extra edition#3 アフォガートがとけるまで【Ⅰ】


 ここで初めて静寂が破られる。ブリュンヒルデの爆音が坑道内にも響き渡り、外では肉が焦げる匂いと炎がたちこめる。ニーベルングの死骸は二体。頭部の弾け跳んだそれと、首の途中からちぎれたそれ。三体目は逃がした、と思う。逃走を確認したわけではないが、死骸がないのでそういう結論に落ち着ける。
「潜伏してる可能性は?」
「ゼロじゃないけど、そこまで気まわしても、ね」
 一旦坑道から出て、二人がかりでニーベルングの焼死体に雪をかけ続ける。地味で地道で骨が折れる作業だ。が、放っておけば通気性の悪い坑内で煙に巻かれて中毒死という、地味で痛々しい二次被害にやられることになる。ここは気をまわしておくべきところだ。
「それにしても、鮮やかな手腕だったね。いくらバーストレベルが高いといっても、一撃でイーグル級二体はなかなか仕留められない、……よ」
 墓でも作るような丁寧な手つきで雪を積むナギ、その顔を見てサクヤはある違和感に気づいた。その遅すぎる気づきに、息が止まった。全身の血液が音を立てて引いていく。
「運が良かったっていうのが大きいけど。サクヤ? どうした──」
などと悠長に答えている間に、サクヤは得も言われぬ凄まじい形相でこちらへ駆けてきて、自分が付けていた防ニブルマスクを力任せにナギの顔面にねじこんだ。手加減などしている余裕は無かったから、全くの無防備状態だったナギは勢いで雪の上にしりもちをつく。
「ナギ……! 君、マスク持ってきてたよね?! なんで……!」
「あ、そうだった。しまった。ごめん」
「ごめんで済まされることじゃない! 基本だろ!」
 風はほとんど吹いていなかった。だから二人の周囲には、未だに濃いニブルが立ち込めているはずだ。それに思い当たると、ナギは文句や弁明より先に、自分が飾りとばかりに持参していたマスクをサクヤの剥き身の顔に当てた。
「ごめん、そうじゃないの。大丈夫だから。大丈夫なの、私は」
「は? 何を言って……」
「後で説明する。だからサクヤはそのマスク、ちゃんとして」
 平静極まりないナギの様子を見て、何かわけがあるのだろうと一応心を落ち着けることにした。吸ってしまったニブルを吐き出すように深く嘆息する。マスクの中で生暖かい空気が一瞬籠り、すぐに排出されていった。
 再び坑道の中へ戻り、互いに向き合った。サクヤの鼓動は静まらないままだ。頭痛と吐き気は気のせいだと言い聞かせる。今はそう、それどころではない。
「……ナギ。ニブルで、人は死ぬ」
当たり前の事実をこんなふうに他人に口にしたのは初めてだ。火に触れれば火傷するとか、水の中では息ができないだとか、そういう子供でも知っているようなレベルの話だ。だからこそ、サクヤは混乱している。取り乱しているのが自分一人だということも含めて、今のこの状況は理解の範疇外だ。
「わかってる。でも本当に、私は平気なの。血中ニブルはいつも限りなくゼロの数値を示す。医者が言うには、耐性が人並み外れてるんだろうって」
「そんな馬鹿げた話……。仮にそういうことがあったとして、リスクが解消されるわけじゃない。マスクをつけない理由にはならないよ」
「それはそうなんだけど、もうつける習慣がないっていうか。ほんとに申し訳ないんだけど、またやると思うんだよね、私。だからサクヤが慣れてくれたほうが話が早いっていうか」
 予想と違う展開にサクヤは軽い眩暈を覚えていた。こちらは正論を言っている、はずだ。そこはふつう大人しく、「これから気を付けるね」という流れになるのではないか。それともこちらの言い方がまずかったのか。自慢ではないが、サクヤは常日ごろ感情的な物言いはしない。ましてや同僚や部下を怒鳴って威圧するような真似はしたこともない。その方法に慣れていないから、こちらの意図が正しく伝えられていないというのは十分に考えられる。
(いや、だから今できるだけ冷静に話を……)
 したところで、こちらが折れろという旨の返答をされたのだ。悪びれもせず。
 早々に万策尽きて、サクヤはマスクの中でまた深々と嘆息した。そのせいで今度は息苦しさも覚える。
「わかった。この話は、いったん保留にしよう。納得できるまで僕も時間がかかりそうだ」
「うん。私もこれ以上の説得材料は持ってないし。それより今は」
 ナギが視線だけで坑道の奥を示す。入口からすぐに急なカーブがあり、現在地からでは数メートル先も確認がとれないつくりになっていた。最低限の明かりは採掘作業を想定したものではなく、グングニル隊員の巡回のためだけのものだ。今は、というか鉱脈が発見されて以来、実際の採掘は行われていない。
 先導するナギが、ちょうどその曲がり角で立ち止まった。サクヤはナギの肩越しにその先の開けた空間を見る。貴族のお屋敷一軒くらい建てられそうな広さと高さがある。おかげで洞窟特有の圧迫感はない。
「ここで行き止まり?」
「そう。ここだけ。あとはまあその……自由に散策を」
「散策をって……」
 種も仕掛けもここにある。それは間違いない。ナギはこれ以上案内する気はないみたいだから、サクヤも諦めて一人で歩を進める。足元はダンスホールの大理石の床のようだった。歩くたびに靴のかかとが軽快に鳴る。壁も天井も純度の高いラインタイト鉱石が剥き出しになっていて、それらが周囲の僅かな照明を反射してミラーボールのようにきらきらと瞬いた。
 サクヤも思わず息をのむ。これだけの質と量のラインタイト鉱山なら、貴族のお屋敷ごときなら何百軒と建てられるような金が動く。それをグングニル機関中部第二支部は(ほぼ)独断で秘匿しているのだ。これは査問ものである。
 その貴族のお屋敷数軒分のラインタイトを、グングニル支給のそれほど高価でない雪上用ブーツで踏みつけながら進めるところまで進んでみた。突き当りには、やはり貴族の庭園くらいの面積の地底湖が広がっていた。といっても湖面は完全に凍っているようだ。飛び降りても問題ないかどうかを確かめようと身を乗り出した刹那。
 噎せた。これでもかというほど。咄嗟に呑み込んだ悲鳴や、無我夢中に吸った酸素が我先にとばかりに押し合いへし合い気管に向かう。両ひざに手をついて汚く咳き込んでいるところに、ナギが血相を変えてすっ飛んできた。
「だ、大丈夫?!」
「大丈夫じゃない……! ナギ、これはちょっと……たちが悪いんじゃない?」
「そう思う。でも百聞は一見に如かず、だったでしょう?」
 ナギはどこか得意げに、力強く頷いて見せる。そんなふうに瞳を輝かせて見つめられると、文句も言えない。サクヤは長い溜息に似た深呼吸をすると、改めて凍結した地底湖を見下ろした。
 その巨大な氷塊の中で、ニーベルングが安らかに眠っている。──死んでいる? ──だとしたら、随分と大がかりな特注の棺だ。ニーベルングが凍っているというよりは、氷塊の中に魔法で閉じ込められてしまったような、不思議な魅力があった。だから視線のみならず心そのものが釘付けになる。サクヤはしばらく言葉を発せず、眼前に用意された生まれて初めての光景にただただ息をのんでいた。
「イーグル級……じゃないな。この規模ならアルバトロスか」
「識別名は“スワン”。この坑道と同時に発見されたから、そろそろ三年が経つ。氷も年々薄くなっていってる。キャプテンの見立てでは、次の春には融けきるんじゃないかって」
 ナギの説明を聞き流しながら、サクヤはしゃがみこんで湖面を五指でなぞる。ガラスのように滑らかにで、張り付くような感覚はない。そのまま何度か軽くノックした。まさかこの程度で崩れるような代物ではないが、お世辞にも堅牢強固とは言えない強度のようだった。
 再び立ち上がってスワンの全貌を視界におさめようと努めた。両翼と尾に包まるようにして顔を埋めている。その姿は前衛的なアート作品にも見えたし、大自然の神秘ともとれる。息をのむような美しさがあった。そのせいか邪悪さや禍々しさみたいなものは一切かき消されているようだった。もともとニーベルングにそんなものはないのかもしれない。このどこまでも透き通った氷の障壁は、一切の偏見を受け付けないためだけに存在しているようでもあった。