。
「なんか凄い数、集まってきてるんだけどみんな……生きてる、よね?」
『そっちの守備はシグだろ!? おい! 生きてんのかシグ、なだれ込んでるってよ!』
バルトの怒声にも反応がない。
「シグ……ちょっと冗談でしょ」
『なんだよシグ! とっとと応答しろって! 集中できねーってかこっちがやられるっ!』
『シグ!』
しまいにはサクヤまでが切羽詰まった声で叫んでいた。シグの通信端末からはもう魔ガンの連射音がしていない。その代わり古い扉を開く音と「うるせ……」という二日酔いのおっさんみたいなぼやきが小さく漏れる。ナギは一階にかけ下りた。音は通信機とこの教会の一階からと、同時にしていたからだ。
「シグ!」
「だから、うるさいんだって……。閃光弾使って耳が……」
魔ガンを握ったままの手で右耳を塞いで、シグはふらふらと教会内に退避してきた。
『無事なんだな?』
サクヤの端末からは未だに絶え間なく爆撃音が鳴っている。アンジェリカの悲鳴やニーベルングの絶叫がそこへ覆いかぶさって来た。
「すみません、勝手な判断で一旦退避しました。言っておきますけど教会の南側はもう手に負えないですよ」
『分かった。サブローたちと合流することはできるかい』
「可能です。サクヤ隊長、あの」
シグはちらりとナギを横目に入れて喉元まで出ていた言葉を呑みこんだ。サクヤも戦闘に集中しているようだから断りをいれてそのまま通信を切った。
「何、今の」
他人が見送る僅かな言動の変化も、ファインプレーで拾いにくるのがナギだ。知っていたのに迂闊だった。シグが応える前に、また別の通信が乱入してくる。
『西側バルト・マユリ組負傷です~。接近戦突入、バルト負傷したんでこそこそ隠れてます~。指示求む、どぞ』
『私が行くから現在地を教えてっ。隊長は!? どうします!? ここでぼっちで粘りますか? そろそろ食われますよ!』
アンジェリカが言葉を選ばなくなってきた。語気が強いのは爆発音だけのせいではない。やけに近くでニーベルングがギャアギャア鳴いている。
シグはこちら側の音声が切れていることを確認してナギに向き直った。
「外、見たろ。討伐とかなんとかの次元じゃない。ここはもう完全に基地化してるんだよ、そこへ俺たちがのこのこ足を踏み入れた。まともにやり合えば全滅だ」
「そうならないために応援要請したんでしょ」
「それ、本気で言ってる?」
「どういう意味……」
「ナギはどこまでが“偶然”だと思ってんの。俺は“偶然”応援が来ない方に一票。サクヤ隊長もうっすらそう思ってるからサブローさんたちに退路を確保させてるんだろ」
口ごもるしかできない。こういうとき、決まって信じたい方を無意識に、盲目的に選びとっている自分がいる。より正しい方を、より美しい方を、より倫理的な方を。それらが真実だった試しは数えるほどしかなかったにも関わらず、だ。
「とりあえず、俺もう行くから。この子、さ。隣の小部屋に移動させといた方がいいよ。ここ目立つから」
ナギは同意を示したものの動こうとはしなかった。仕方なくシグが少年の背中を押す。少年は抵抗することもなく案内されるままに歩いた。その後ろ姿が、従順すぎる奴隷のようにも見える。痩せ衰えた骨と皮だけの生き物は、物置小屋のような薄汚れた床板に躊躇なく座りこんだ。
「あのさあ……寒いとか、お腹すいたとか、そういうのなんかないの。ここお前んちじゃないだろ。うちに帰りたいとか家族に会いたいとか、なんでもいいんだけど」
少年はシグの突然の問いかけに、顔だけを声のする方へ上げた。伸びきった前髪の下で光のない瞳がどんよりと揺れる。
「お前、どうしたい」
少年はその声のする方へ、ひたすら顔を上げ続けた。答えを持っていたからではない。寧ろその逆で、シグが問う当たり前の内容が異国の言葉のように聞こえたからだ。
「どう……って、なに……? どう、すればいい、の?」
シグは一瞬だけ目を見開いたが、驚愕を極力表に出さないように努めた。少年が絞り出した声は甲高く、年齢よりもずっと幼く聞こえた。
「それはお前が決めていいことだろ」
シグは懐に手を入れ「選択肢」を取り出すと、静かに彼の足元に置いた。
援軍要請してから、どのくらいの時が経っただろう。この街は、とりわけこの教会の中は時間の流れが狂っているように感じる。戦闘に入ってから半日以上経ったようにも思えるし、まだほんの数十分のようにも思える。確かなのは、グングニルに入隊してから今までで一番の討伐数を記録していることくらいだ。小窓から応戦しているだけで三体仕留めた。その内一体が粘りに粘ってナギ目指して飛んできた挙句、力一杯ニブルを吐きだしてくれたものだから流石に応える。接近戦で辛いのは、撃った魔ガンの爆撃に自分も少なからず巻きこまれるところだ。
「バン」という不躾な音で、ナギはそのときが来たのを知った。二階の踊り場で一度深呼吸。扉の前にニーベルングがひしめき合っていた。巨体の首が詰まっているのかなかなか中に入ろうとはしない。
「誰が入っていいって言った? ここはあんたたちが土足で踏み入っていい場所じゃない」
ブリュンヒルデの固い引き金を引く。首だけを覗かせていたニーベルングはその瞬間に弾けとび、爆風と煙だけが礼拝堂の中になだれ込んできた。
(暑い……)
滴る汗をぬぐう間もなく、ナギは二発目、三発目を入り口扉に撃ち放った。舞い上がった砂煙で標的は見えない。ただそこにいるだろうという予測で撃てば、次々と悲鳴が上がる。八番隊に転属してからこっち、ここまで雑に戦うのは初めてだ。サクヤはいつも的確に作戦と指示をくれたし、それはいつもどこか整然としていた。
五発目。扉周辺の壁が崩壊する音で、奇しくも集中を取り戻す。
(やばい!)
怒り狂ったニーベルングが低い体勢でナギめがけて突進してきた。鰐のように大きく口を開けてニブルを吐く、その口内にほとんど零距離で一発を撃ち放った。くぐもった破裂音、ワンテンポ遅れての爆風に煽られてナギは後方に倒れこんだ。暑さと疲労で意識が朦朧とする。
パンッ──魔ガンの轟音とニーベルングの悲鳴に慣れ過ぎた耳に、そのシンプルな音はひどく異質に聞こえた。だからその音が単純な銃声であることに考えが及ぶまで、数秒を要した。
(え……銃声、って何で)
思考が鈍い。暑さと疲労と耳鳴りと、とにかくそういうもののせいだと思った。
新手のニーベルングが侵入してこないことを横目に確認しながら、ナギは銃声のした方へ歩を進めた。隣室の扉を開ける瞬間には、おそらく自分でも全てを察していたと思う。それでも目の当たりにした光景を理解できず、ただ茫然とした。
少年は埃だらけの床にうつ伏せていた。頭から血を流して、左手に拳銃を握って。ナギはぼんやりとした意識で、ああ彼は左利きだったのかなんてどうでもいいことを考えていた。そしてどうしてこうなったのかは分からずに、その冷たくなった体を眺めた。見慣れた銃だった。普段はジャケットの内ポケットにねじ込まれている、シグのハンドガン。
思考が止まる。今自分がどこに居て、何のために何をして、どうして血だまりの床を見つめているのか、答えが出ているはずのもの全てに疑問がわいてきた。
(合流……した方がいいのかな)