episode v 魔女は琥珀の涙を流す


「とりあえず一体」
「ちょ! 馬鹿! 痛い死ぬっ! 死ぬって!」
 サブロー方面(というより後方にはもうサブローしかいない)から、愛犬と戯れるときのような気の抜けた声が聞こえる。それでもシグは向かってくるバーディ級ニーベルングに二発をたたきこんだ。着弾し、爆発もしたのに倒れてはくれないらしい。足止めになった程度か。
「くっそ! どれだ、優先順位!」
とりあえず、後方の気の抜けた空気読まずに文句を言うのが先決だと思われた。が、鬼神のごとき形相で振りかえった直後に、シグは顔をひきつらせて一歩後ずさった。小さく「うわぁ……」などと憐憫の声も漏らしてみたが、サブローには聞こえてはいないだろう。
「シグっ。見てないで助け、ろ、よっ。って痛い痛い痛い痛い痛い! いやなんか冷てええ!」
 サブローは腰を抜かしていたわけではなかった。ニーベルングに押し倒されていろいろな意味で危機一髪状態だったのである。これで三体だ。これ以上増殖されると本格的に手に負えなくなる。
「マウントとられてれば逆に外さないでしょう。寧ろそっち任せます」
「こっんの、言ってくれるけどなあ!」
ニーベルングの胴と自分に胴の僅かな隙間に、懐から抜いた魔ガンを無理やりねじこませる。この状態で撃ったら反動で自分もただじゃすまないのではないだろうか。いや、確実に重症を負う。ほとんど自爆ではないか。などと半泣きになっていると、シグの援護射撃がこちらのニーベルングに直撃する。視界が白くなった。同時に全身、燃えるように熱い。
「あっちい! シグぅぅぅぅ!」
「撃ったら撃ったでやっぱり文句言うじゃないですか」
「言うに決まってんだろ! っていうか今だわっ今しかないわ、反撃チャンス!」
 今度はサブローの方がニーベルングにがむしゃらにタックル、馬乗りになった。全身を灰で塗りたくった暴れ馬に跨っている気分だ。蹴られる前に容赦なく魔ガンを連射する。零距離で撃つことに変わりはないが自分が跨っている分には巻き添えで重傷ということはない。一発。二発。三発。
「おいおいおい、いい加減落ちようぜ……!」
四発目。腹部に押し当てて引き金を引いているのに、貫通していないのか。であれば、照準を変えるしかない。五発目は一呼吸置いた。そして起き上がろうとするニーベルングの口内に向けて引き金を引いた。爆発して、ニーベルングだったものが四散する。
「あーきっついなこれ。久々の、もろに生きもの殺してる感覚」
グングニル隊員の大半はこの感触を「手ごたえ」だと言う。
「いつもは死体でも撃ってるつもりですか? あ、初弾しか撃たないか」
 サブローは八番隊所属以前、自らの誤射で同僚を撃ち抜いたことがある。以来、対ニーベルングであっても率先してとどめの一発を放たない癖がある。グングニル中で有名という話でもないが八番隊メンバーは当然事情を知っているし、サクヤは承知の上で八番隊に引き抜いてくれた。
「初弾しか、は言い過ぎだろ」
 ふらふらと立ちあがる満身創痍のサブロー。シグの皮肉に全力で反論する精神的余力が残っていない。
「まぁ後は引き受けますから、目立たないところでゲロ吐いてていいですよ」
「かわいくね~。とか言って早速取り逃がしてるじゃんか」
 もともとシグが相手取っていた一体は気付けば全力逃亡中。それを追うは我が隊きっての人間離れ女子マユリ。鋭い眼光、いや鋭い眼鏡反射で相手を威嚇しつつ距離を詰め──られるわけもない。路地に積み上げてあった廃棄トマトをぶちまけ、干しっぱなしのまま忘れ去られていた洗濯ものを撒き散らし、それでもなおニーベルングは止まらない。
「無理だろ、普通に」
「マユリー。そのままこっち誘導してー」
シグが気だるく手をあげる。
「かったいぞ、あれも」
「分かってますって。二連でだめなら十六連」
さらりと言ってのけた後に、何食わぬ顔で両の魔ガンを連射、連射、鬼連射。その全てが一片の狂いなくニーベルングに着弾して爆発する。ようやく焔がメラメラと音をたててあがり、火柱となって周囲を照らした。火柱の中心は先刻のサブローよりも一段とふらふらした様子でこちらへ歩み寄ってくる。
「オーライ、オーライ」
シグは優しく誘導。橋の先端で優しく、渾身の力で以て蹴落とした。撃って燃やして運河に落とす、まさに外道の所業である。暗がりの水面から、肉の焦げる臭気と蒸気が立ち込めた。
 つい、心の底からの疲労の溜息が出てしまう。それも二人揃ってだ。
「何とか片付いた、って言いたいところだけどな。状況は芳しくないな……」
 ガス燈の光が、今夜の凄惨な現場を煌々と照らし出す。散らばった衣類、路上に広がる赤い液体(トマト)、つぶれた肉(トマト)、頭部の無い焦げたニーベルング一体、炭になりかけた血濡れのニーベルング一体。
「シグさんお疲れでーす。えーと……一匹捕り逃がしちゃってたりします?」
あれだけ走りまわっておいて息も切らさずマユリが合流してくる。そして何の躊躇もせず現状を的確に再確認させてくれる。
「シグ……お前今何考えてる」
「責任の所在はどこかってことですかね」
 今宵、ビフレストの住人から新たな被害者は出なかった。仕留められたニーベルングは、オペラ座のイーグル級を含め三体。視認されたニーベルングは、四体である。それは「今宵」を終われない理由には充分すぎるものだった。


 夕食なのか夜食なのか、まさか朝食ということはないだろうが、とにかくよく分からない食事を黙々と摂っていた。ソーセージ、オリーブとレタス、薄切りハム、それらを適当にバゲットに乗せて頬張る。ナギはいつものように全部載せのゴージャスパンだが、シグは兎のようにレタスだけをもしゃもしゃと千切って食べるし、サブローに至っては食欲がないとかで一切手をつけていない。時刻は午前二時。本来なら今頃しっかり睡眠を摂れていたはずだ。草木も眠ると専ら噂のこの時間帯に、よもや冷えたソーセージを食すことになろうとは。
「確かに、バーディ級なら民家の戸口を破壊せず侵入することが可能だ」
サクヤがオリーブを摘まみながら、どこか感心した風に言ってのける。それから自嘲したように苦笑を漏らした。
「まさかニーベルングから陽動を食らうとは思ってもみなかったけどね」
「でも全くの盲点ってわけでもなかったんだろう? だからこその入念な見回り態勢だったわけで」
バルトの視線がちらちらと巡回組四人に向けられる。遠回しに彼らを非難しているのだろうが、当の四人は皆わざとらしく視線を逸らして直風を回避していた。
「いや、一杯食わされたのは事実だよ。巡回班は上手く対応してくれたと思う。ただ、作戦の性質上今回は一体でも逃走させるわけにはいかない。朝までには残りの一体を仕留める必要がある」
「仕留めるったってなあ……そもそもそのバーディ級はどっから湧いて出てきたんだ?」
「それについては心当たりがないことも無い……けど憶測の域を出ないからなんとも」
「ひょっとして運河、ですか」
あっけらかんと提案するサブローに対して、サクヤの方が慎重を期していた。
「どうしてそう思う」
「どうしてというか単純に消去法です。市街は隅から隅まで念入りに調べましたし、あの厳戒態勢の中で外部から侵入されれば、いくら囮が効いていても気づきます。それに……これが一番の理由ですけど、濡れてたんですよ。俺を押し倒してきたニーベルング」
「サブローを、押し倒したニーベルング」
「……いや、復唱すべきとこそこじゃないです」
サブローの控え目な突っ込みは、サクヤをはじめ全員から無かったことにされる。