episode viii 狡猾な天使は微笑わない


 ナギは席を立った。質問に答える必要はないと判断した。答えずとも、ユリィの中でいくつかの筋書きが決定事項としてあるのであれば、勝手にそれに固執してもらってかまわない。
「機関の上層部は」
呼びとめる代わりに、ユリィは少しだけ声を張った。
「八番隊隊長とその補佐官は男女関係にあったと認識している。認識した上で泳がせておけばいずれサクヤと接触すると考えている。上層部だけじゃない、零番隊の人間は少なからずそう考えているわ。……それはあなた自身がよく分かっているはず」
「見上げた妄想力ですね。それで、私とあのでかいのがどこかで“密会”するまで監視し続けるつもりですか。御苦労さまです」
「まったくだ。さっきから聞いてりゃあ、世迷いごとを次から次へと……」
 カウンターに頬づえをついたアカツキが、突然話に首をつっこんできた。大仰に嘆息してユリィの前へ身を乗り出す。
「ユリィ。悪いけどなあ、ナギを張っても接触するのは俺だけだ。そういうのが趣味だってんなら止めはしないがな?」
「部外者は黙っててくれない」
ユリィはまたも眉ひとつ動かさず辛辣な台詞を吐いてみせるが、心なしか苛立ちの籠った声だった。
 ナギが何か言おうとするのを制して、アカツキは顎先だけでカウンターの端を指し示す。読みさしの文庫本が放置されていた。
「嘘だと思うなら、こいつの文庫本見てみろ。動かぬ証拠ってのが、ちゃーんと挟まってっから」
本の持ち主は元を辿ればサクヤだ。八番隊執務室が閉鎖される前に、ナギがどさくさにまぎれて持ち出したひとつがそれだった。
 ユリィは一瞬だけナギに視線を移しはしたが、許可を求めるでもなく文庫本を手にとってぱらぱらと頁をめくった。ナギにしてみても、その行為をとりわけ全力で制する理由がないからただ見守るだけだ。本に挟んでいるといえば栞くらいのもので、へそくりも無ければラブレターも入っていない。そう悠長に構えていたのはナギだけで、ユリィはとある頁に辿り着くと人形のように整った顔を顰めて荒々しく本を閉じた。
「お前なら分かるだろ」
「……そうね。帰るわ。お邪魔しました」
 え? ──突っ立ったままだったナギの横をすり抜けて、ユリィは足早に店を後にした。粗野に閉められたドアが悲鳴の代わりに軽やかなベル音を撒き散らす。そのリズムの合間にアカツキの噛み殺した笑いが響いた。
「いじめっこ撃退成功ーってな」
「どっちが……それより、何? 何の魔法?」
 氷の美女と謳われるユリィを一瞬にして顰め面にできる、えげつない魔法。その正体を確かめるべく、ナギもぱらぱらと頁を繰る。が、やはり特別なものは何もないし、心当たりもない。疑問符を大量発生させるナギを見かねてアカツキも苦笑を漏らす。種明かしをすることにした。彼が引き抜いたのは、やはり栞だった。
「これ……。ナギに贈ったの、あいつだろう」
「……そうだけど」
正確には、この栞に押し花として張りつけてあるユキスズカ草は、アカツキの言うとおり「あいつ」からもらったものだ。で、それが何をどうしたらユリィ隊長撃退装置に早変わりするというのか。
 黙って解説の続きを待つナギに対して、アカツキは困り顔で小さく唸る。
「サクヤから何も聞いてないのか? 本当に?」
「聞いてないから聞いてるんでしょ? 勿体ぶってないで教えてよ」
「……あいつらしいと言えばそうなんだろうが、こればっかりは何ともな。……ユキスズカってのはな、アルブじゃ特別な意味合いを持つ花なんだ。男が女に贈る花って言えば分かるか?」
ナギは無反応だったが、その表情からこちらの意図は汲んでくれただろうことを察する。
「蕾ばっかりの花束を男が女に贈る。女はそいつを家に持ち帰って、開花の鈴の音を聞く。全部の蕾が花開く前に返事をするってのが、まぁ通例だ。アルブの人間のプロポーズと言えばこれ。俺はもちろん、堅物の代名詞みたいだった親父でさえもやったってんだから笑えるけどな」
「……そんなの知らない」
 これ以上アカツキを困らせたくはなかったが、口をついて出た。視線を文庫本の栞に落とす。これはサクヤからの「お土産」だったはずだ。そんな会話も約束も交わした覚えは無い。
「だってそもそも……花束とかじゃなかったし。鉢ごともらったし。……全部咲いてたし」
「鉢ごと……なぁ。どういうつもりか知らないが、奴の謎アレンジが入ったとしても、だ。ユキスズカってのは間違いなくそういう花だ。なんてったって花言葉が──」
「ねえ、なんか外騒がしくない?」
 空気を読まないやかましいドアベルと同時に、これまた空気を読まない愚痴をこぼしながらシグが戻って来た。しかしそれは仕方の無いことだ。彼は今の今まで気を利かせてたいした用も無い店周辺をひたすらうろついていたのだから、店内でどういう会話が交わされどういう微妙な展開になっているのかを知る由もない。しかしものの数秒で自分の間の悪さだけは悟る。
「……ユリィ隊長は撤退したの」
「おう。俺からのクリティカルヒットを食らってな」
「また意味の分からないことを……」
シグの何気ない呟きで、ナギも我に返る。そうだ、まだその謎が判明していない。ユキスズカ草がアルブでは特別な意味を持つ花だったとして、それが何故ユリィを黙らせる結果につながったのか。
「待って待って。ねえアカツキさん? 結局なんでユリィ隊長は……」
「ん? だからな。あいつは、その花を俺がお前に贈ったと勘違いしたんだよ」
「だからどうしてそれで──……ん? ……え。うわ、え、そ、そういうこと、なの?」
「そういうことだ。喜べ、ナギ。ちび助相手なら最終的に俺を人質にとれば万事解決だ」
アカツキはしたり顔で親指を立ててくるが、素直に喜べない。この男はユリィのそういう感情を知っていながら思いきり利用しているということではないか。ユリィとの立場や性格の不一致はさておき、同じ女としてこういう男を野放しにしていいものか悩む。
「アカツキさんって、ひょっとしてプレイボーイなの」
「おい。今のカリンの前で言ってみろ。いくらナギでもただじゃおかん」
「いや、言わないけど……」
 否定はしないというところに一抹の不安を覚えつつ、ナギもこの話を切り上げることにした。というのもシグが言うとおり、大通りの喧騒がやけに大音量で店内まで響いてくるようになったからだ。三人で顔を見合わせる。
「今日って午後からお祭りとか、だったっけ?」
だとしたら、男たちの怒号が飛び交い、女たちの悲鳴が響き渡るような過激極まりない祭りということになる。百聞は一見に如かずとばかりにシグがドア前に一歩踏み出した。その刹那、再び外側からドアは開かれ、ドアベルが激しく音を立てて揺れた。
「サギが出た! あなたたちも来て!」
たった今追っ払ったばかりのユリィが血相を変えて登場。しかしそれだけ叫ぶと、ドアが閉まりきる前に彼女の姿は街路へと消えた。もはやユリィのものかどうかも判別できないほど、たくさんの足音が溢れかえっていた。それを一切合財かき消すような地響き。窓ガラスが震え、ドアベルがまたガラクタじみた音を立てる。
「ナギ、行こう」
シグは一応声をかけた。が、彼女の方を振り返ることも、ましてやその第一歩を待つこともしない。半ば呆然とするナギを置いてさっさとユリィの後を追っていった。こういうところは八番隊だろうが零番隊だろうが、シグはスタンスを変えない。
 ナギは自分で自分の両頬を打った。古典的な方法だとは思ったが、固まりつつある体を動かすにはその方がいい。
「アカツキさん、行ってくる。カリンのことは私に任せて。アカツキさんはここから出ないでね?」