「つまり、あなたの元の名前や、ご両親や、ヘラでの生活についてという意味ですが。どうです?」
「そりゃある程度は……」
言いながら記憶の奥の奥の奥の扉をそっと開ける。
ノウヤクイラズ──いや、ユキスズカ草が至るところで花弁を揺らしていた。リンリンとそこらじゅうで鈴の音。その音はあまりにも日常に溶け込んでいて、改まって美しいだの五月蠅いだのと評価する対象にすらなっていなかった。だからというわけでもないが、ナギの記憶にはいつも当たり前のものとしてこの音がある。
それとは別に微かにオルガンの音が響いていた。陽気なメロディが庭にも流れる。父がまたジェリービーンズの歌でも口ずさんでいるのだろう。彼はこの歌が好きだった。その隣で母は特製のハーブティーを皆にふるまったりして、いつもみたいに穏やかに時が流れていく。
彼らにはもう十年会っていない。これからも会うことはできない。そういう人たちの記憶が薄れていくのはある意味で当然のことのように思えた。台詞のひとつひとつなど到底思い出せるものではない。──当然のように思っていた。母の笑顔が記憶の霧でいつも霞むことも、父の声が鈴の音にかき消されてしまうことさえも。
「ではカタコンベから救助されたときのことは? あなたの隣に居たニーベルングのことを、思い出せますか」
「隣に居た……ニーベルング……?」
「そうです。私たちはカタコンベからあなたを救出する際、一体のニーベルングを討ちました。カタコンベの内部で、です。そのニーベルングのすぐ傍で、あなたが震えてうずくまっているのを発見した」
「待って。待ってください。そんなはずない、だってあそこには……あそこに一緒に入ったのは……」
言葉が胃から喉元へ一気に駆け上がって、そこで急停止した。同時に、とても大きな機械の主電源が落ちるような音が脳裏に響く。体中を駆け巡る血液に炭酸でも混じったのか、意識が一瞬弾けて遠のいた。
ニーベルングの死骸が一体、転がっていたのは確かだ。いや、そういう映像が映像として脳内に残っていることが確からしいというだけだ。
「違う、カタコンベへは一人で……私、一人で」
だから一人で助かったのではないか。あそこに誰かが居たのなら「二人」で助かったはずだ。
「ナギさんはご存じなかったかもしれませんが、あのカタコンベは老朽化が激しくほとんどニブルを遮断できていませんでした。あのときヘラには、通常では考えられない濃度と量でニブルが蔓延していた。それはほとんどそのまま、地下へ流れ込んでいたのです」
つまりあの場所は地上となんら条件の変わらない場所だったということだ。
「あなたは何かを、知っている……?」
「いいえ。何も。知らないからこそ今、あなたに問うたのです。ただ、今お話した状況は事実ですから、そこからおおよその見当をつけることはできます」
「でもそれは私の記憶と……食い違っています」
「そうですね。“事実”とナギさんの持つ“記憶”は、おそらく多くが矛盾していることでしょう。あなたがナギ・レイウッドとして生きやすいようにヘラ・インシデント以前の記憶には心理的施錠がなされているはずだ。それを施したのが二番隊の誰かか、レイウッド家の誰かか、そのあたりは分かりませんが」
ナギはこみ上げてくる何かを塞き止めるために、無意識に口元を手で覆っていた。
シスイの言う心理的施錠とやらを、ナギは夢の中で何度も見た。扉は地下のカタコンベへ続くそれ、幾重にも鎖が巻かれ南京錠が取り付けられていた。そこへ近づくと必ず警告音が鳴る。美しいはずのユキスズカの開花の音が、狂ったように四方八方で鳴り響いた。
その夢は何度も見た。いつからか、何度も見るようになった。いつから──? 何か、きっかけがあった気がする。少なくとも一年前まで、ナギはカタコンベの夢など一度も見ることはなかったのだ。ヘラを、両親を、ナギ・レイウッドに成る前の自分を想うことなど一度もなかったのである。そのことに、今なら絶対的な違和感を覚えることができた。
名を知らない感情が胃からこみ上げてくる。悲しみでも恐怖心でもない。それなのに、機械的に涙がこぼれた。
「……私はヘラ・インシデントに関わるひとつひとつの矛盾を、忘れることができなかった。そうして調べれば調べるほど、きな臭いのが自分の足元だということに気付かざるを得なかったのですよ」
「だから……グングニル機関を、離れた……?」
「そうです。私がレーヴァテインを立ち上げたのは、グングニル機関を解体するため。目的を同じくするニーベルングは信仰対象であり、この上ない協力者なのです。願わくば、スタンフォード中尉やナギさんにもそうであってほしかったのですが……。ひとまずは次に持ち越しということにしておきましょう。時間もそうないようですから」
「次、ですか」
「ええ。あなたにその気があるのなら、ですが。この局面で、持っておいて損はしないカードであることは確かでしょう。情報を掌握することは私にとってそれほど難しいことではないし、それを操作するのも同じこと。……そしてある意味で、私もまたヘラ・インシデントを知る生き残りですから」
ナギは馬鹿みたいに口を半開きにして突っ立っていた。打算は苦手な方だがそれでも本能で、この申し出がある意味で魔ガンよりも強力な兵器になることを悟る。ナギにはどうしてもこの手のアンテナが必要だった。グングニル隊員以外の、近しい関係にない情報網が──。
レーヴァテイン本部の目の前に、広い緑地公園がある。休日というわけでもないのに、そこかしこで身奇麗な中年女性が犬の散歩をしている。シグがぼんやりと座っていた隣のベンチには、お高そうな装丁の画集を広げあれこれと談笑する老夫婦。なるほどセレブの居住区というやつは時間の流れが俗世とは異なるらしい。こういう場所に庶民だのグングニル隊員だのが混ざったら一発で好奇の目にさらされるのだろうな、などと考えてすぐに自分がそのどちらにも当てはまっていることに気づく。幸い今日は、一目でそれと分かる制服ジャケットは着ていない。
(サブローさんちは、確かこの辺りとか言ってたな)
レーヴァテイン本部に程近く、のんびり読書をするのにはうってつけの公園があるとか言っていたのを思い出した。生憎シグは読書という趣味を持っていない。芸術に興味もなければ、食にも関心がない。だからこういう場所で一人になっても、とりわけやりたいことというのが見当たらない。何もせずにナギを待っていればいいのだろうが、気晴らしというか気分転換らしきことをどうしてもやりたかった。シスイ・ハルティアの溶かしたチーズのような声が頭から離れないからだ。
とりあえず歌をくちずさんだ。歌が好きなわけではない。気分転換といえばそれしか知らないだけだ。
優しいキミには桃色ビーンズ
素直なあの子に真っ白ビーンズ
元気のない子に空色ビーンズ
独り言にしても小さいくらいの声量で呟いていただけだ。それが余計にまずかったのかもしれない。中断したのは眼前にいきなりホットドッグが現れたからだ。シグは短い悲鳴をあげて後ずさった。が、ベンチに座っていたのだから即背もたれに激突。一連の行動を全て観察し終えたユリィが、ありえないものでも見たように神妙な顔つきで立っていた。
「驚いた……。エヴァンス曹長も歌を口ずさんだりするのね」
それはあんたにだけは言われたくないと居直りたかったが、あまりの衝撃でむせ返ってそれどころじゃない。
「食べるでしょう、ホットドッグ」
「いや、俺は……」
「じゃあこれはナギさんに。……二つくらいあの人なら食べるでしょう」
どうやら始めからナギの分まで調達していたらしい。食べない分の二つのホットドッグをベンチの端に並べて、自分は一つを頬張りながらシグの横に腰掛けた。