episode vi ジェリービーンズを7つ


思わず微笑がこぼれたのを誤魔化すために紙コップに口をつけた。シグの基準では、このバスタオルもスープも優しさにはカウントされないらしい。ついでに言うなら、何も聞かずにこうして雑談してくれるだけで十二分に助かっている。その雑談も懸命に話題を探す必要はどうやらなさそうだった。ナギが黙ってスープを飲めば、シグも黙って大して興味も無い天井絵を眺める。彼は常にそんな感じだが、殊この場所では普段より一層落ち着いて見えた。
 また雨脚が少し強まったようだった。聖堂内に反響する雨音が、静けさに拍車をかけた。
「今日の雨は……やけにニブル濃度が高い……」
ナギも天井絵を見上げて、独り言のように呟いた。
「じゃあ誘われてニーベルングが寄ってくるかもな。今来られても、ローグもヴォータンも置いて来たから、まぁ黙って食べられるしかないんだけど」
「ローグも、ヴォータンも……」
固い長い椅子の背に首を預けて天井を眺めていると、無性に眠たくなる。おぼろげな思考のまま、シグの台詞を復唱していてあることに気付いた。そのままシグの方へ頭を傾ける。
「ねえ。まさかと思うけど、今この場に三本目の魔ガンなんか持ってきてないよね?」
「? フリッカなら持ってるけど。でもこれは──」
「呆れたっ。非番の日は魔ガンは携帯しないのが規則でしょ。よくもまぁ、教会にそんな物騒な代物持ちこむ気になるね?」
「言っとけど、これはバーストレベル1のお飾り魔ガン。撃ってもニーベルングどころか教会の窓も割れるか怪しい。暴漢が襲ってきたら威嚇にはなるだろうけど」
「いるいる。そういう言い訳する人。『ただ持ってるだけで使いませんから』みたいな」
 確かに、バーストレベル1の魔ガンは、練習用か初心者向けとしてか用を成さない。シグが持っていても箸にも棒にもならないだろう。事実、シグが実戦でフリッカを使用しているところは見たことがない。
「これはお守りみたいなもん。使わなくても、持ってれば俺にはそれなりに意味がある」
ナギは鳩が豆鉄砲をくったような顔。その理由は分かる。シグも察したから、半眼で顔を背けた。
「シグでもそういう、ジンクスみたいなの信じるんだ」
「はいはい、どうせ不似合いでしょうよ。ナギが知らないだけで、俺にだって自分ルールは結構あるよ」
「朝はトマトしか食べないとかでしょ……」
「ねじりパンは、ほどいて食べるとかだよ」
「意味が分からない……。ねじってあるからねじりパンなんじゃない」
「だから、ねじる意味がそもそもないだろ。気持ち悪いんだよ、あのくねくねしてる感じが」
(じゃあ食べなきゃいいのに)
 言われてみれば、こちらには覚えがある。その時限りの手遊びだろうと気にも留めていなかったが、まさかそれがシグの中でルール化していようなどとは夢にも思わなかった。
「気持ち悪いんだよな……」
そんな風に改めて言いなおすほどだったとは。などと呆れを通り越して感心していたが、どうも対象はねじりパンではないようだった。
「……何が?」
「そう言う風に具体的に言われると困るんだけどな。たまにこう、なんか全部、ねじれてんじゃないかって思うときが……ない?」
逆に訊きかえされて、反応に戸惑う。胸の中に漠然とした不安が広がっていく。シグの言う気持ち悪さが、ナギがたった今まで感じていたそれと同じものなら、ナギの世界は「ねじれて」いたのだろうか。仮にそうだったとして、ほどく術を知らない。知っていたとして、一度ねじれたものが元通りになるとは思えない。
「ま、別に……真剣に考えるようなことでもないし」
黙りこんだナギを見かねて、シグは話を切った。触れないと約束した核心にうっかり手を伸ばしてしまったらしい。
 子ども騙しだとは思ったが、何もしないよりはマシだろうとポケットに忍ばせてあった手のひら大の菓子箱を取り出す。
「手出して」
 ナギはおそらくまだ、先刻の無意味な質問の答えを探している。訝りながらも通路に伸ばされた手のひらの上で、シグが菓子箱を振った。ぽろぽろと三粒、空色のジェリービーンズが転げ出てくる。ナギは伸ばした手のひらを見つめたまま固まっていた。対するシグも何故かばつが悪そうだ。
「いや、青以外も残ってると思うんだけど……」
再び箱を振ろうとするシグを、ナギは静かに制す。
「これでいい。ありがと」
自然に笑みが漏れた。非番の日まで魔ガンを持ち歩くようなシグが、同じポケットにジェリービーンズを忍ばせていたことも、それをナギを慰めるために取り出したことも、上手い具合に同色が転がり出てきたことも、全てがちぐはぐで妙に笑いを誘う。
「元気のない子に空色ビーンズ」
 ナギは言いながら手のひらの三粒のうち、一粒を摘まんで高々と掲げた。
「……え」
「知らない? ジェリービーンズの歌。ちっちゃい頃に流行ったじゃない。優しいキミには桃色ビーンズ、素直なあの子に真っ白ビーンズってやつ」
「さあ……そうだっけ。聴いたことあるような気はする」
「シグはそういうの興味無さそうだもんね。子どもの頃さ、お手伝いとかやるとこうやってジェリービーンズがもらえてね? そうやって歌の通り七色全部集めると、虹色ビーンズが手に入るんだーなんて方便信じて、一生懸命集めてた。でもいっつも空色だけないのよ」
「元気がないことがないから?」
「そうっ。なんか笑っちゃうよね。それで今、図ったみたいに空色ばっかり出てくるんだもん」
 天井に描かれた、あるいは祭壇の上に佇む神が気を利かせてくれたのだろうか。もしそうならと試してみたくなって、シグから菓子箱を受け取る。役割を交換して、今度はナギがシグの手のひらの上で菓子箱を振った。鮮やかなオレンジ色が、ころりと一粒躍り出た。
「あ、やっぱり」
ここにご滞在中の神は、気配り上手なのか。
「オレンジは、なんなの」
「“がんばり屋さんにお日さまビーンズ”」
「なんだよ、それ」
得意気に指を立ててくれたナギには悪いが、どうも自分には不似合いのような気がして笑いを噴き出した。
「何がやっぱり、なんだか」
「いいのいいの。私がそう思ってるだけだから、シグには分からなくても」
謎の自己完結と上機嫌で以て、最後の一粒を口に放りこむ。シグも合わせて、オレンジ色の粒を口に入れた。噛んでも甘さが口内全体に広がることはない。その場所だけでひっそり甘い、そういうところがシグのお気に入りだった。
 ナギが深い嘆息をひとつして立ちあがる。シグは視線だけを一瞬そちらへ向けたが、理由も行方も聞かないでおく。通路の方へ歩いて行ったから、雨の中を突っ切って帰るなんていう無茶な真似はしないだろう。
 シグは自分の手のひらに向けて、もう一度菓子箱を振った。
「嘘吐きさんには、泥色ビーンズ」
転げ出てきた鉛色のジェリービーンズを、シグは食べずに箱の中へ放りこんだ。


 アルバ暦837年、風の月 10日。朝から少し、肌寒い風が吹いていた。ジャケットに袖を通して汗ばむことも減った。短い夏の終わりともっと短い秋の訪れの気配は、いつも唐突でどこか気まぐれだ。
 あれから一週間、何の変哲もない日々を過ごしている。朝一番に執務室を訪れ、天気の良い日は窓を開ける。前日のまま少し散らかった机の上を整理して、代わりに本日のスケジュールを記した紙をセット。必要な書類は右端に揃えて置く。