extra edition#10 吊られた男のクロッキー【Ⅱ】



 今の時期にふさわしいトマトベースのスープ。赤い液体に映ったシグの顔は、言われてみれば確かに、随分と不健康そうに見えた。
「そうならそうとはじめから言ってくれれば……。これでも随分、耐えたんですよ」
「ははは、それはすまなかった。あの司教のあの詠唱は……なんというか、何者も抗えない力を宿してしまってるよね」
 サクヤは軽快に笑いながら、自身は考え事をまとめるためにここへ来た(はじめからミサに参与するつもりはない)ことと、第一節の終盤で睡魔の誘惑に身をゆだねたことなどを話した。
「君はまた、随分と疲弊しているようだけど。正直なところ、少し働きすぎなんじゃないかな。睡眠障害ってことなら僕の担当医務官を紹介しようか? グングニル内では間違いなく一番腕がいいし、信頼できる。整体もできるし、そうだ、たぬきも治せる」
「いや、それはちょっと……遠慮しておきます」
「そう?」
 サクヤの言う医務官が誰のことなのかはおおよそ予想がついた。“彼女”を取り巻くちょっとした──しかし重大な──事件とサクヤの関連は、中部でも実しやかに囁かれている。医療者としての腕がいいことも知ってはいるが、それだけでシグ自身がリスクを抱える理由にはならない。
 そう考えると、隣でぼんやりトマトスープを啜るこの男のリスク管理は、一体全体どうなっているのかと問いたくなった。根本の考え方が圧倒的に違うことだけは、何となく察している。皆が石橋をたたいたり他人にたたかせたり、のんびり歩いたり駆け抜けたりしている中、サクヤ・スタンフォードは真下の急流で舟の設計図を作っているような男だ。それものんびり魚釣りなんかしながら。見ている世界が違う。
 そんなふうに感じたからこそ、聞いてみたくなった。目の前の、信用できない石橋を渡るしか知らない自分にも、渡河する方法を実践できるか。
「医者じゃなくて……できればあなたの助言をいただきたい案件が、あるんですけど」
 サクヤは分かりやすく意外そうな顔をした。  
「助言、僕の? ……あまり推奨しないけどね」
「かまいませんか」
「聞いてみないことには何とも。まあここは壁が分厚いから、多少は踏み込んでも……問題はないのかもしれない」
 サクヤは冗談めかして言うが、この市民に開かれた教会という場所が密談するのにふさわしいとは思わない。ただ彼が言うように、ここの「壁」は、伏魔殿のグングニル塔よりはよほど、分厚く頑丈にできていると言えた。
「俺のミスで討ち損じたニーベルングがいます。できるだけ早く討ちたいんです、それを」
「何か問題がある」
 何故、とは問わないところがサクヤらしかった。
 シグはクイナ討伐作戦の顛末をかいつまんで説明した。今までの被害状況、中部第一支部の隊員たちがこの任務に己の沽券を懸けていたこと、確実に討てる状況で自分が痛恨のミスを犯したこと、そしてその結果、谷底に落下したクイナは生きたまま岩に身体を貫かれ、体内のニブルが空になるまで放置・監視されていること。
 そこまで淡々と話したところで、サクヤの顔色を窺ってしまった。下顎に右手を当てがって思案顔ではあるが、とりわけ不快というわけでもなさそうだった。シグ自身もそうだ。ニーベルングをなぶることに嫌悪や哀れみを持っているわけではない。ただ、あのニーベルングは別だ。その線引きをシグはあの混乱の戦闘中にせざるを得なかった。そうして、あの無様な立ち回りを披露することになった。
「今の話を聞く限りでは、討伐することそのものに問題はないわけだ」
「え、いや……。あると思いますよ。さっきも言いましたけど、クイナが出した人的被害はこの半年だけで過去二年分を上回るわけで……。というか、そういう数字より前に、仲間や近親者を亡くした人が多すぎるんですよ。だからこそ誰も作戦に異を唱えなかった」
「そうだね。心象は良くないだろうね、お互いに。ただ、目立った問題と言えばそれだけだろう? 複数人の協力があれば、君の言うとおり今すぐウインチを設置して速やかに討つことは物理的に難しくないし、その人員なら僕を含め割と簡単に手配できる。──思い悩むほどの問題点は見当たらないよ」
 随分あっさりと協力を申し出るサクヤに、シグは一瞬言葉を失ってしまった。
「いえ、あの。そこまでしてもらおうと思ったわけでは──」
「だけど君だって、何かを期待して僕に話をしたはずだ」
 今度は完全に言葉に詰まる。サクヤは、シグが思っている以上に奥まで、深部まで、見透かしているのかもしれない。背に一筋、冷たいものが走る。
 そういうシグの警戒心を察して、サクヤは人知れず胸中で反省していた。
「すまない、今のはちょっと言い方が悪かった。期待しているのは僕も同じで、だからこそ君にわざわざ声をかけたわけで……。何より今のシグの状態で、これ以上いろんなことがいろんな方向に深刻になるのはあまり良くないんじゃないかと思ったんだ。だからできるだけ気楽に、協力したいと思ったんだけど……そうだな」
 シグにこれ以上の不信感と警戒心を持たせないためには、最善の言葉選びをしなければならない。サクヤはそう信じて高速で脳内をまさぐった。
「ここよりもう少し“おすすめの場所”があるんだけど、どうだろう? また騙されたと思ってつきあってみるのは」
 これだと決めて選ばれた文句に、シグは思わず笑いをこぼしてしまった。そのままサクヤの期待通り「じゃあ」と言って気軽に提案に乗った。
 自分が無意識に持ってしまっていたお門違いの期待は、実はそう見当違いではなかったのかもしれないと思い始めている。短いながらも久しぶりに摂れた良質な睡眠は、シグの思考と判断に必要な分の柔軟性をもたらしていた。


「討伐対象は中部で長いこと野放しにされているアルバトロス級“ヨタカ”。目撃情報は多数あるんだけど交戦記録や被害状況で目立ったものは報告されていない。つまりまぁ、今のところ人畜無害で放置されていたところを僕らが探し出してわざわざやっつけにいくっていう……」
 概要説明の最中、サクヤは沈痛な面持ちを浮かべ嘆息なんかしてみせる。その対面には「八番隊」の面々が、整然とは言い難い微妙なうねり具合で横一列に並んでおり、各々顔を見合わせ様子をうかがっていた。サクヤのもとにナギ、バルト、アンジェリカ、サブロー、リュカの五人が一堂に会するのは、この日このときが初めてだった。
 こうなった経緯には、八番隊正式発足の前に、顔合わせも兼ねて演習をしておこうというサクヤの発案がある。もっともらしいその提案に、既に移籍が決まっていたメンバーは二つ返事で了解してくれた。そういうわけで彼らは今、中部第一支部の目の前に広がるミドガルド大平原のど真ん中で、心地よいそよ風に吹かれている。
 頭上にはこの時期にしては珍しい、目の覚めるような青一色の空が広がる。そして眼前にはひたすら目に優しい一面の緑色。ニーベルングの討伐という血なまぐさいイベントよりは、ピクニックやらハイキングのほうがこの場にはふさわしい気がした。そう錯覚させられるのは、サクヤの爽やかな作戦説明のせいでもある。
「緊急度が低いニーベルングを狩りに行くのも道楽まがいで本意ではないんだけど、今回は一応実地訓練の名目でいろんな申請を通したから、そこは目を瞑ってほしい」
「訓練名目、ってことは目的は別にあるってことですか?」
 勝手に「予想外」にカテゴライズしていた人物が、予想外にもサクヤの説明を遮って許可もなく質問を挟んだ。
「……キサラギ准尉、まだ途中」
 嗜めたのはナギ──八番隊の補佐官だ。ここは予想通り。ただ窘めた側も窘められた側も、視線の先は共通の異物に一点集中している。二人だけではない。皆それぞれに、馴染みのないメンバーの顔ををちらちらと盗み見て一通り値踏みを済ませると、最終的に同じポイントに辿り着き、それとなく視線を逸らす。