extra edition#4 アフォガートがとけるまで【Ⅱ】


 食事量? ──思ってもみない根拠が飛び出してきたことに、また言葉を失う。言われてはじめて思い当たった。確かに以前に比べて、彼は食事を早々に切り上げる癖がついていた。理由は至って単純だ。
「ここ最近は、味がわからないことが多いから、ね」
 観念したように自嘲の笑みを漏らした。巧妙に仕組んだトリックを暴かれ、自供する犯罪者の気分。よくわからない清々しさと諦観。ただ、彼は法に触れるような真似はしていないし、誰かが悲しむような卑劣なことも誓ってしていない。
 そのはずだが、ナギはその瞬間にひどく傷ついた顔をした。それが一気に、サクヤを狼狽させた。
「えーっと……、いや、その、よくあるニブル病なんだけど。ちょっと臓器が一部硬化してるくらいで生活に支障はないし。えーっと、あ、もちろん戦闘も全然!」
 胸騒ぎが凄まじい。かいたことのない類の汗が猛烈に噴出してくる。今後高い確率で起こりうる最悪の事態を阻止すべく、サクヤは打てるすべての手を打っておこうと躍起になった。それが悲しいほどに拙い。故に不発に終わる。
「ごめん。私、無神経だった」
 ナギはそれだけ言うと、俯いて押し黙ってしまった。
 後悔が渦になって、彼女の胸中を支配していく。無論、サクヤの言動に傷ついたのではない。自分の言動がサクヤを傷つけていたのだと思い至ったからだ。「ニブルで人は死ぬ」と彼は言った。自分の軽率な行動がそれを言わせてしまった。顔があげられない。
 そういう大変素直で率直なナギの態度は、彼女が思うのとは別の方向でサクヤを追い詰めていた。既に万策尽きて、サクヤは天を仰いでいる。一面ラインタイトの煌びやかな天を。
「本当に、君が気に病むようなことでもないんだ。悲観的になっていても時間の無駄だし、そういう意味で気持ちの整理はけっこう前につけてある。……って言っても、周りはあんまり、納得してくれないわけだけど……」
 現にナギは顔をあげてくれないし、同じく二番隊隊長候補として名前があがったリュートも、「そういうふうに言うなら、お前が二番隊隊長の座に就くべきだ」だとかなんとか言って今もへそを曲げている。曲げているから、自身にお鉢がまわってきたその打診を駄々っ子みたいに断り続けている。
 一番厄介なのは、現二番隊隊長のアサトだ。現状維持を許してくれない。何も変わっていないのだから、何も変えたくないというサクヤの主張を頑として受け入れない。進むのか引き返すのか、零か一か、白か黒か、決めてこいと彼は言った。
(そういえばそっちの宿題は、完全に忘れてたな)
 沈黙が重く、果てしない。ブリザードの烈風が外気を切り裂く音だけが、坑内に反響している。うるさいはずなのに、どこまでも静かだ。
「分かった。こうしよう」
 完全に忘れていたほうの宿題を今一度脳内の隅の方に追いやってから、サクヤはある決断を下した。
「ブリザードが明けたら、僕らも掃討戦に参加する。それは間違いないよね?」
「間違いない、けど」
「じゃあ勝負をしよう。より多く、ニーベルングを討伐したほうが勝ち。負けたほうは勝ったほうの言うことをひとつ聞く。僕が勝った場合の望みは、君がこれ以上僕の事情について心配したり気を遣ったりしないこと。初めから気づかなかったことにしてくれれば、それでいい」
「何それ。そんなのなんの解決にもならないじゃない」
「なるよ。少なくとも僕にとっては。それとも自信がない?」
 ナギが言葉に詰まる。まさかこの手の挑発をこの男からくらうとは予想外もいいところだ。面食らいはしたが、種がわかっているのだから無碍なく一蹴してしまえばいい。
 サクヤはそれを見越していた。だから馬鹿みたいにわかりやすい煽り文句でたたみかける。
「言っておくけど、全力で戦っても七割くらいの力しか出ないよ、今は。地の利も経験も圧倒的に君が有利だ。それでも僕は君に勝つと思う。たぶんね」
「分かった。私が勝ったら、サクヤが何かひとつ私の言うことを聞いてくれるんだよね?」
「もちろん」
 言ったそばから、ナギは胸中で自分の軽薄さをなじった。笑ってしまうくらいわかりやすい挑発に、分かっていて乗ってしまった。いろんな言い訳が言葉にならないまま渦巻いていたが、どれもこれも考えるだけで空しい。だからもう深く考えないことにした。
 実のところ、その結論がサクヤが今一番望んでいるものだということに、ナギは当然気づいていない。
 それから数分経たないうちに、隣の待機小屋に詰めていたはずのジェシーが半分凍り付いた状態で転がり込んできた。
「何やってんの?」
 心配するどころか不審者を見る眼付でナギが後ずさる。
「遊んでるように見えるか? 最新の訃報をいち早く届けにきてやったってのによっ」
 皮肉めいた冗談を言ってはいるがジェシーの顔は青ざめていた。それが寒さのせいでないことはすぐに証明される。
「俺たちが毎日入~念に雪かきしてる基地横のぶっといケーブルがあるだろ? あれがニーベルングに食いちぎられて“ヘビ”に動力がいってない」
 ジェシーが憂いたっぷりに口にした聞きなれない単語にサクヤは惜しげもなく疑問符を浮かべた。質問される前にナギが短く答える。
「キャプテンの魔ガン、の通称」
「ああ。正式名称は“ミドガルズオルム”。グングニル広しといえどあれの使用権限が与えられてるのはキャプテンだけ……って、今はそんなこと悠長に説明してる場合じゃないんだよ。山越えしてくるニーベルング軍団にミドガルズオルムなしで対処するなんてどう考えてもだな」
「地獄絵図かも」
 ナギが肩代わりした結論にジェシーは二の句をつけず肩を落とした。
 サクヤの脳裡には、先刻想像していた総力戦の映像が再びよぎっている。雪と泥と汗と血にまみれた決死の戦い。それは是非、回避したい。経験やら空想やらをつなぎ合わせれば、地獄絵図に関してはある程度具体的に想像することができたが、肝心の“ミドガルズオルム”とやらに関してはサクヤは必要最低限の情報すら持っていない。それがひどく不服だった。
「そうだ、ケーブルを食いちぎったニーベルング」
 当然の不満をナギに視線で伝えようとしていた矢先に、ジェシーのほうが何故か不満げにサクヤに視線を投げてきた。その視線だけで何となく、次の言葉が予想できてしまった。
「まさか」
「そうらしい。全身真っ赤ってのは、血なわけないよな。俺たちのまわりをうろちょろしてたのは、このためだったってことか?」
「……死んでいる?」
「当然な」
 サクヤは広げていた“冬休みの宿題セット”を荒々しくまとめると早足で坑道の出口に向かった。ナギも慌ててランタンの火を消すとその後を追う。
「サクヤ!」
「キャプテンと話す。これ以上後手にはまわれないよ」
 視界は完全なホワイトアウト。数メートル先のコテージが見えない。こういうことも想定してコテージの位置は坑道出口から直進した先にしてある。手探りと勘で歩を進めた。ほとんど匍匐状態で入口の扉にたどり着くと、片手でドアを押し開けてもう片方の手で後ろに張り付いていたナギを引き寄せた。一足遅れてジェシーもなだれ込んでくる。
 コテージの中では待機していたハロルドが、心もとなさそうに毛布にくるまっていた。
「……何やってんの?」
 先刻ナギが浴びせた不審者への視線と心無い一言がそっくりそのまま返ってきた。三人はそれぞれが不格好な雪だるまみたくなってがたがた震えていた。
「基地と……無線、つながってる?」
「呼べばつながる。怒鳴られると思うけど」
 それでかまわないと頷きながら、のしのし近づいてくるサクヤのために、ハロルドが気だるい声で無線機に呼び掛けてくれた。怒鳴られるのはこのテンションのせいではないかと思ったが、もう遅い。