extra edition#12 冷たいカタルシス


 思った以上に少ない数字が返ってきたことで、リュートは苦笑いをこぼした。彼はその倍は裕に越える数「死ぬかもしれない」と思ってきた。聞く相手を間違えたような気がして頭を掻いたが、今更だ。どうせこんな思い付きの話題は他の連中に振ることはない。それに、確かめたかったのはどうせ回数ではない。
「麻痺してると思わないか。どこからそうなったか覚えてないけど、もう恐怖がセットじゃなくなってるんだよな」
「ああ、それは……あるかもしれない」
 なんとなくではあったが、サクヤにもリュートの言いたいことが掴めてきた。
 チェス盤を眺めるみたいに冷静に、このままいけば数手先で結果として自分が、あるいは隊の誰かが死ぬことになるだろうと予測できてしまう瞬間がある。もっとひどいときには、目の前が紅蓮の炎に包まれていたり、ニブルの分厚い壁にふさがれていたり、ニーベルングの牙並びの悪い口内で視界が埋め尽くされていたりするにも関わらず、それでも他人事のように死を見つめることがあった。ある程度想定どおりに隣人が死んでも、予想に反して自分が生き残っても、それはなんだか過ぎていく事象のひとつで、大事でなくなっていた。
「昨日さぁ、久しぶりに死ぬの恐いなって思ったんだよ」
 話は続くようだ。というより、先刻の質問はただの前振りだったといえる。
「? ……昨日? 今日じゃなくて?」
 何なら「今」じゃなくて? ──魔ガンの一撃で奇しくもできた即席の塹壕の中、サクヤは
手元の残段数を確認する。残り三発。リュートがどれだけの隠し玉を持っているか知らないが、生き延びるには心もとない数だ。サクヤはそれでも無表情を決め込んだ。そしてやはり冷静に今、「死ぬかもしれない」と思い起こしていた。
 一たびニーベルングの“巣”に当たれば、どれだけ節約しようとも弾はいつも底をつく。周囲の気温を塗り替えるほどの激戦によって陽炎が延々と揺らめいていた。砂煙とニブルも手伝って、半永久的に視界はおぼつかない。その中で五体だと思っていたニーベルングは、十体にも二十体にも見えてしまう。
「今現在の話をするなら、死ぬかもしれないとは思ってる。でもやっぱり恐怖はないな。誤射してお前の頭吹っ飛ばしても『わりぃ! 間違えた!』とか言ってそのまま撃つ気がする」
「勘弁してくれ……極端すぎるよ」
「昨日、遺書を書き直した」
「え? ああ。確かに、そういう時期ではあるね」
 グングニル機関では入隊時、異動時、昇進時、そうでなければ三年単位で遺書の作成と推敲が推奨されている。サクヤも折々で自らの遺書を読み返しはするが、入隊時の状態のまま加筆も修正もしていない。遺品と遺産の取り扱いについて、それから家族に向けたメッセージが少々。読まされるほうが拍子抜けするほど簡素な、事務書類といった感じだ。
「不思議なもんでさ。書いてるときに無性に怖くなったんだよ、自分が死ぬの。ちょっと泣いたもん、書きながら。それでちょっとさ、安心もしたの。……分かる? こういうの」
「まあ少し、分かる気がする」
「『人』でいたいじゃん、ちゃんと。こう……好きな娘が自分の冗談で笑ってくれたら、それだけで有頂天になれちゃうような男でいたいのね、俺は。でもさぁ、現実はこっちがメインになっちゃってるから。どんな状況でも感情など優先しません! みたいな。しないんじゃなくて、癖づいてできなくなっちゃってるだけじゃない、うちの連中って。俺もお前も含めてそういうところあるじゃん。どっか機械っぽいっていうか……『感情豊か』を装ってる風」
 周囲の気温も体温もこの上なく高いのに、サクヤの背筋には冷たいものが走った。思い当たる節があるにはある。が、全肯定する気にはならない。
「僕は、後回しにしてるだけだよ。そんなに重症化させた覚えはない。……今、麻痺してるのは認めるけどね」
 火傷と裂傷でぼろ雑巾のようになった四肢を労って、二、三度軽くたたく。手も足も、五感も第六感でさえも、主の意図と判断をよく汲んで動いてくれている。感情に先を越されると動けなくなることを細胞が学んでくれたなら、それは有効に活用すべきだ。
 サクヤが心外そうに顔を強張らせたのを、リュートは見逃さなかった。なかなかの素直な反応に満足し、思わず苦笑いをこぼす始末。
「じゃあこっちの麻酔が効いてるうちに終わらせますかね」
哀愁たっぷりに、汚い空へ呟いた。そして別人みたいに鋭い眼光を肩越しにニーベルングの群へ向ける。
「はい! 待ってましたぁ! いいかんじに一直線、全員前に倣えよろしくぅっ!」
 ニーベルングの無数の屍と崩落した岩とで左右を塞ぎ、彼らが息を潜める塹壕までの道を狭小な一本道に仕立てておいた。楽して辿り着こうと思えば、この誘導路を突き進むしかない。イーグル級の巨体では直列に並んで進むしかないにも関わらずだ。こちらに余分な弾はもうない。そしてニーベルングたちにも、飛び去るための羽根はもうない。それが二番隊の基本的な戦い方だ。相手の逃走手段は徹底的に潰しておく。彼らはニーベルングを撃退するための盾ではなく、殲滅するための槍なのだから。
 リュートが一度だけ引き金を引く、それで見通しがよくなった「死の道」にサクヤが駄目押しの一発を放った。


 歩きながら、サクヤはさして古くも、楽しくもない思い出を振り返った。古くはない、なのにそれはもう思い出と呼ばれる類の記憶になってしまった。記憶の特質上、細部まで鮮やかに脳内上映されるわけでもない。印象的な断片が都合よく編集されて、ぽつぽつと蘇るだけ。
 すぐ後ろをリュカが無言でついてくる。欠伸こそしないものの、眠気眼を誤魔化すように何度も大儀そうに瞬きをしていた。二人はそれぞれ宛ての遺書を持って、グングニル隊員の墓地に居る。それはグングニル本部が擁する敷地内の北端、グラスハイムの街並みを見下ろす小高い丘にある。空と街の輪郭との間には、青絵具で一筆がきされたような外海も望める。贅沢な眺めの、物寂しい場所だ。
 見渡す限り整然と並ぶ墓標には、見知った名前も刻まれている。不規則に供えられた色とりどりの花、時折目の前を横切る名前も知らない蝶、そして墓標の前で祈りを捧げる幾人かの遺族たちを素通りして、二人は丘の頂を目指す。墓地で一番眺めのいいその場所に、真新しい二十四の墓石が並ぶ。
 リュカが「じゃあ、遺書読み大会しようよ」などとふざけたことを言いだしたからこうなった。ふざけているなとは思ったが、不謹慎だとは特に思わなかった。それぞれに暗灰色の封筒を手にした男二人は、この風景にそこそこの調和をもたらしている。
 安らぎと穏やかさの中で、ここだけは時間を止めているようだった。二番隊の墓標の前に躊躇なく座り込むと、サクヤは何も言わず「最初」の遺書の封を切った。未開封の同じタイプの封筒が、何通か重ねて脇に置かれる。知らぬふりをしておけば良かったのだが、それができないのがリュカである。
「……隊長。少なくない?」
 二十四通には見えない。分厚いものもあるがせいぜい数通。
「二番隊員からの人望は、ないからなあ」
 少なくはない人数から疎ましがられていた自覚はある。サクヤの自由奔放なやり方や価値観に面と向かって異を唱える者もいたし、八番隊への異動を裏切り行為だと揶揄した者もいた。あらゆる類の嫉妬も向けられていた。しかし、そういう奴らに限ってこうしてわざわざサクヤ宛てに遺言など遺すのだから、困惑は禁じ得ない。
 できれば事務的な内容であってほしい。そうでないなら、慣れ親しんだ恨み言が望ましい。他人の遺志を受け継ぐほど、サクヤの持ち時間にも十分な空きはない。
 リュカは一人分ほどの間を空けて、サクヤの隣に同じように座り込んだ。何の気なしに空を見る。──曇天。その単語だけで説明が事足りる、お手本のような曇天。報告書に目を通すみたく、ただ粛々と黙読を続けるサクヤを一瞥して、リュカはようやく遺書の封を切った。