「そのあたりに関しては僕が謝る。シグに相談されたのは僕で、みんなを巻き込んで作戦を決行したのも僕だ。ちょうどいろいろやりたかったことと重なっていたからね。ただこの“クイナ”に関しては……実際見て、単純に討つべきだと思った」
今一度じっくりと、谷底を覗き込む。クイナは長い首を妙な角度に捻じ曲げて、こちらを窺っていた。ニブルを吐いている。ニブルという名の、呪いを吐いている。それは単に人体を蝕むだけに留まらず、人であるための大切な何かを随分と腐らせる気がした。
サブローは肺に溜まっていた重い空気を一気に吐き出す。それが安堵の溜息であることは表情を見れば知れた。自分も含め、八番隊の誰も今の状況を不快には思っていない。それが割と大事な確認のような気がしていた。
「事情は一応呑み込めましたけど、実際どう動きますか? さすがにこの距離とこの面子で狙撃は難しいような」
「ブリューならあの岩場を破壊するのはできそうだけど」
「いや、さすがに飛距離がもう一歩足りなかった。それに岩場の破壊はもしかしたら諸刃の剣かもしれない」
クイナの姿を視認してすぐに、サクヤは谷底に向けて無造作に一発を放っている。無造作に見えるように、と言うほうが本当は正しい気がしたが、シグはそれについては言及しないことにした。あの一発は、あくまで魔弾の飛距離の確認だった。サクヤがそう言うなら、それでかまわない。
「胴体を貫いてはいるけど、それが致命傷になっているかどうかは疑わしいからね。現にまだ多量のニブルを吐き続けているようだし……できればあのままの状態で、こちらが確実に致命傷を与えられる距離まで下りていくのがベターだ」
「そうなるとここは、私かな?」
ニブルのミルフィーユにダイブして帰ってこれるだけの身体能力と資質、単騎でアルバトロス級が討てる魔ガンと実力、そういうものを客観的に総合的に考えれば、ナギの立候補は間違っていない。いや、最善で最速の選択だ。それだからこそ、今回に限ってはサクヤの口から苦笑いが漏れてしまう。
「いや、今回は──」
「俺が行きますよ。ここまでお膳立てされて最後まで他力本願じゃ格好つかないでしょう」
少量の本音、ほとんどは建前。プライドはこの際どうでもいい。いや、いつだってシグにとってそれはどうでもいい代物だ。ただ、適当に格好をつけることで、この隊にこれ以上のリスクを背負わせなくて済むならそれに越したことはない。
ここから先の領域には、誰の目にも明らかなリスクとそうではない類のものが並存する。だから関係者以外は立ち入り禁止。関係者は、この場に自分一人でいい。
幸いナギは食い下がってこなかった。黙ってサクヤの判断を待っている。シグが言葉尻を奪わなければ、サクヤのほうがシグを抜擢したであろうことは察しがついたから、頷きひとつで話はまとまった。
「そういうわけで、僕らはシグが谷を安全に降りるサポートをするだけでいい。幸い、アンカーを打ち込むのにうってつけの場所も確保できたし、実際は応援くらいしかやることないんだけどね」
誰かが疑問を呈する前に、サクヤはおもむろに立ち上がって、まだうっすらと黒煙の立ち上るヨタカの遺骸を見上げた。それで概ね、察することはできる。
「嘘でしょう」
「ギンヌンガの岩壁より圧倒的に信頼できると思うよ?」
シグが驚嘆の声を上げたのは、実のところその発想そのものにではない。この整った舞台装置の全てが、偶然の産物ではないという事実に対してだ。
ヨタカははじめから、ここでこうしてこういうふうに最期を迎えることが予め決められていたのだ。そしてそれは寸分違わず実行された。実行できるよう、自分たちは気分よく踊らされていた。
そういうカラクリが知れても、シグに相変わらず嫌悪はない。ただ、心身のどちらかはいつも正直で、全身を静かに駆け抜ける悪寒がそれを代弁しているようだった。
「そうと決まったなら、さっさと片付けちまうか」
バルトはひとつ大きく嘆息すると、そのまま大儀そうにヨタカの前に歩み寄る。サブローも空気を読んで行動を共にした。二人が共に愛用する“アーマーブレイク”と呼ばれる種別の魔ガンは、ニーベルングの皮膚装甲を突き破ることを主目的に開発、調整されたものだ。この特性を活かさない手はない。というより、これ以外に効果的にアンカー部分をヨタカの遺骸深くに突きさす手立てはない。
バルトとサブローが息を合わせて魔ガンの引き金を引く、その爆風と熱風を背後に受けながらシグは崖っぷち一歩手前で「ローグ」と「ヴォータン」の弾込めを行っていた。
「シグ」
振り向いた先で、サクヤが「ジークフリート」の持ち手をこちらに向けて差し出していた。意図は分かる。が、シグは弾込めの手を止めただけに留まる。自分でもよく分からない躊躇があった。
「あれ? ひょっとしてブリュンヒルデのほうが使いやすい?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
むしろあれを使いやすいという隊員がいるなら見てみたい。と反射的に思ったが、その希少種は、今まさにシグの視界の中でしゃがみこんで谷底を観察しているところだ。こういうの常時近くに、それも複数人いれば一般論という感覚は確かに麻痺してくるのかもしれない。
ともあれ、このサクヤの気遣いは、渡りに船ではあった。
「いいんですか」
「シグの狙いで当てても一撃必殺とはいかないかもしれない。念のため全弾装填してあるけど、少なくとも二、三発は想定しておいたほうがいい」
「分かりました。お借りします」
グリップを握った瞬間に他人の魔ガンだと改めて思う。軽量化に軽量化を重ねたシグの魔ガンとは似ても似つかない、ずっしりと重い銃身に前時代の洒落た細工が施されている。手にはなじまない。それでも、いかなる魔ガンでも、やるべきこととできることは大差ないはずで、せいぜい普段より入念に基本を忠実に守ることくらいだろう。
「よぉし、こっちは完璧だ。後はうまくやってくれ。健闘を祈る」
熱風と砂煙の中から、バルトとサブローが汗だくで姿を現す。アンカーの反対側をシグに手渡すと、疲労感を隠しもせず、その場に胡坐をかいて座り込んだ。
「それ、耐火とか耐熱とか特殊加工されてるわけじゃないよな。大丈夫か……?」
テキパキと命綱を装備して、テキパキと安全確認を行うシグを、サブローだけがやけに不安そうに見ていた。
「最悪落ちても死なない高さまで降りとくんで、そうなったときは下流まで拾いにきてくれると助かります」
「思ったより世話が焼けるな……」
「帰ったら奢りますよ、全員分」
「いいから落ちないでくれよ。夢見が悪すぎる」
シグの命綱の装着に関わってしまったせいで、いらぬ悩みが増えた。当のシグは、たいして頼りがいのない命綱一本で、奈落の底に下っていこうというのにあっけらかんとしたものだ。
「じゃあ、降ります」
簡素な合図を最後に、シグは命綱を握りしめて軽快にジャンプした。想定以上に吹き抜けの風が強い。右に左に煽られながらも、そそり立つ岩壁を眼前に、クイナの待つ谷を背後に、リズムよく下へ下へ突き進んでいく。少し靴の裏が触れるだけで岩壁はぼろぼろと菓子くずみたいに崩れていく。丁寧に進んでいるつもりなのだが、その様子は上から見れば土砂崩れの前兆のようだった。
八番隊は皆が固唾をのんで事の顛末を見守っていた。静まり返った場に風の音がやけに響く。身を乗り出しただけで蹴った覚えのない小石が勝手に転げ落ちていった。その度に下半身が縮むような感覚を覚え、少しだけ後ずさる。そしてまた、どんどんと小さくなっていくシグの姿を追うために身を乗り出す。