episode viii 狡猾な天使は微笑わない


「おう。素人はのんびり夕食準備でもして待ってるから。……どういう結果でもいいから、シグとちゃんと二人でここへ戻ってこい」
「分かってる。大丈夫だよ」
笑顔をつくる。ユリィと対峙した時のように、意識してつくる。それはこの場では必要な儀式のような気がしたし、それなりに自己暗示効果もある。が、振り返って街路へ出る瞬間にはまた別の顔をつくる必要があった。すなわち零番隊としての顔。グングニル機関の一員としてニーベルングを討つ、ただそれだけを遂行する機械の顔だ。
「何これ……凄いニブル量……!」
 一歩外に出ただけで別世界が広がった。飛び交っていた怒号と悲鳴は消え、逃げ惑う人々は皆一様に口元を覆っている。無声映画を見ているように周囲は静寂に包まれていた。遠い地響きと砂埃の舞う微かな音だけが鼓膜を震わす。異様な光景だ。
 当たり前のように聞いていたはずの魔ガンによる爆発音に、ナギは身を強張らせた。既に状況は始まっている。爆発と砂埃で濁った空に視線を走らせた。そして言葉を失った。普段その視線の先にはグングニルの塔がある。それをすっぽり覆い隠すようにして、サギはそこに立っていた。圧倒的に巨大だ。それだけならいい。サギが他のニーベルングと一線を画すのは、砦のような巨体と神性さえ思わせる純白の両翼、そしてこのむき出しの敵意である。
「カリン……!」
 ナギは瞬時に優先順位を入れ替えた。サギとは逆方向、市場へ向けて全速力で走る。一般市民と称される人々は、皆我先にとばかりに隣人を押しのけてサギから遠ざかろうと必死だ。支給品の簡易マスクで顔面を覆い疾走する輩も少なくない。
 それよりも数段しっかりしたマスクを装着して、避難もせずサギの観察に精を出している者と数人すれ違った。彼らが零番隊だ。マスクのせいもあり個人の特定には至らない。仮にできたとしても、今はそんなことにかまけている余裕はなかった。
「ナギちゃん!」
市場に辿りつく前に、聞きなれた声で呼ばれ急ブレーキをかける。買出し品をしっかり抱えたカリンが、不安と安堵の両方に顔を強張らせて立っていた。
「教会に行きなさい! あれは私たちが止めるから!」
ナギは持っていた自分のマスクをカリンにかぶせる。どうせ「持っているだけ」で宝の持ち腐れのマスクだ。独善だろうが利己的だろうが、カリンを守るのに役立つなら言うことは無い。
「だ……大丈夫なんだよね? シグくんも、ユリィちゃんだっているし……。あ! パパは? お店に残ってるんじゃないの?」
「いいからっ。カリンは自分の心配。教えたでしょ? 私とシグが居ればニーベルングなんかちょちょいのちょいなんだって。……えーと、ユリィ隊長も、いるし。アカツキさんは私に任せてくれれば大丈夫だから」
 先刻、似たようなことをアカツキにも言ったような気がする。が、父娘そろってそれで納得してくれるのだから恐ろしいほどの信頼度だ。その信頼を裏切るわけにはいかない。マスクをつけたままぶんぶん頷くカリンの頭を撫で回して、その背中を押した。
「さぁ……対話の時間、かな」
 教会へ向けて走るカリンの背を見送って、再びサギへ視線を移した。随分反対方向に走ってきたはずだが、その威圧感が小さくなることはない。たった今ひた走ってきた道を、ナギはまた全速力で駆けた。
 

「零番隊! 出てきたなら撃ちなさい!」
 最前線に陣取って叫んでいたのはユリィだった。マスクをしていても華奢すぎる体格で瞬時に分かる。普段は蚊の鳴くような声で喋るのに、彼女の怒号はこの喧騒で何よりも響いた。商店の屋根の上で続けざまに“クリエムヒルト”の引き金を引いていた。その後方から、シグが援護射撃。
「ユリィ隊長、的になるつもりですか。近すぎでしょ……」
「そういう役回りは貴方が得意だと聞いたけど」
皮肉を言ったつもりは無かったのだが皮肉で返された。なるほど、この無口で小柄なスナイパーは一度口を開くと棘つき台詞しか発射しないらしい。親切心(いつもの無意識おせっかい)で援護にまわってしまったが早まったのかもしれない。
「で、やるの。やらないの。どちらにしろここに居られたら邪魔だわ。決めたら好きに動いて。私がその援護にまわる。……ナギさんは当てにできないから」
 一瞬だけ視線を後方下へ向ける。サギが出没してから随分経つがナギが応戦に合流する気配はない。どこへ行ったのやら。
「いいですけど、俺はナギを優先しますよ」
「好きに動けと言ったのが聞こえなかった?」
ユリィはシグの方を見もしないで吐き捨てるように言った。シグはと言えば、反射的に「すみません」などと情けない単語を呟いて、これ以上ダメージを受けないように即行で踵を返す。手玉にとられている場合ではない。ユリィの狙撃に触発されて、どこの馬の骨ともしれないようなマスク隊員たちが魔ガンを撃ち始めている。サギにはそれを避ける術が無い。いくら鉄壁の皮膚を持っていようが、このまま無防備に食らい続ければ陥落するのは目に見えている。
(深手を負わせて撤退させるのがベストだけどな……)
 シグの今現在の目的は、サギの討伐ではない。今ここでそれを成すべきではないと、街路に飛び出したときにそう判断した。グングニル塔が壊滅するのはこの際構わないが、グラスハイム市の繁華街でこれに大往生された日には、その被害は自分たちで穴埋めできるものではない。
「そういうとこ考えて動いてくれるのが、サクヤ隊長のいいところだったんだけどな」
誰に向けたわけでもない皮肉がまた口から零れおちた。虚しいだけの苦笑ももう何度となく繰り返している。一人になって気を抜くとすぐこのざまだ、などと胸中で自嘲しながらも呼吸を整えて照準を合わせる。狙うは一点、琥珀に光るサギの眼球。と、サギはそれを察知したかのように体を反転させた。刹那──反転させた体を一気に巻き戻す。サギの尾は鞭のようにしなり周囲50メートルの障害物を全て薙ぎ払った。気付いたときには民家の屋根が、窓ガラスが、煉瓦造りの壁がガラクタさながらに宙を舞っていた。無論、人間も例外なく。
 シグはというと、足場にしていた屋根もろとも軽快に吹っ飛んだ後、どこかの家の植え込みに上手い具合に落ち込んだ。自らの悪運の強さに感謝すべきところだが、不様といえば果てしなく不様だ。
「……最悪」
独り言のつもりだったが計ったようなタイミングでナギが現れたせいで、合流早々顰め面をされた。
「それは悪うございましたねぇ。どうしても先にカリンの無事は確認したかったもので」
「居た?」
「居た。教会に向かわせたから大丈夫。……ここであれを食い止めればの話だけど」
「そうなるね。でもどうする? うまいこと撤退させるのはかなり難しい。零番隊の連携ってのはまず期待できないだろうしね」
大儀そうに植え込みから身を起こし、シグは天を仰ぐ。噂の零番隊による反撃は既に再開されていたが、どうにも統一感がない。しかしそんな中にも時折、思わず目を奪われる鮮やかな射撃や格の違う大爆発がある。
「リュカたち、かな……」
「さあ。どっちでもいいんじゃない。今あてに出来ないのは同じことだし」
シグはその真偽については心底興味がないようだった。彼の口から元八番隊について語られたことはこの四ヶ月、一度も無い。シグの徹底振りに感化されて、ナギもいつしかその話題を避けるようになっていた。でもこうしてすぐ近くで同じように戦っていると分かると、思い出さずにはいられない。
 しかしナギはそこで自ら想いを馳せるのをやめにした。シグに諭されなくとも、置かれている状況くらいは分かっているつもりだ。
「交渉してみようと思うんだけど」
「……まさか、あれと?」
 ナギは黙って頷いた。