episode iii 家畜に首輪を与えてはならない


 遥か遠くの方でガラスの割れる音がした。未だに割れてない窓があったのか、などとまたどうでも良いことが頭をよぎる。振り向いた先で、一際図体のでかいニーベルングが首をもたげていた。天窓を突き破って降って来た悪魔は、夕陽に照らされてどこか神々しくもある。
 反射的にあがるはずの腕が石のように重かった。狙いを定めたら躊躇わず撃つ、引き金は静かに引く──反芻したのは脳内だけで、体は全く動いてくれなかった。
 ギャアアアアア! ──撃ってもいないのに爆発音と熱風、そしてニーベルングの悲鳴が轟いた。
「ナギッ!」
珍しく切羽詰まった声でサクヤが乱入してくる。首だの羽だの突起物を振りまわしてのたうちまわるニーベルング、神像が倒れ、ステンドグラスが弾け、整然と並んでいた長椅子の木片が辺りに飛び散った。
 サクヤは動じず次弾を放つ。いくら暴れていようが的が大きいので、冷静さを欠かなければまず外すことはない。装甲が厚いタイプなのか、直撃を受けてもほとんど炎が上がらなかった。その代わりに肉のこげた臭いとニブルの独特な刺激臭が広がる。
「大丈夫かい? ちょっと離れて……」
小走りに駆け寄って来たサクヤの眼に、開け放したままの小部屋の光景が映った。優先順位はすぐに決まる。今は隣で呻いている瀕死のニーベルングにとどめを刺すことの方が先決だ。サクヤは躊躇なく、ニーベルングの口内に魔ガンを突っ込んで引き金を引いた。
 ナギはその一部始終を全てぼんやりと眺めていた。臨場感が無い。サクヤがこういう戦い方をするのも初めて見るような気さえした。
「ごめん……」
それだけ言うのがやっとだ。サクヤは何も言わない。ナギを見ても、少年の亡骸を見ても一度頷いたきりだ。
「……しっかりするんだ。君までそんなでどうする」
 部隊長らしい一言だと思った。その通りだ。切り替えて今後の補佐に全力を投じるべきである。
「……援軍は」
頭の中で考えていたこととは全く別の台詞が口をついて出た。サクヤは黙ってかぶりを振った。
「私たちは……切られたんだね」
「今はよそう。どこかで足止めをくってるのかもしれないし、悲観的になってもはじまらないよ」
「何それ。どこまでおめでたいのよ、あなたは……! 笑って全滅しろって言うの? これが偶然でも何でもないって分かってて? ……私はもう撃てない! 誰も守れないよ!」
 限界まで張り詰めていた虚勢の糸が音を立てて切れた。より正しい方を、より美しい方を、より倫理的な方を──サクヤはいつもそれらの幻想を滅茶苦茶な論理と行動で真実にしてくれる。それなのに今回に限って何故そうじゃないのか、そんな理不尽で自分勝手な理屈が胸中でどろどろと渦巻いていた。一方頭の隅では、これが無意味なやつ当たりだと分かってもいる。分かっているからなおさら──目を伏せた反動で涙がこぼれた。
 その涙をせき止めるように優しく、頬に何かが触れた。それがサクヤの左手だと認識した次の瞬間には唇が触れていた。ただただ優しく触れるサクヤの口づけ、その数秒はナギの混乱した頭の中を真っ白にするには十分すぎるほどの長い時間だった。時が一瞬だけ止まったようにも思えた。思考も、呼吸も、意思に反してこみ上げていた涙も魔法のように止まる。
 唇がゆっくり離れ、ナギが思い出したように瞬きをすると、睫毛に溜まっていた涙の雫がサクヤの手の甲にぽつりと落ちた。いつの間にか抱き寄せられている。
「大丈夫、全滅なんてしないさ。生きて帰ろう。僕が殿を引き受ける。その間は君が隊を引っ張るんだ、いいね?」
「え、あ、はい。了解」
耳元でサクヤの穏やかな声が響く。訳も分からずいつのもの癖で返事をした。サクヤは微笑んで、少女をあやすかのようにナギの頭を優しく撫でた。不思議なことにそれだけで、何とかなるような気がしてきてしまう。醜く弱くその上単純な自分に呆れ果てると、一番シンプルな答えで満足できるようになるらしい。彼の言うとおりひとまず、生きて帰ろう。
 サクヤは大穴となった天窓に向けて信号弾を発射した。撤退合図の赤い狼煙が、緩やかに弧を描きながら空へ空へとのぼっていく。それを見送りながら通信機に向けて声を張り上げた。
「八番隊はこれより戦場を放棄、撤退する! 全隊、身の安全を最優先に北北東に退路をとれ!」
『了解。サブロー以下三名先陣切ります』
「ナギです。バルトたちの退路を開きます。合流ポイントを教えてください」
『アンジェよ。管制塔の真下にトラップ張ってあるからそこで構わない?』
「了解、すぐ向かいます」 
 ナギはいつものように毅然とした声で応じた。置かれた状況も考えたことも、おそらくそう変わらないはずの八番隊メンバーは誰ひとりとして諦めてなどいない。だから何とかなる。サクヤ・スタンフォード率いるグングニル小隊第八番隊は、グングニル最強のエリート(くずれ)の集まりなのだから。
「サクヤは……後から、来るんだよね……?」
「さっき言った通りだよ。僕はこの辺りをあらかた片づけてから最後に合流する。心配しなくても──」
「心配は、してない。合流地点でみんなと待ってる」
あまりにもきっぱり言われたせいか、それはそれで微妙に不服そうなサクヤ。ナギがきびきびと補弾する様子を苦笑を漏らしながら見守った。

 
 管制塔で予定通りアンジェリカたちと合流、バルトは負傷といっても利き腕とは逆の左肩から手首にかけて大火傷を負ったくらいで、最悪多勢のニーベルングに囲まれた場合は応戦可能な状態だった。というのはバルトとの合流直後にナギが抱いた感想であって、当人と手当てにあたったアンジェリカは割と重症のつもりでいる。
「面目ねぇ。情けねぇ限りだよな、女三人に守られて撤退ってのは」
「またそういう古臭い発言する。わけわかんないこと言ってないで、自分で体重支えなよ。アンジェつぶれちゃうでしょ」
「お、おう……」
ナギの一喝に返す言葉もなく押し黙るバルト。その巨体を支えながらアンジェリカは堪えていた笑いを噴き出していた。小さくなっているバルトも面白いが、泣きはらした目で普段通りを装うナギもなかなかの痛い産物だ。涙の理由は聞かなかった。話したければナギが自分からそうしてくるだろうと思ったし、何より今はそれどころではないというのが本音だ。
 索敵はマユリがやってくれる。いつになく眼鏡を光らせてぬかりのない良い仕事っぷりだ。
「ナギちゃーーーん! 1時の方向、イーグル級!」
「先制しよう。マユリ、援護お願い」
「あいよっ」
ナギのサイドテールとマユリのポニーテールが文字通りぴょんぴょん揺れるのを、バルトは生温かい目で見ていた。気分は娘を見守る父親、と決め込みたかったのだが視線の先には一切の容赦なく魔ガンをぶっ放す鬼神さながらの二人がいる。ガンナーズハイとでもいうのか、マユリが嬉々として魔ガンを撃つのはいつものこととして、今日のナギはいつもに増して集中しているようだった。威力に頼らず、精密にニーベルングの頭部を狙う。
「なんか、あったんだよなあ、あれは。隊長もナギにいろいろ要求しすぎじゃねえのか」
「それバルトが気をもむ必要全くないから。それより重い。何よっかかろうとしてんの、殴るわよ」
またも押し黙るバルト。彼の仕事はとにかく黙って自らの体重を支えることくらいだ。
 言い合いをするくらいしかやることのないバルトとアンジェリカの眼前で、また一体ニーベルングが沈んだ。どこにそんな元気が備蓄されていたのか、マユリは無邪気にガッツポーズ。そして誰に促されずともまた眼球を光らせて索敵に戻る。