extra edition#3 アフォガートがとけるまで【Ⅰ】


 確かに──考えただけでも背筋が凍る。冗談でなく走る悪寒に身震いして、サクヤは力なく笑った。動いていないとここは少し、冷えるのかもしれない。
「あの、さ。サクヤ。もし違ったら、気を悪くしないでほしいんだけど──」
 ナギは何かしら、意を決して切り出したところだったと思う。悪いと思ったが、サクヤをそれを遮るかたちで立ち上がり、振り返って敬礼した。
「おはようございます」
「あ~……。あ~っと……」
 ひげ面の、壁のような巨躯の男が後ろ頭を掻きながらうなり声をあげていた。ナギも立ち上がって畏まった。
「ああ! そうだ、サクヤ! サクヤ・スタンフォードな! なんだよ、お前あれだけ飲んでこんな早ぇのかよ! まさか仕事とかする気じゃねぇだろうな! わっはっはっは!」
「えーっ……と」
 答えに窮して視線だけでナギに助け舟を求める。ナギはてきぱきとカップに新しくコーヒーを注ぎ「キャプテン」に手渡した。ディランが摘み上げたカップは、他のものと同じサイズのはずだがデミタスカップか子供用に見える。
「仕事はします。他の隊員も。まぁたぶん昼からになるんでしょうけど。私とサクヤはその間に一度坑道に行っておきます」
飲み干されたというか、一度口をつけただけで空になったカップにナギは慣れた手つきで二杯目を注ぐ。それもまた、一口で口の中に放り込まれてしまった。
「二人で、か?」
「何か問題が?」
 ナギが食い気味に切り返す。ディランは鼻で笑って、今しがたの自分の発言を取り消すように片手を振った。
「おい、サクヤ。お前が連れていかれるデートコースは朝っぱらから“出る”からな。持つモン持っていけよ」
 幽霊も変態も、山岳地の極寒の朝を選んでわざわざお出ましにはならないだろうから、言うまでもなく出てくるのはニーベルングだ。基本的に居住区ではない地域に、ニーベルングは人知れず小規模な基地をつくる。第二支部の担当区域はニーベルングが身を隠して暮らすための必要十分条件がそろいもそろっているのだろう。奴らはおそらく、低体温が原因で死んだりはしない。
 ナギと二人で出発の準備を整えながら、サクヤはいくつかの疑問をそのまま口にすることにした。
「さっき坑道って言ってたね? 僕らが今から行く場所はラインタイト鉱山ってことになるのかな」
「うん、そう。大規模なものじゃないけど、純度が高いのが相当数採れる。距離もここからそうないから、遭難する心配はないんだけど」
「ニーベルングは出る?」
「崖下にニブルの吹き溜まりみたいなところがあって、ね。そこにやっぱりふらっと一体、二体やってきたりする。群れてはこないから二人でいけると思う。あ、だからマスクは必須ね?」
「ニブルの……吹き溜まり、か」
 初耳だ。口元に手をあてがって考え込んでいるらしいサクヤに、ナギは適切な補足ができず曖昧な笑みでごまかすしかなかった。
「ごめん、正直見てもらったほうが圧倒的に早いと思う。それに、キャプテンの意向もあって、なんかこう……びっくりさせたいんだって」
 サプライズの種をちらつかせるような罪悪感にかられたが、本当に何も言わずにおいた場合のリスクのほうが高い気がしている。そもそも支部全体で抱え込んだこの大規模な秘密のせいで、中部第二の隊員はほとんど異動がないのだともいわれている。(幸い、異動願いを出す隊員はごく稀である)。軽く説明を、という案件ではないのだ。
「なんだか少し、楽しみになってきたよ」
「あなたがそういうタイプの人で、正直助かる」
 つまり、何においても好奇心が先行するという点で。それが社交辞令でないことは昨日からのサクヤの言動や雰囲気からなんとなく察することができた。
 それとは別に、ナギがもう一つ、なんとなく察している気配のようなものがある。違和感といってもいい。先刻はそれを確認しようとしたちょうどそのときに、ディランが起きてきたものだからタイミングを逸してしまった。
 今なら聞ける。少なくとも口に出すことはできる。一瞬間考えて、ナギはそれをしないことに決めた。もし仮に、ディランの入室のタイミングがサクヤに対するアシストだったとしたなら、自分はそれを尊重すべきだと考えた。


 天候は晴れ、か弱い太陽の光が銀世界を照らしている。慣れた足運びで新雪を踏み均すナギに続いて、サクヤも注意深くその轍を辿る。
 振り向けば、要塞のごとき第二支部の基地が威風堂々と構えていた。一面雪に覆われた大自然の中で、それは確かに巨大な異物ではある。同時に、人にとっては安堵の象徴、心のよすがだ。ではニーベルングにとっては? ──畏怖の対象になり得ているのだろうか。
 環境がこれでもかというほど変わったせいだろうか、サクヤは今まで考えたこともないような思索に耽っていた。それでつい、足元への集中を欠く。「うわ」などという簡素な悲鳴をあげ、次の瞬間には雪の絨毯の上で四つん這いになっていた。
 振り向いて手を差しのべてくるナギの沈黙となんとも言えない表情せいで、サクヤにも気恥ずかしさがわいてきた。
「ごめん。ちょっといろいろ考え事をしてて」
だから聞かれてもいないのに言い訳じみた弁解をしてしまう。
「……私はまともに歩けるようになるのに二週間以上かかったと思うんだよね。それをこう……考え事しながらサクサク歩けちゃうあたりが何ていうか。二番隊ってみんなそう?」
「まさか。ナギの轍を辿ってるだけだよ。現にこうして派手に転んで、君に助けられてる」
「じゃあ苦手なことってある?」
「もちろん」
「たとえば?」
 矢継ぎ早の質問に悪意はない。多少のやっかみと純粋な興味本位によるものだ。が、それはサクヤの回答がその場しのぎであったことを暴くには十分すぎる痛恨の一撃だった。サクヤは自分が掘った墓穴にはまって勝手に万事休すに陥っているだけである。
「基地に戻るまでに考えておくよ……」
 苦笑するナギの手をとって、勢いづけて立ち上がる。そしてアイシングクッキーみたいな色のうすぼんやりした空を見上げた。正確には自分たちの頭上一点を。サイズこそ断定できないが、ニーベルングが一体、いつの間にか自分たちの真上を旋回していた。
「随分高いところを旋回してるね。向こうも気づいているはずなのに降りてくる気配はない」
「今のところね。たまにああいうの出るんだけど、仕掛けてくることはほとんどないかな。そのまま馬鹿みたいにぐるぐる回って帰っていくかんじ」
「それって、回ってるのはいつも同じニーベルング?」
「え、さあ……個体識別までは」
「じゃあやっておこう。あれがニーベルングの習性か、個体の意思なのかは把握しておくべきだ」
 もしくは、群の中での役割か──それなら安全圏にいて攻撃をしかけず、ひとしきり様子を観察していることにもうなずける。要は、あのニーベルングは自分たちと同じ偵察役なのではないかという仮説を検証しておきたいという話だ。仮説が正しければ交代要員がいてもおかしくはない。それを判断するためには、今ここで目印が必要だ。
「ナギの魔ガンはレベル5だっけ?」
「うん、そう。でもあの高度には届かない。ライフル型じゃないと無理だと思うんだけど」
「爆風は十分に届くよ。僕が撃ったら、間を置かず同じ方向に撃ってほしい」