episode viii 狡猾な天使は微笑わない


「たぶん、サギには“目的”がある。グングニル塔や中央市街ばかりを狙うのが、彼の“手段”なら……変えられるかもしれない」
言いながら、頭の中で響く声に耳を傾ける。

──手段は変えることができる。そこに囚われると大事なことを見落とす気がしない? ──

 穏やかで少し懐かしい。そして少し胸が痛む。自分たちは今まさに、手段にからめとられて身動きができない状態に陥っているのではないか。何か大切なことを、随分早い段階から見落とし続けてきたのではないか。
 シグの惜しげもない嘆息がナギを現実に引き戻した。
「誰の受け売りかはだいたい想像つくけど……つまりサギに接近戦をしかけるってことでいい?」
「いいの?」
「ここからじゃどうせ何の反撃もできないしね。ただ、一個やってほしいことがあるんだけど」
悠長に作戦会議を開いている場合ではなさそうだ。シグはちらちらと落ち着きなくサギの一挙一動を目で追っている。
「至近距離からサギにブリュンヒルデを撃つ。一発でいい。ただ確実に当てて」
「……それに何の意味が」
「あるよ。もう確認したろ? 零番隊は馬鹿みたいにグラスハイムに巣食ってる。連中の前で、ナギがあのニーベルングに魔ガンを撃ったっていう既成事実はどうしても必要だ。……この先もずっとユリィ隊長みたいなのに監視されるのは嫌でしょ」
「……濡れ衣を晴らすためのパフォーマンスをしろってこと」
「まあそういうこと。心配しなくても、あの皮膚装甲ならブリュー一発でどうこうはならないよ。うまくいけば撤退させることもできそうだし」
淡々と語るシグの言葉に、ナギは無意識に眉を顰めていた。対してシグは、ナギの表情を一瞥しただけで眉一つ動かさない。
「無理強いはしない。できなきゃ俺がやるだけの話」
「……いい、大丈夫。私がやるわ。じゃないとたぶん、意味の無いことだろうから」
どのみち魔ガン抜きでサギと対話ができるなどとは考えていない。誰がどう見ても、あれは理性や冷静とはかけ離れた感情で動いている。それを止めるためにもブリュンヒルデの一発は必要だろう。
「死角から一気に攻めよう。射程範囲まで行けたらサギの注意はこっちでひく。後はナギのシナリオに任せるから」
頷いて、次の瞬間には二人同時にスタートを切った。サギの死角、すなわち背後に回り込むために閑散とした街路をひたすら迂回する。
 負傷し、その場で応戦するグングニル隊員がいた。半壊した家屋を盾に他の隊員と通信を試みる者、大量のラインタイトを積み上げて対抗兵器らしきものを準備している者もいる。それらをすべて背景として流して走る。サギだけを見た。灰色に淀んだ景色の中でその純白は恐ろしく映える。その姿かたちは時として神話の中で「竜」とも称されてきたはずだ。だのに、そこに神々しさはなく、ただ圧倒的な禍々しさだけが渦巻いていた。サギは、それが使命だとでもいわんばかりにニブルを吐き続ける。
 視界が濁るほどの霧の中で、純白の光だけを頼りに走った。走って、走って、走り続けた末にシグが急ブレーキをかける。たたらを踏みながら器用にサギめがけて引き金を引いた。四連、八連、十六連射。行き着く間もなく、また与えず、両手の魔ガンを交互に撃つ。灰色のキャンバスに十六個の濁った花火が咲いた。サギが猛々しく吼える。そういう分かりやすい反応の間にシグはすかさず補弾する。出し惜しみは無し。四連、八連、十六連──、一時の静寂もなく爆発音は鳴り続ける。
「さあ……! どう出る、サクヤ隊長……!」
 出方を伺うための間だった。その用意された一瞬の隙を無理やりこじあけたのは、サギの人智を超えた咆哮だった。天と地が引き裂かれてでもいるのか、その大気の振動は視界に映る全てのものを揺らす。
 シグは追撃を諦めた。視線だけを彼女へ送ったが催促は要らなかった。ナギの手元でブリュンヒルデが火を噴く。その反動でよろよろと後退していた。どういう状況であれ、ナギが射撃後に体勢を崩すのは珍しい。などと細かいことを気に留めている余裕はなかった。
 ブリュンヒルデの一発は、サギの長い首の付け根で鮮やかに爆ぜた。光が、音が、振動が、グラスハイム全体に轟いた。
「サクヤ!」
追って吹き出した爆風に煽られて、ナギはまた一歩後ずさった。
「お願い退いて! あなたの目的が何だったとしても、この街は……ここで暮らす人たちが巻き添えをくっていいはずがない! ここにはアカツキさんがいる! カリンがいるの!」
ありったけの声を絞り出しているのに、その声量はブリュンヒルデの爆発音にも、鳴り止まない地響きにもかき消されてしまうものだった。ましてやサギの咆哮には遠く及ばない。それでも、悲鳴のように声をあげるしかなかった。
「ねえ! 聞こえてるんでしょ! 分かってるんでしょ?! あなたの目的はこういうことじゃない……! だったらいつもどおりやってみせてよ! ……サクヤ!」
 いつもどおり──手品みたいに、魔法みたいに、奇想天外なくせに一番合理的な方法を、ちょっと間の抜けた会話を交わしながら試行錯誤。そういうときは、そう、決まって口元に手をあてて周囲の喧騒なんかそっちのけ。でも必ず、次の瞬間には120パーセントの自信と共に解決策をひねり出す。問題はそれがほんの少し、非常識というだけの話だ。大丈夫。そういうのにはいい加減慣れている。
「ナギ!!」
 シグの声と、風切音が耳元でうねった。ナギは自分でも驚くほど大きく後方に跳んでいた。危険を察知して反射的に跳んだような気もするし、何か得体の知れない大きな力に突き飛ばされたような気もする。事実はその両方だった。
 空を切ったのはサギの爪だった。咄嗟の判断で八つ裂きは免れたものの、ナギは受身もとれずそのまま背中から瓦礫に衝突した。体中の骨と臓器の位置ががちゃがちゃとずれる感覚、そして単純な激痛に襲われ嘔吐した。揺れる脳でも分かることはある。サギとの交渉は決裂したのだ。交渉と銘打った、ただの懇願だったのかもしれないが。
(あ、これ絶対やばいパターンだ……)
思考だけははっきりしていたから、状況判断だけは先刻から的確にこなすことができた。さっさと身を起こして体勢を整えなければ、待っているのは目も当てられない無残な死だ。身体は痛むが動ける、はずだ。だのに、体中を鎖で縛られているように身動きがとれない。ひどい倦怠感だ。
 どこかでまた魔ガンの発砲音が鳴った。一発だけ小さく鳴った。遠くで鳴ったのかもしれない。しかし次に轟いたのは、サギの咆哮──いや、絶叫だった。そして耳元でシグの舌打ち。
「シグ、撃っ……」
「撃ったよ。あれは実力行使しないと撤退してくれない」
シグに支えられていた。その手を振り払って立ち上がろうとして、背中に激痛が走る。
「……眼球かすっただけで外れてる。いい加減、片目くらい潰しておかないとこっちが不利だってのに」
先刻のはそういう舌打ちだったらしい。
 ナギはどういう表情を作っていいのか分からず、痛みのままに顔を伏せた。その耳元でまたも魔ガンを構える僅かな音が響く。ナギはほとんど無意識にシグを制そうとしていたが、行動に移す前に状況のほうが著しく変わった。サギは周囲の建物をなぎ倒しながら両翼を広げ、猛り狂って羽ばたく。真っ白な羽を一度翻しただけで、目も開けていられないほどの突風が吹き荒れた。立っていることすら困難になって、気づけば二人で支えあっていた。そのままサギが優雅に撤退するのを、二人は成す術もなく見送るしかなかったのである。
 後に残ったのは、徹底的に破壊された市街の一角とあちこちからあがる火の手、そしてこの生ぬるい風だ。
 ──怠い。身体が鉛のように重い。