extra edition#3 アフォガートがとけるまで【Ⅰ】



「いや、だから──」
 それに何の意味があるのかを説明してほしい、と至極まっとうな要求が喉元まで出かかった。飲み込んだのは、サクヤが既に頭上に向けて魔ガンを構えていたからだ。ナギは慌てて懐から自分の魔ガンを引き抜く。刹那、すぐ隣でトリガープルの僅かな金属音が鳴る。ナギは半ば反射的に、今しがた指示されたとおりことを忠実にやってのけた。撃った反動で自分の身体が後方へ押し戻される、のをいつものようにうまく調整して数センチにとどめる。爆音は一発分だけ轟き、その瞬間空が茜色に染まった。断っておくが、夕暮れにはまだ早い。とんでもなく早い。
「ナイスアシスト! 期待以上!」
 サクヤは子供のように満面の笑みを浮かべ、眩しそうに上空を見上げる。
「……なんで赤?」
「タイミングばっちりだったね。聞こう聞こうとは思ってたんだけど、ナギの魔ガンがまさかあの“ブリュンヒルデ”とは思わなかったよ」
 聞いちゃいない。そしてナギのほうも、そんなサクヤの相手ができる余裕がない。彼女は混乱している。サクヤに次いで撃ったはずのラインタイト弾は、想定通りニーベルングに届くことはなく、それよりも遥か手前で焼き切れて自然爆発した。そこまではいい、理解の範疇だ。問題は、ブリュンヒルデの爆風が、爆煙が、突如として真っ赤になってしまったことだ。夕焼けをそのまま煙にしてしまったような濃いヴェールの向こうで、ニーベルングは旋回を止めてもがいていた。
「墜ちてないしっ。いや、当然か! って、だいたい一発目はどうなったの? 撃ったよね?」
「さーて、こっから向こうがどう出るかだけど。交戦は避けたいけどなあ」
 聞いちゃいない。爆煙の色にまったく無反応なところを見るに、サクヤがこの状況の仕掛け人であることくらいは想像できるのだが、そろそろ詳細な説明が欲しい。しびれはとっくの昔に切らしていた。それでもナギは、やはり状況判断を優先させた。今はサクヤが見守る視線の先──ニーベルングがどう出るかを注視すべきだ。  
 魔ガンのセーフティは外したまま、二人は無言で空を見上げていた。視線と体勢はそのままで、サクヤは弾の補給を手際よく行う。入れ替えといったほうが適切かもしれない。それに気づいて、ナギが思わず大声をあげた。
「それ!」
 さすがにというか、ようやくというか、サクヤもこれには身を震わせる。警戒を解いてしまったのとほぼ同時に、視界の端でニーベルングが飛び去って行くのを捉える。煙は抜け出したニーベルングになおも纏わりついて、その身体を夕焼けのように真っ赤に染めていた。
 すべて狙いどおりに事が進み、サクヤは満足そうである。
「これで次にこの近辺を旋回してるニーベルングがあいつならすぐ分かる。訓練用の着色弾だけど、雨程度じゃ落ちないしね」
 サクヤが最初に放った弾は、彼の言う通りこの鮮やかなペイント弾。魔ガンの命中率のチェックや模擬演習時に使用されるものだ。対象に着弾して初めて着色されるから、ナギのダメ押しの一発で無理やり爆発させる必要があった。そういう特殊な弾があることも、その特性も、ナギがすぐに思い当たらないのも無理はない。ペイント弾が実際に使用されているのは本部だけだ。
「討伐対象ってわけじゃないけど、便宜上識別名はつけておこうか。何かいい案はある?」
「この辺は遭遇戦が多いから、命名せずに数だけ報告あげることがほとんどなの。そういうわけで、経験豊富なサクヤさんにそのあたりはお任せしますが」
「うーん、そっか。だいたい特徴めいたものがまだ判明してないわけだからなあ。……じゃあフラミンゴ」
「嘘でしょ」
「だめ? モモイロインコって手もある」
「特徴重視なんだ……。いいんじゃない、もうフラミンゴで」
「決まりだ。討伐の必要性が出たら、正式に申請しよう」
 最後は何か、きりりと締めてくれた。ナギもそれに合わせて適当に笑顔を繕う。
 サクヤ中部第二支部着任、たったの二日目。しかも午前中というこの時間で、ナギは持っていたサクヤへの印象をすでに二回修正する羽目になっていた。一度目は、ドリアン野郎から柔和な好青年へ、二度目は能力値高めの変わり者へ──それが三度目には手に負えない奇人変人にならないことを祈りつつ、気を取り直して坑道の入り口へと歩を進めることにした。
 黙っていると自分たちの息があがっていることに気づかされる。単純な寒さと膝下まである新雪に足をとられる動きづらさとで、歩いているだけで体力は容赦なく奪われているようだ。それでも、雪が降っていないだけ、気休め程度に日が差しているだけ、その分辺りが明るい分だけましなのかもしれない。そして何より一人ではないことが大きい。ナギは次から次にいろんな質問、話題をサクヤに振ってくる。二番隊ではどんな任務に従事したかとか、隊長はどんな人で隊員たちはどんな風に戦うかとか、そういったグングニル隊員らしい話題もあれば、中央に最近できたカフェの評判だったり、話題になっている舞台演劇の感想だったりと他愛ない話も尽きることがない。
 サクヤは不思議に、それらを好ましく感じていた。彼女には良い意味で慣れと余裕がある。そして肝心なときの注意深さと迅速な判断力も備わっている。ナギのおかげで、サクヤは当初予想していたレベルのストレスを、ほとんど感じずにすんでいた。このまま何の支障もなく平穏無事に坑道まで辿り着けるなら大歓迎だ。が、何事もそう平和的には進んでくれない。殊に、この中部第二支部ではなおさらのこと。
 ついさっきまで辺りを照らしてくれていた日が一瞬にして陰る。何かに遮られた。それが雲でないことは明白だ。雲はこんなにもこれ見よがしに両翼をはばたかせて威嚇したりはしないだろうから。
「千客万来だな……」
 イーグル級三体と正対して出た言葉がそれだった。群れてはこない、と出がけにナギは言った。確かに群という規模にはふさわしくない。せいぜいチームというか、ファミリーというか、その程度の規模だ。ただし、二人で応戦するにはいささか分が悪い。
「サクヤ! 応戦は無理! このまま坑道まで走ろう!」
言うが早いかナギは除雪車さながらに雪の中を突進していく。サクヤは既にジークフリートを抜いて万全の体勢に入っていたから、これはまさかの展開だった。
「無理って……! いやいやいや、二人でならやってやれないことは……」
「雪崩! 私とあなたの魔ガンで、三体も一気に相手してたら雪崩起きる! 逃げるが勝ち!」
 喉元まで出かかった素っ頓狂な悲鳴を飲み込んで、サクヤは瞬時に切り替えた。この地区の敵は、本当はニーベルングではないのかもしれない。そして本当に把握すべきは地形そのものではなく、気候変動なのかもしれない。脳裏をよぎる重要そうでそうでもない考えを今は一切合切受け流してナギの後を追った。
 三体のニーベルングは雪崩の脅威を知ってか知らずか、着地はしないままで狂ったように頭部を揺らして煽ってくる。羽ばたく音がするだけで、それ以外の静寂は保たれたままだった。彼らは獣じみた雄叫びをあげるわけでもなく、その鋭利な牙を執拗に鳴らしたりもしない。静かに、しかし豪快に体内に備蓄していたニブルをそこら中にまき散らすだけだ。
 サクヤは無我夢中で走りながらも、マスクだけは冷静に装着した。蛮勇を犯すような状況下ではない。ニブルのシャワーを浴びながら、雪に埋もれて全力疾走する。一足先に坑道の入り口とやらにたどり着いていたナギが手招きするのを見て、サクヤは安堵とともに爽快感を覚えた。
「なるほど、これはうまい」
 ナギの言う「逃げるが勝ち」の意味がようやく理解できた。眼前には絶壁、坑道の入り口となる横穴は、成人男性がやっと通れるくらいの高さと幅しか持ち合わせていなかった。サクヤがその穴から滑り込むと、追跡に夢中になっていたニーベルングたちは何の疑いもなく顔面だけをねじ込もうと躍起になる。自分たちのサイズが合っていないことを悟ると、少し距離を置いて再びニブルを吐こうと口を開けた。ナギはその瞬間を狙い撃った。