extra edition#5 アフォガートがとけるまで【Ⅲ】


「私がキャプテンの回し者扱いされたってわけか」
「言い方が……うん、まあ、結局のところそうなんだけど」
 サクヤの抱えている、少なからず簡単ではない事情について知っているのは、ここではディランだけのはずだった。最後までそのはずだった。干渉や心配は余計なものでしかなかったし、誰かに相談して生き方を決めようなどとは思ったこともない。
 この場に求めたのは、ただ時間だった。過剰な期待はしなかった。それなのに、毎日が刺激的で楽しいから、充実していて満たされるから、いつしか欲が出てしまったのかもしれない。
「ナギは、周りをよく見てる。食事にはもともとそこまで気を配ってなかったから、君に言われてはじめて気が付いた。君は自分を無神経なんて言ってたけど、無神経な人はそこまで他人を気に懸けたりしない」
 突拍子もなく自分の話になって、かつ、またもや婉曲的にべた褒めされていることが分かりナギの頬が紅潮する。
「いや、私のことは今はよくて。サクヤの話。隊長就任を断ったのは病気のことがあるから……? なんだよね」
 サクヤは反射的に苦笑した。この期に及んでも、いろんな本音を実に適当に誤魔化す術を彼は心得ていて、それをそのまま実行することは簡単にできた。例えばそう、先刻みたいに「自分よりもふさわしい人間がいるから」という至極まっとうな正論をひけらかせば、少なくとも失望させることはないだろう。ただ今に限っては、それがより一層の自己嫌悪につながるような気がして、できなかった。
「そんなに大層な理由じゃないんだ」
 短い、それでも重い沈黙の時間が流れる。
「時間が限られているから、自分のことに集中したい。今の僕に、他人の命や人生までしょい込む器量はない。それだけの、自分本位な理由だよ」
 払わなければならない自己犠牲を、時間というかたちで大量に支払ったのだから、それに見合うくらいには自由にふるまいたかった。アサトはおそらく、サクヤの本音を見越して「権限のある立場にあること」を強要してくるのだろう。問題はその比率だ。どう考えても割に合わない責任が発生する。そんなものまで背負う時間の余裕も心の余裕もない。
 整理して向き合ってみると何のことはない、思っていた以上に自分が情けなく、器の小さい人間だったというだけの話だ。逃げていると言われれば、全速力で逃げているとしか答えようがない。そういう有り体の指摘でも、他人にされれば不快には思うだろうし、自分で認めるのも苦痛である。
「サクヤの裁量で動かせる隊って、隊員を選抜するっていうのはありなのかな?」
 サクヤがひとり自嘲の渦に飲まれているところを、ナギはお構いなしに攻撃してきた。死角をだ。
「選抜……というと、つまり僕が? っていうこと?」
「そう。自分の命の責任は自分で持てる人を選べば、サクヤの言うめんどくさーい負担みたいなのは減らせるんじゃない? もっと欲を言うならそうだな、逆にサクヤを支えてくれるような人で脇をかためて──」
「君みたいな」
「そうそう私みたい、な──じゃなくてっ。今私、権利行使中なんだから茶化さないでちゃんと最後まで聞いて」
 権利、すなわち彼女が賭けに勝って獲得した「サクヤの事情に首をつっこむ権利」のことだと思われる。そんなふうに言われてしまうと黙らざるをえなくなるが、サクヤとしては別に茶化したわけでもなかったから不服といえば不服である。
「つまりね、私が言いたいのは、サクヤがやりやすいようにもっと隊長殿に条件提示してもいいんじゃないかってこと。少数精鋭にすれば目も行き届きやすいし、補佐官さえ有能なのがいれば面倒ごとは丸投げしちゃってもいいんじゃない? キャプテンなんかまさにそのやり方だしっ」
 サクヤは黙っていた。否定も肯定もしない。顎先に右手をあてがって思案顔だ。
「……っていう、その……勝手な私の意見であって。少しでも見方が何か変わればなぁとか、思っただけであって。サクヤが干渉されたくないことに、むやみに口出すつもりとかは本当はなくて……なんか、ごめん。嫌な気分にさせた」
「ん? いや、全然? そういう考え方をしたことがなかったから、今軽くシミュレーションしてた。ごめん、こっちこそぼんやりして」
「そう? それなら、まあ、よかったけど」
「もっと失望されると思ってた」
 思わず口をついて出た本音に、ナギの目が点と化した。思ってもみない単語がサクヤの口から飛び出したからだが、当人はナギの反応に困惑の色すら浮かべている。
「いや、だって、僕やリュートの噂はとりわけ出回るって……言ってたよね?」
 その瞬間、何かの糸が切れたようにナギは声をあげて笑い出した。ディランのときみたいに周囲の注目はもう集まらない。ナギがどれだけ爆笑しても、他の隊員たちは気に懸けられないほどに泥酔している。ナギは心行くまで笑い飛ばして、その残りかすみたいな涙をぬぐいながら苦しそうに呼吸した。
「サクヤ、あなたの噂って……! ほんとう申し訳ないんだけど、期待してるようなのじゃないからっ。任務中にバーディ級を乗りこなそうとしてたとか、ニーベルングの餌付けに本気で取り組んでるとか、あ、傑作なのが──!」
「いや、もういいよ、そのあたりで」
「できれば……! 否定してほしいんだけどっ!」
 それはできない。ナギが言っている噂とやらは、八割がた真実で、何ならこの先も取り組まねばならない現在進行形の課題であるからだ。それを呼吸困難になるほど笑い飛ばされることが、思った以上に悲しい。ちょっと泣きたい。
「笑いすぎだね、ごめん。でも面白いし。……そうだ、ハーブ鶏。お詫びにとってきてあげるから一緒に食べない? 香りいいやつ」
「……いただきます」
 お詫びの方法がナギらしくて思わず笑みがもれた。ナギの満面の笑みは、たぶんさっきの爆笑の延長線上のものなのだろうが、由来はなんでもいいと思った。もう少し見ていたいと思うほどには、彼女の笑いは心地よいものだったから。


 翌朝──基地内は言うまでもなく死屍累々の地獄絵図だった。用を足しに移動しようものなら、横たわった誰かの身体に二、三度躓く。サクヤは食堂の入り口で、この惨状を一瞥し、今日こそは本部からの前触れのない通信だとか、立て続けのニーベルングの襲撃だとか、そういうものが起こらないように祈るしかなかった。
 正直に言うと、サクヤ自身もいつ寝落ちしたのか覚えていない。気づいたら床に転がって丸くなっていた。ナギはというと、いつの間に移動したのか、ディランの横で毛布にくるまって眠っているのが見えた。そういうわけで、今日は、いや今朝は完全にこの基地は機能していない張りぼてである。せめて昼までには何とか立て直したい。でなければ高い確率で本部からの通信は入る。
 サクヤは用を足すと、そのまま酔い覚ましに基地の外へ出た。極寒。一気に目が冴える。朝日を反射してまばゆく光る雪を踏みしめて、ミドガルズオルムの供給ケーブルのほうへ歩を進める。できるだけ早い段階で、見ておきたかった。見てなんともなるものでないとわかってはいたが、それでも実際に目にしてピンとくるものもあるかもしれない。
 フラミンゴは自分の意志で自爆行為に及んだのか? それとも──。
「おはようサクヤ。見に来るとは思っていたけど、それにしても早いんだね」
「セルゲイさん。おはようございます」
 敗れた巨大ケーブルの前に、報告書のバインダーを持ったセルゲイ補佐官が立っていた。できたてのコーヒーをくれるので、遠慮せず口をつける。コーヒー片手に二人で異様な光景を黙って見上げた。
 頭部を失ったフラミンゴを含む、三体のイーグル級の身体で穴はふさがれている。ディランの話では、フラミンゴではない残り二体の討伐そのものにかなりの時間をくったらしい。吹き荒れるブリザードの中、凍り付きながら二体を相手取ったのだ。それに関して賞賛することはあっても非難することはない。
「セルゲイさんは、なにかこれに気になるところが?」
「いいや、全く。できれば気に懸けたくないっていうのが本音なくらい。……ただ今日中にオルムの修理依頼をしなきゃならないし、ちゃんとした資料が必要で。サクヤは、気になるところがあるんだよね? 良ければ聞いても?」