「お……おう。そういうことかもな」
まさかの人材が場をまとめてくれたおかげで、バルトもすごすごとソファーに落ち着きなおした。
チェス第二戦が始まっても、バルトはどこか上の空でいた。サブローがちらりとその表情を盗み見る。たぶん──考えていることはここにいる全員、そこまで大差ないのだと思う。アンジェリカは元より、リュカやマユリでさえ「そのこと」を除外したりしない。ただ、バルトはそういうのがあからさまなだけだ。事はそう簡単じゃない。簡単じゃないからできるだけ単純であるように、祈るだけだ。
「思ったより大降りになったなぁ」
どこか他人事のように呟いて、どす黒い空を見上げた。普通の声量だったのかもしれないが、屋根に、窓に、地面にたたきつけられる雨音でかき消される。ぶらりと立ち寄った雑貨店を出てすぐこのありさまだ。店の軒下にはいるが、この雨量と勢いだとあまり意味はないのかもしれない。
「ねえ……大丈夫? 中に入った方がいいんじゃない?」
「いいけど息苦しいと思うよ。ニブル中毒の前に酸欠になりそうだ」
突然の豪雨で難民化しているのは当然サクヤたちだけではない。狭い雑貨店の中には雨凌ぎの人々がひしめき合っている。新装開店の賑わいと言えば聞こえはいいが、その大半は明らかに客ではない。
サクヤはナギよりも街路側に立っている。ナギが雨に濡れないように気を遣ってくれているのだろうが、そういう彼の無意識が時折とんでもなく腹立たしい。逆だろう、とナギは手加減なしにサクヤの腕を引いた。雨に濡れて死ぬ奴はいないが、大気中のニブルを一身に背負って降ってくるこの雨は別だ。
「私がそっち、立つから」
有無を言わさず立ち位置を逆転させる。それだけで肌寒さが一気に増した。灰色の雨。空だけでは飽き足らず、見える景色全てを一様に暗灰色に染めていく。足元で撥ねる泥さえ、ただただ毒の色だ。
「……ひょっとして、怒ってる?」
「は? 怒ってない。ただなんでこういうときだけ頭が働かないんだろうと思って。それとさっきの、冗談でもああいうこと言うのやめて。笑えない」
(怒ってるな……)
ナギの回答はそっちのけでサクヤはそう独断した。彼女の「大丈夫?」が始まったら注意が必要だ。「大丈夫だ」と答えてもむっとするし、曖昧に笑って誤魔化そうとすればそれだけで逆鱗に触れる。ともあれ、まさか「大丈夫ではない」という回答ができるはずもないから、要は正解のない問いなのだ。
暫くは無言でいることにした。雨脚は強くなる一方で、どうせ下手に喋っても怒鳴り合いみたくなるのがオチだ。だったらぼんやり薄汚い雨を眺めているのもいい。雨がここまで汚染されているということは、雨上がりには少し清らかな空気というやつが拝めるかもしれない。サクヤはそんなことを一人考えていた。
死の雨か、恵みの雨か──雨自体に悪意などあろうはずがないのだから、決めるのは降られる側だ。ここにも悪意の無い残酷がひとつ。
「なんだか……空にぎっしりニーベルングが詰まってるみたい」
唐突に、とんでもない比喩で沈黙を裂いたのはナギの方だった。
「ごめん、私の方こそ不謹慎だね。あ、しかも休日にふさわしくない」
「こだわるね、それ」
「サクヤが言ったんだよ」
「……じゃあ忘れてほしい。塔内では話せないから、今できる限り君に話しておきたいことがある」
空気が変わったのは、雨脚が弱まったからじゃない。サクヤがこの瞬間に、あるひとつの選択をしたからだ。正確には、既に済ませていた選択──それをナギに話すかどうかは決めかねていた。その決断をしただけのこと。
ナギは知らず息を呑んでいた。サクヤはそれを了承ととった。
「……ナギは、ヘラ・インシデントが何故起こったか考えたことがあるかい?」
「────」
「じゃあ二年前のヨトゥン大襲撃は」
「何故って……都市の壊滅を図るのは侵略者の常套手段じゃない。それに、西から徐々に東へ侵攻してきてるのは明らかなんだし、ヘラもヨトゥンもその軌道上に──」
「イーヴェル区は?」
言葉に詰まる。サクヤは糾弾するかのように容赦なくたたみかけてくる。ナギが黙ったのを確認してから、サクヤはおもむろに口を開いた。
「あの場所にあれだけのニーベルングが集結してたって事実がどうしても引っかかる。イーヴェル区は確かに第一防衛ラインにもウトガルドにも近接した場所だけど、あそこを基地化するメリットがまるで無いんだ。ルートから大きく外れてる」
「ルートって……たまたまでしょ、そんなの」
「東へ侵攻してきてるってのはたった今、君が言ったことだ。ニーベルングの行動には必ず意味と確固たる法則がある。イーヴェル区の壊滅だけが、そこから妙に浮いてるんだよ」
ナギは黙った。何をどう言っていいのか分からない。更に言うなら、サクヤが何を言おうとしているのかもよく分かっていない。
「記録では、イーヴェル区が落ちたのはヨトゥン大襲撃が鎮圧された半年後。……リュートたち二番隊が鎮圧した後にも関わらず、何故内部で湧いて出てきたようにあれだけの数が集結できる? しかもあそこにいたニーベルングは全く東を目指そうとしていなかった。あれらは、他のニーベルングとは全く別物と捉える方がしっくりくる」
「別物……? でも……」
「イーヴェル陥落の際に出動した中部第一支部の隊員に話を聞きに行ったんだ。ほとんどが殉職してて探すのに苦労したけどね。……彼の証言と、僕の見解が一致したから確信した。あの場所には、そこにあるべきものがひとつも無かったんだ」
──綺麗だったよ、不自然なほどに。あんたならこの意味が分かるだろ? ──
何か違和感は無かったかという問いに、男は半ば投げやりに答えた。イーヴェルが避難区域に指定されたのは、陥落した後。避難する住民が既にゼロの状態で、だ。このあたりの記録をどう改ざんしたところで矛盾は生じる。避難命令が先なら、全国のどこかに相当数のイーヴェル出身者が残っていなくてはならない。しかし“イーヴェルの生き残り”には終ぞ出会うことはなかった。あの日、教会で自決したあの少年が唯一のイーヴェル区民だったのだ。
「遺体が、無かったって言いたいの?」
ナギが喉から絞り出すように声を出した。サクヤは何も言わない。頷きもしない。それなのにそれが肯定だと分かる。
「ねえ、はっきり言って。イーヴェル襲撃時に殺された人はいなかった、避難した人もいなかった、じゃあ何? そこで生活してた人たちはどこへ消えたっていうのよ」
「僕は──“ファフニール”が使用されたと思ってる」
ほとんど食ってかかるような勢いだったナギの思考が止まる。思考が止まれば表情も無論固まる。反応するまでに随分間があった。
「ん? はい? ファフニール? ってあの……魔ガンのプロトタイプの……?」
聞いたことがある、程度の単語だった。だから脳内を検索するのに時間を要した。
グングニル発足当時、眼には眼をニブルにはニブルを、という明快な理念のもとでニブルを素とした魔ガンが作られたことがあるらしい。極限まで濃縮したニブルを弾丸代わりに撃つ。それがニーベルング撃退には逆効果でしかないことに気づくまでそう時間はかからなかっただろうし、当然後継機は開発されなかった。今現在、グングニル機関が「魔ガン」と称するそれは、可燃・爆発性物質ラインタイトを素とした弾丸を撃てる銃火器のことだ。
「魔ガン・ファフニールは、発砲すると半径5キロ圏内に濃縮ニブルが拡散する。対ニーベルング兵器としては何の役にも立たないどころか、対人兵器としては間違いなく史上最悪のレベルに当たる。致死量の数十倍とも言われるニブルに晒された人体は、あまねくニーベルング化するわけだからね」