episode vi ジェリービーンズを7つ


サクヤは、予め用意していた台本を読むかのように躊躇なく言葉を口にする。
「世界は一枚岩じゃない。“ファフニール”を使って、ニーベルングを意図的に増やしている人間がいる。僕らグングニルは、その後始末をしているだけの存在だ」
 ナギは台本を持っていない。だから慎重に言葉を選ばねばならない。言葉のみならず、その立ち位置を選ばねばならなかった。サクヤは、あるかないかも定かではない“ファフニール”の関与を確信している。そして、イーヴェル区のニーベルングが『人為的につくられた』ものだと主張する。
 反芻して、まず襲ってきたのが吐き気だった。そして膨大な量の疑問符。何故? 誰が? 何の為に? その所業は人間が成せるものなのか? それを人間と呼べるのか? 私たちはそもそもその疑念を持つことが許されるのか? ──そして何故、目の前の男はそれらを平然と口にできるのか。
 こみ上げてくる胃液を留めるために手のひらで口元を覆った。それからナギは、できるだけ冷静になれるよう丁寧に呼吸を繰り返した。
「悪いんだけど……奇想天外というか、突拍子もなさすぎるというか……今回のはちょっと」
 雨はほとんどやんでいた。重苦しい鉛の雲が狂信者のようにただただ流れていく。意志も無く、救いも無く、光も無いその方向へ列を成して。
「だけど実際あるべき『死体』がない。どう説明する?」
死体はあるべきだと彼は言う。そこにあって然るべきだと。
「それに、ここのところ僕らが行く戦場も不自然にきれいだ」
「それも“ファフニール”で嵩増しされてるから?」
 ナギは口の端から、どうしようもない笑みがこぼれるのを止めることができなかった。嘲笑だったと思う。サクヤに向けての、あるいは自分に向けての、積み上げてきたもの全てががらがらと音をたてて崩れていく軽快さと爽快さに対しての。
「ねえ。今、自分が何を言ってるかサクヤ、分かってる? 要するにあなたは、グングニル隊員の中に……それもごく近しい人間の中に、“ファフニール”を撃っている人間がいるってことを言いたいんでしょ?」
「……そうは言ってない、可能性の問題だよ」
「同じことだよ。分からないの? あなたがそれを少しでも考えた時点で、私たちの信頼関係は崩れてるんだよ」
「……そういう、ことになるのかもしれないね。でも──」
 もう、駄目だ。もう、我慢できない。血液だとか胃液だとか、たぶん涙も、感情を乗せて吐き出せそうなありとあらゆる成分が頭部に駆けあがってきた。
「仮にそういう魔ガンがあったとして! 街単位で人間をニーベルングに変えてしまうような代物なんだよね!? そんなことを意図的にやって誰の得になるっていうの? だいたい物理的に無理でしょう、撃てる人間がいない。それとも毎回ガンナーは使い捨てとでも?」
「違うとは言い切れない。そもそも撃てる人間がいない、っていうのも断言は……できないよ」
 嗚呼、可笑しい──後から後から、笑いがこみあげてきてたまらない。まさかこんな台詞を自ら言う羽目になろうとは誰が思うだろう。毎度のことながら、それくらいにサクヤの言い回しは遠回しなのだ。突拍子もなく結論から話し始めるときもあれば、理屈を並べてじわじわ相手の気力を奪うのも得意、婉曲表現で堀から固めて完全包囲、なんてのも常套手段。
 だから自分は要点をまとめて、簡潔に伝えてやるのが仕事になる。
「……そうだね。私だったら、撃てるだろうから」
それがこんなに滑稽だったなんて。 
「そういうことを言いたいんじゃない、僕は──」
「あなたは昔からグングニル機関を疑ってた。良かったじゃない、その証明の糸口が見つかったんだもの。“ファフニール”があって、それを撃っている人間がグングニル内にいる。後は確証が得られれば完璧だね。あなたなら、きっとできると思うよ」
 驚くほどすらすらと言葉が出てくるのは、もはやこみ上げてくるものが何ひとつ無いからだ。体も心も乾ききっている。それとは切り離したところで、人は言葉を紡ぐことができるものなのだと、知りたくもない事実を知った。
 雑貨店の軒下から、ナギは霧雨の舞う街路へ踏み出した。ニブルの雨。毒の雨。自分には関係がない。今ここで“ファフニール”を撃っても撃たれても、自分だけは悠々と生き残る。
「……先に帰る。サクヤは、ちゃんと雨が止んでからゆっくり帰ってきて? それと、悪いんだけど、この件はサクヤ一人で動いてくれないかな。そうじゃないと、私が“黒”だったとき困るでしょ?」
 サクヤは黙っていた。──都合がいい。
 街路には誰ひとりいない。──都合がいい。
 ほんの数秒雨に濡れただけで、髪が、服が、頬がしっとりと濡れた。──都合がいい。
 ナギは踵を返すとそのまま走り去った。街は死んだように静かで、色が無い。その光景が蜃気楼のように聳えるグングニル塔まで続いている。どこかで鐘が鳴っていた。ナギはただ、無人の街路をひた走った。


 ついてないなと、シグは胸中でぼやいた。いや自業自得か、とも。
 目に見えて雲行きが怪しかったから、今日はミサが終わったらそのまま帰るつもりでいた。そういう日に限って思いきり寝過ごす。覚醒したときには、ミサはとっくに終わっていて、礼拝堂はがらんどうと化していた。神父はいつもそうするように、今日も慈悲深く、シグの爆睡を咎めることなく見守ってくれたらしい。
 どうせ誰もいないならと、顔をくしゃくしゃにして力の限り欠伸をした。続いて両腕を掲げて伸びをする。視界を埋め尽くす天井絵には、神とその御使いが祝福の種を蒔く様子が描かれている。度が過ぎるほどに荘厳美麗な光景は、何度見てもどうも居心地が悪い。だというのに、やることもなく、帰ることもできないからぼんやりそれを見ていた。傍からは、さぞ信心深い教徒に見えることだろう。実際は、眠れずに羊を数える子どもと大差ない。
 シグは再び瞼を閉じた。居眠るつもりは無いが、視界に不要なものがない方が落ち着くことに気付いた故である。雨音も、教会の中では静寂に色を添える音楽のように響く。その静寂を裂いて、重厚な扉が押し開かれた。シグは飛び起きて、やけに警戒して振り向いた。このニブルの雨の中、ミサの終わった教会を訪れるのは自殺志願者か盗賊くらいのものだ。が、訪問者はそのどちらでもなかった。
「ナギ? なんで」
 片眉を上げて訝しがるシグ。扉の前に立ったナギは、それ以上に驚いた様子で言葉も無くこちらを見ていた。
「なんでって……言われても」
黙っていたのは、理由をあれこれ考えていたからだったが結局この場にふさわしいものが思い浮かばない。叱られた子どものように目を伏せるナギに、シグはどこからかバスタオルを持ちだしてきて投げ渡した。暫く行方をくらましたかと思うと、またどこからか紙コップに入ったあつあつのコンソメスープを持って帰ってくる。勝手知ったる、にしたって知りつくし過ぎだ。タオルを首にひっかけたまま、ナギも唖然としていた。
「ここ、シグの実家じゃないよね……? って、これ勝手に飲んでいいの」
「いんじゃない? ミサの後に配ってるやつだし。……で、こういう場面に運悪く遭遇したからには、一応何があったか聞くべき? それとも見なかったことにすべき?」
シグには心配も興味も特にないようだった。それが今はひどくありがたい。
「見なかったことに……してほしい。いくらなんでも、ニブルの雨の中走り回ってたなんて知られたら、みんなに心配かける」
「雨は関係ないと思うけどね」
言い捨てて踵を返すと、もともと座っていた定位置に腰をおろした。前から三番目、説教台に続く中央通路側。通路を挟んだ反対側の椅子を、突っ立ったままのナギに勧めた。
「シグは何してたの、こんな時間まで。教会、誰も残ってないのに」
「は? 見てわかんない? 寝過ごして途方にくれてんだよ。誰かさんと違って、毒浴びながら無理やり帰る度胸は無いし」
「刺々しいなぁ……」
「生憎、余分な優しさは持ち歩かない主義なんで」
「そう」