「お! さすがマユリっ。うまいこと言──」
リュカの背中に悪寒が走った。恐る恐る手すりから頭だけをのぞかせる。と、眼球を血走らせたバルトが仁王立ちでこちらに銃を向けていた。徹夜明けのバルトはやることなすこと直球すぎる。リュカは何も言わずに両手を挙げたが、時すでに遅し。バルトの銃は腹いせとばかりにあっさりと火を噴いた。
遠くで微かに聞こえた銃声に、サクヤは顔を上げた。橋の上で肩をすくめるアンジェリカと目が合う。これが魔ガンの発砲音だったなら血相を変えたところだが、今はアンジェリカと同じ反応で留めておく。
「隊長ー。ここから落としていいんですねー?」
アンジェリカの横からサブローが顔を出す。先刻サクヤが抱きかかえていた黒いゴミ袋二つを掲げる。心なしか、顔全体が引きつっているように見えた。サクヤが頷くのを待って、ゴミ袋の中身を運河にぶちまける。どす黒い漬物石のようなものが、二つ、結構な音と水しぶきをあげてサクヤの横に落ちた。サブローもアンジェリカも、やはり砂利を噛んだような渋い顔つきだ。サクヤだけが、平常通り。胸まである水から守るために、魔ガンは頭上で構えたまま静止する。
「聞ける雰囲気じゃなかったから黙ってたけど……あれでニーベルングが寄ってくると思う?」
「さあ? 少なくともサクヤ隊長は思ってるんでしょ。だったら私たちが口出す余地はないんじゃない?」
「まあそうなのかもしれないけど……。なんでこういう発想に辿り着くのかが俺にはさっぱり分からないっていうか。根拠があるんだよな、きっと。なんかこう、サクヤ隊長とかの、一部の人間は知ってる事実みたいな」
サブローの遠回しな言い草に、アンジェリカは思いきり不快を顕わにして半眼を晒した。
「……サブロー、あなた結局何が言いたいわけ? サクヤ隊長の頭の中がぶっ飛んでるのは今に始まったことじゃないし、その根拠が何だろうが私は知らないし興味も無い。……そのあたりを詮索するならそれなりに覚悟を決めなさいよ」
予想以上に攻撃的な切り返しをみせるアンジェリカに、サブローは思わず後ろ手に頭をかいた。普段は中立を装うから忘れていたが、アンジェリカの隊長崇拝レベルは随一といっていい。
「いや、違う。そういうつもりはない。単純な好奇心ってやつだよ。たまに確認いれないと、自分の感覚が一般的なのかどうか怪しくなってくるだろ。特にあの人といると……」
薄汚れた運河の真ん中で、サクヤは先ほど投げ入れられた塊の配置に頭を痛めている。凝るべきところは絶対にそこじゃない。あ、顎先に右手まで当てがっている。かなり真剣ではないか。
「その点においては、サブローの意見に賛成ね」
アンジェリカも呆れたように嘆息して、唸るサクヤを見下ろす。あの塊を何の躊躇も無く「餌」にしようなどという発想は、まず自分たちにはない。サブローが不審がる(というより不安がる)のも無理はない気がした。
サクヤの両脇に沈められたのは、昨日シグとサブローが仕留めたバーディ級の肉片である。ほとんど丸焦げ状態だったそれから、できるだけ焼けていない部位を選別して解体したのはサクヤだ。その時点で常軌を逸している。徹夜明けの疲れた思考回路でなければ、何人かが全力で制しにかかったと思うのだが、結果的にはこの状況になっただろう。ニーベルングは共食いしない。もっと言うなら、人間を食糧とするといったイメージもでっちあげだ。彼らが行う破壊と殺戮はそれそのものが目的であり結果である。そうは思ってない人の代表があそこで肉片と共に運河に浸かっているわけだが。
「サブロー、アンジェリカ。悪いけど退路を塞いでくれないか」
前触れも無く、緊張も無く、当然焦燥も無く、サクヤが声だけを張る。聞き返すまでもなく二人の体は条件反射で動いていた。動いてから眼前の光景に目を奪われて、とりあえず噎せる。妙な器官に酸素を目いっぱい送りこんでしまったようだ。
サクヤの前へ、浮島がゆらりゆらりとにじり寄ってくる。さながら鰐の頭蓋だ。それが何であるかは確認するまでもなかった。
「隊長!」
このまま水中で下半身を噛みちぎられでもしたら洒落にならないな、とじっくりのんびり想像してから足元に一発威嚇射撃を放った。必要以上に火力があるから、それだけでとんでもない水柱が聳え立つ。運河の底が一瞬顕わになった。水柱の中央に、ニーベルングの陰影がちらつく。
グギャアアアアアアア! ──猛る。猛り狂うその黒い影に、サクヤは心を奪われた。目の前の獣は怒りに我を忘れている。哀しみに押しつぶされている。思い込みではなく、そうとしか捉えられない淀んだ瞳に、冷徹に魔ガンを構える自分の姿が映し出されていた。
「……すまない」
重くこぼれ出した言葉とは裏腹に、指先は既に引き金を引いている。
「こういう手段をとりたかったわけじゃないんだ。ただ、僕らにも守らなければならないものがある」
言いながら大層な量の返り血を浴びた。ジークフリートの威力を以てすれば、バーディ級の頭部など跡形も無く消し飛ぶ。例の強固な皮膚が防御壁となって、周囲にはほとんど衝撃がもれなかった。ただ巨大な風船を力の限り押しつぶしたような軽快で不快な破裂音が轟いただけだ。
「ほんとに出た……」
サブローはただ唖然としている。それを改めて認識する前に標的は塵芥になった。残った尾だけが異常に元気に跳ねまわっている。巨大なトカゲの尻尾切りのようだったが、その実は逆の現象である。
後始末という一番億劫な作業が残っているが、サクヤは一旦何も考えず運河から出ることにした。何か途方も無い疲労感と嫌悪感がのしかかってくる。達成感が無いのはいつものことだが、こう鬱屈とした気分も久しぶりかもしれない。深く、ただ深く息を吐く。
どれくらいそうして瞑想していたのか、気がつくと方々に散っていた八番隊隊員は全員事後処理のために集まっていた。
「お疲れ様」
ナギの声と差し出されたタオルで我に帰る。そうだ、ナギとバルトには結果的に無駄足を踏ませている。そうでなくても全員不眠不休で空腹だ。部隊長がこんなところで立ったまま寝ているわけにもいかない。考えるべきことは後でいい。今はやるべきことを優先させよう。
「六番隊に撤退指示を出してくれるかい。ここの後始末が済んだら、僕らも帰ってきちんと休もう」
「市民誘導はどうするの?」
「僕の方でやる。多少説明もしないとまずいし、まあどうせ日を改めてもう一度来る必要はあるだろうけどね。そうだ、ナギは……体の方は何ともない?」
ごく自然に、おそらく無意識にサクヤはその心配を口にした。高濃度のニブル水溶液にどっぷり浸かること数十分。ニブル病を発症するには充分すぎる時間である。他の隊員なら、否、他の全ての人間だったら今頃生死の境をさまよっているはずだ。
ナギは困ったように笑って小さく嘆息した。大丈夫だと、何ともないと言って流していい会話だったのだと思う。それがナギ・レイウッドの取り柄で、他者とは一線を画すグングニル隊員としての強みだ。そう信じて生きてきた。そう信じて、周囲全てを欺いてきた。そのことにサクヤはもう気付いている。
「大丈夫。何ともないよ。それよりバルトがなんか謎の怪我してる」
「え? なんで?」
ナギが指さす先で、冷えと失血で青ざめたバルトがアンジェリカからこっぴどく叱られている。その後方でリュカが腹を抱えて笑っているが、彼は一体全体どこにそんな体力を隠し持っていたのか疑問である。
ひどい睡魔が襲ってきた。山積みとはいかないまでもまだ仕事が残っているから、こんなところで悠長に立ち話をしているわけにもいかない。ナギも自分の職務に戻ろうと踵を返した。そこへ──。