episode v 魔女は琥珀の涙を流す


「何それ。ほとんど決まりじゃない」
「水陸両用ニーベってとこですか。斬新ですねー」
 すぐさま同意を示すアンジェリカとマユリをよそに、シグは一旦自分の記憶と照らし合わせてみることにした。が、先刻の記憶を遡ってすぐにそれが無駄だと悟る。接近戦とはいえ、自分は常にある程度の距離を保って応戦していたし、例え濡れていたという事実の補強ができたとしても、それがニーベルングの潜伏先を決定づける要素にはならない。それに、後押しがあろうがなかろうが、次の一手を決めるのはサクヤの仕事だ。
「確証はないけど、それ以上に時間も無い。やるしかないだろうね」
「何か策が?」
意外だったのか、シグが半音高い疑問符を浮かべる。サクヤはまたもやオリーブを頬張りながら不敵に笑った。
「市街の警護は朝まで六番隊に任せて、僕らはこれから手分けして、運河各所の水質検査を行う。ニブル濃度が基準値を大幅に超えてなければそれでいい。その後の編成は……そうだな、立候補制でいこう。この中で泳ぎが得意な人!」
 サクヤのけしかけに、八番隊の面々は凝固した。数秒後に各々顔を見合わせる。誰も手を挙げないし、まさか推薦する者もいない。皆、本能的にこれだけは察しているのだ。手を挙げたら最後、地獄を見る羽目になる。
「ゼロかぁ……じゃあまあ仕方ないけど、この間の能力測定データを取り寄せてもらって」
「……いい。覚えてるから、私」
ナギが諦めたように深々と嘆息し、自ら挙手。その視線の先では、やはり自覚があるバルトが死刑宣告でも言い渡されたかのように堅く瞼を閉じて俯いていた。


 東の空が白んできた。
 あれから八番隊は、市内の運河24か所にポイントを定め水質検査を実施、全てのポイントでニブル濃度が(かろうじて)基準値以下であることを確認した。つまり、汚染はされているが、すぐさま死ぬようなレベルではないということだ。この結果はナギとバルトにとっては、非常に残念なものだった。
「必要な準備は整った。“フィッシング作戦”についてもう一度確認するけど、二人ともいいかい?」
二人とも──ナギとバルトは、生気も無く生返事だ。気力と体力が無いのは何もこの二人に限ったことではない。サクヤの言う「フィッシング作戦」の直接の遂行者に抜擢されなかった者たちも、不眠不休が祟ってひたすら省電力状態。深夜から今の今までひたすら市内巡回を続けている六番隊なんかは、ほぼウォーキングデッドだ。徹夜明けでハイになっているのはサクヤくらいか。
「僕とナギ、バルトはそれぞれ指定の三か所に分かれてニーベルングを文字通り“釣る”。バルトの餌は『人間』、つまり君自身だ。今までの被害者に年齢や性別の偏りはなかったから、バルトでも問題ないと思う」
 一睡もしていないのはサクヤも同じだ。思考は冴えているのだろうが、いつにも増して鮮やかに辛辣だ。後方で聞いていたリュカが笑いを噴き出す。彼にはまだそんな体力があったらしい。
「ナギはこれ。……申し訳ないけど、君しか適任がいない」
ナギが渡されたのは、小指大の試験管二つ。ひとつひとつが緩衝材を張り巡らせた厳重なケースに収納されている。グングニル機関が特別な管理体制の元所持する、ニブルの水溶液だ。ナギの知らない間に規定が改定されていない限りは、これの取得にも使用にも膨大な手続きが必要なはずだ。夜中の数時間で手に入る代物ではない。出所を問い詰めたかったが、聞くだけ疲れそうなのでやめておいた。世の中には知らない方がいいこともある。ぼんやりした頭で適当に納得すると試験管を受け取った。
「水中に流していいのね?」
「うん。ただし、さっき確認した位置からは絶対に動かないでくれ。効果が無いと分かったら水門を閉じる。その判断は僕の方でするから、ナギは合図を待ってくれ」
 ナギは黙って頷いた。
 ニーベルングは彼らの生命線であるニブルに寄り集まってくる。人間で言うところの酸素が、ニーベルングにとってはニブルというわけだ。一度補充したニブルは体内で長期間備蓄が可能で、彼らはその備蓄分をを生命活動に当てている。自分たちの生命線が、人間にとって猛毒たりえることが知れた現在では、惜しげも無くニブルを吐きだしてくる好戦的なタイプもいる。何にせよ、この「餌」はナギにしか扱えない。並はずれたニブル耐性を持つ彼女しか、ニブルの水溶液に浸かるなんて真似はできないからだ。
「俺は人身御供で、ナギはニブル漬け。こういっちゃなんだけど、随分危ない橋を渡ってんじゃないか、今回。加えて隊長自身があれだろ……」
顰め面のバルトの視線の先には、真っ黒なゴミ袋を二つ抱えたサクヤの姿がある。どちらもそれなりの重量があるようで、立ちあがる際に「よいしょ」なんて爺むさい声が漏れていた。中身に関してはこの場にいる全員が承知している。故に全員が揃って後ずさる。サクヤは隊員たちの反応などお構いなしに、きびきびと魔ガンのチェックを始めた。
 ブリフィーングを終え、バルトもナギもそれぞれの「餌」を持って所定の位置に向かう。六番隊には、街中に潜伏しているであろうバーディ級ニーベルングをおびき出したたく、という作戦の概要のみを伝えてある。それだから早朝一番、ざぶざぶと水路に入っていく三人の姿は奇怪なものにしか映らない。皆、訝しげに顔を見合わせていた。
「う~……。ニブルどうのこうのの前に風邪ひきそう……」
 ジャケットを脱ぎ、シャツだけになったナギが、ぶつくさと独りごちながら運河の真ん中まで進む。つま先立ちでぎりぎり顔が水面に出るくらいだから、バランスを崩せばすぐさま頭まで水に浸かることになるだろう。それだけは避けたい。運河の水質はニブル汚染度を抜きにしても、お世辞にも綺麗とは言い難い。
 可能性は低いだろうと思いつつも、ナギは渡された試験管の中身をぶちまけた。たいして美しくもない水面は、広がるニブル水溶液のおかげで更にどす黒く変色していく。この光景だけで、もりもりと罪悪感が湧いてきた。それを遮断して、橋の上に待機しているシグに視線を投げる。後は獲物が網にかかるのを待つだけだ。
 一方、オペラ座に程近い運河では、バルトがヤケクソ気味に波をきっていた。橋の上にはリュカとマユリ。餌であるバルトには適度な味付けが必要だとかなんとかで、塩コショウだのトマトソースだの思い思いに案を挙げてくれる。楽しそうだ。そして究極的に鬱陶しい。和気あいあいと調味料トークを繰り広げている二人を睨みつけながら、バルトは手持ちのナイフで左ひじから手首にかけて浅く切り込みを入れた。間髪いれず橋の上で悲鳴が上がる。
「うわあああ! バルトぉっ! 何でこの状況で壮大に自決しようとしてんだよっ」
「いやあああ! バルトさんが死んじゃうよぉぉ! ……それ困る! まだ『死後、ハーゲンはマユリちゃんに譲ります』って遺言書いてもらってないから!」
二人仲良く手すりから身を乗り出して、バルトの死を悼んでくれる。否、どこか愉快そうだ。こいつらは、橋上で静かに待機という子どもでも守れる指示が守れない。バルトの額に特大の青筋が浮かび上がった。
「すっこんでろ、このボケナスコンビが! 釣りは静かにやるもんだろうが! お前らのおかげで来るもんも来なくなっちまう……っ」
運河に輸血しながら鬼の形相で仲間を威圧。ボケたナスのコンビは揃って静かになったが、餌本人が一番の騒音をまき散らすのだから本末転倒である。リュカとマユリは橋の手すりよりも低くしゃがみこんで耳打ちしあう。
「あれだろ? とりあえず人間の餌っつったら、血流しとけば何かしら寄ってくるみたいな短絡思考ってことだろ? ニーベルングが血液大好きっていつ聞いたよ? 初耳だっつーの」
「仕方がないじゃないですか。餌がそもそもバルトさんなんですよ? 本人も付加価値が必要だと考えたんじゃないでしょうか」
「冷静に考えてみろって。血ぃ垂れ流してるバルトと、垂れ流してない美女だったらどっち選ぶ?」
「美女ですね」
「な? あの垂れ流し攻撃に何の価値があるってのよ」
「血迷ってるということでしょうか」