「カリン……迎えに行かなくちゃ。アカツキさんも、心配してるから」
分かりやすい、やるべきことが残っていて助かった。鉛の四肢を引き摺って、瓦礫だらけになった街を歩く。この辺り一帯のニブル濃度が落ち着くまで、どのくらいの期間を要するのだろう。一週間やそこらではないはずだ。霧で濁った視界の中、そんなことをぼんやり考えた。その霧は市街中心部に向かうにつれて、晴れるどころか濃さを増す。始めは気のせいだと思った。が、シグが無言でマスクを付け直すのを目にして、不安は急速に広がった。
「サギの奴……撤退ついでに吐いていったな」
「なんで、そんな……」
「それは俺には答えられないよ」
ニブルの霧に包まれ白濁した世界に二人は立っていた。異物のように、二人だけが立っていた。もし霧の国(ニブルヘイム)なんてものが本当に存在するのなら、こういう場所をそう呼ぶのかもしれない。ここに人間はふさわしくない。それだけは明白な事実として横たわっている。
「カリンにはマスクも渡したんだろ? 教会に居るなら、無事だよ」
シグの励ましがやけに空々しく聞こえた。この男は、この手の気休めを言いなれていない。どうせなら普段どおり身も蓋も無い客観的見解とやらを述べればいいのに、妙なところで気を遣うからこのざまだ。
ナギは肯定も否定もしないまま教会を目指した。ニブルは多少薄れてはきたものの楽観できる要素は何もない。市街中心はサギの襲撃そのものよりも、その混乱によって生じた火災だの暴行だのの二次被害が大きかった。生ぬるかった風は熱風となって、時折警告のように通り抜けた。
教会付近も例外なく燃えていた。その炎の勢い、持続性、何よりその独特の黄金色に二人の背筋が凍る。それは彼らが見慣れた、魔ガンでニーベルングを撃った後の炎と同じだった。
「ここで、戦闘した……?」
「待った。魔ガンじゃなくて、……ラインタイトそのものが燃えてるんじゃないか。この辺、確かもぐりの加工屋が居たろ」
そんなもの数えだしたら星の数だ。なじみのないナギにとって、どこで誰が地下活動に精を出しているかなど知ったことではない。ただ、事実としてラインタイトが燃えているのだから、それ相応の対処を迅速にすべきだ。
教会の重厚な扉を、痛むからだ全体を使って押しあけた。
「火災が発生しています! マスクをつけて外に出てください!」
避難した人々は、ナギとシグの姿を目にした瞬間、悲鳴をあげた。街中の人間が集結したのではないかと思われるほどひしめきあって座り込んでいる。
「外にって……ニーベルングはどうなったんだ」
「ちょっとあなた! 扉閉めてよっ! こんなニブルの中、外に出ろだなんて……!」
ナギは彼らの疑問を解消するでもなく、カリンの姿を探して視線を走らせた。──いない。であれば、カタコンベか。座り込んだ人々をかきわけて、ナギは無言のまま教会内へ踏み入った。
「おい……っ、何とか言えよ。よりにもよって、何だってあんな規格外なのが中央区に現れるんだ。グングニルってのはそこまで無能の集まりなのか?!」
そうかもしれない。そう思ったことは一度もなかったけれど、無能だと割り切ってしまった方がいくらか気が楽なことも確かだ。頭の片隅でそんなことを考えつつも、ナギは非難と怒号のほとんどを聞き流していた。おかげでシグがしゃしゃり出る、なんていう全く以て稀有な状況になる。
「ニーベルングは撤退しました。ここに残る方が危険なので、マスクをしている人から順に外に出てください」
「撤退って……なんだよ、撤退って。退治してくれたんじゃないのかよ!」
「また襲ってくるかもしれないってことだろ! 出られるか!」
シグは特大の溜息が喉元でスタンバイしているのを、何とか堪えて呑み込んだ。
「実質、今危険なのは撤退したニーベルングでも、マスクがあれば事足りるニブルでもありません。随所で火災が発生しています。ここに引きこもっていたら全員蒸し焼きですよ」
どよめきは瞬く間に拡散した。今度は我先にと立ち上がり出口を目指そうとする人の群れを、上手く塞き止めて誘導するシグ。ナギはその間に教会の奥へ歩を進めた。
「ナギ! いいよ、俺が行くから」
入り口で交通整理に追われているシグが、察して叫ぶ。
「大丈夫! そういう場合じゃないから、シグはそっちお願いっ」
説教台の先、パイプオルガンの隣に貧相な扉がある。グラスハイムの教会にあるカタコンベは、この先の小部屋から地下に続く階段を下りたところだ。躊躇っている場合ではないが、ナギにとってはある程度の覚悟が必要とされる場所であることも確かだ。息を大きく吸って扉を開けた。と、拍子抜けというか幸いというか、カタコンベに入るまでもなくカリンに出くわした。しゃくりあげる子どもたちとすすり泣く女性たちに紛れて、背筋を伸ばして座っている。
「あ、ナギちゃん。お疲れ様っ」
ナギの口から、本日一番の安堵の溜息がもれた。
「良かった、カリン……。怪我はない?」
「ないない。声が聞こえたからもう大丈夫なのかなーと思って、みんなで上がってきたんだけど……良かった?」
「オッケー。的確な状況判断っ。さすがアカツキさんの娘」
褒められて──その褒め方もカリンは気に入ったらしい──照れくさそうに笑う。
「あ、でも怪我をしてる人は結構いて、あとまだカタコンベの中に妊婦さんが残ってる。……えっと、私どうしたらいい?」
「後は私とシグに任せて、カリンはこのまま家に帰ること。アカツキさんが発狂しちゃう」
「パパなら大丈夫だよー。それよりナギちゃんたちはどこも怪我とか、ない?」
その質問には笑顔で答えづらい。背中は今も燃えているように熱い。立って歩けているのだから折れてはいないのだろうが、絶対悲惨なことになっている。絶対だ。今は考えたくなかったから苦笑いで誤魔化した。刹那──。
ドンッという体の内部に響く重厚な音と共に、部屋全体がぐらぐらと揺れた。ガラスが割れる音と悲鳴とが混ざり合って、状況を混乱に導く。
「ナギ、限界! やっぱりどっか近くでラインタイトが誘爆してる!」
そういうありのまま過ぎる事実が避難した人々を恐怖のどん底に突き落とすのだが、シグももう構わないことにしたらしい。阿鼻叫喚の中、ナギは視線を地下への階段に向けた。
「……シグ、マスク貸して。私が行く」
「限界だって言ってるだろ、俺の話聞いてた?」
言っている傍から小部屋の外で何かが爆ぜた。シグは咄嗟にカリンに覆いかぶさったが、その隙にマスクを奪われる。
「ナギちゃん……!」
「ナギ!」
後を追おうと右足が踏み込んだ。が、その視界にはうずくまったまま泣き喚く人々が映りこむ。腕の中にはカリン。シグは、奥歯をこれでもかというほどかみ締めて、その場の収拾に徹することにした。
──吐き気がひどい。
地下への階段はそう長いものではなかった。背後でシグの叫ぶ声やら悲鳴やら爆発音やら、とにかくそういう大音量の音がけたたましく鳴っているのが分かる。それはさておき、とんでもない吐き気だ。一歩階段を下るごとに増す気がする。
「だ、だれ……」
まだ何も事態は改善していないのに、ナギはその声を聞いて心底助かったと思った。カタコンベの中は案外広い。恐怖に任せて奥の奥まで逃げられていたら心が折れていたところだ。
「グングニル機関です。のんびり説明している時間がありません、とにかく外へ。私につかまってください」
重ねて有難いことに、女性は「グングニル」と聞いて警戒を解き、すんなり指示に応じてくれた。ナギは手際良く、シグからひったくったマスクを女性にかぶせた。