extra edition#6 アフォガートがとけるまで【Ⅳ】


 サクヤは嬉しそうだ。マスク越しでもそれはありありと見て取れる。立ち上がって湖の全景を見渡した。ワイヤーにくくりつけた試験管を下ろし必要な分の試料を採取すると、特に未練もなさそうに率先して踵を返す。
「一旦報告に戻ろう。調査は後日、改めて。さっきの水柱は他の班にも目についただろうし、僕らの身体も冷え切ってるし。ニブルも結構浴びた」
 グングニル支給の制服は、彼らが今きっちり着込んでいる防寒装備まで含めてアンドバラナイトと呼ばれる液体金属を主材料に作られている。それが多少のニブルをカットしてくれる。残念ながらその「多少」では、役に立たないと同義のニブルを浴びることは割に頻繁にあって、ニーベルングとまともに交戦すれば、往々にしてそういう事態に陥った。
 今回は交戦は無し。が、頭からもろにニブル湖の飛沫をかぶっている。早めに洗い流すにこしたことはない。
 ナギは気づかれない程度には配慮して、サクヤの身を案じて視線をよこしていた。その遠慮がちな視線に対して、サクヤは全く遠慮なしに頭を抱えて見せた。
「この状況下でマスクしないなんて……ほんとにありえないよ」
 その信じがたい光景を極力脳に伝達しないように掌で視界を覆っている。ナギはばつが悪そうに笑っているようだが、その軽い反応も、ネスの無反応も理解の範疇外だ。しかしいつまでもそう言って逃げてもいられない。現実とは向き合うべきだ。できるだけ能動的に、肯定的に。
(本当にそういう体質がありえるのか……? そうならそうで、それこそ秘匿しておくような事実じゃない気が──)
 そこまで考えて、かぶりを振った。──自己中に選べよ。お前の人生だ。──ディランの何気ない助言が脳裏をよぎる。ディランの選択、そしてナギ自身の選択を妨害する権利はない。そしてそんな妨害を、サクヤもしたいとはみじんも思わない。
 とにかく帰還が最優先だ。まともな部隊ならそろそろ血相を変えてこちらへ合流してくる。杞憂と徒労のためにこれ以上彼らを走らせるのは忍びない、そう思ったのだが。


 サクヤたちが他の班と合流を果たしたのは、基地のシャワールーム内だった。皆、心配はおろか気に留めた様子もなく、サクヤたちよりも一足先に基地に帰還した挙句、シャワールームを占拠して冷えた身体を暖めていた。その危機感に欠ける、よく言えば肝の据わった判断のおかげで、サクヤたちも帰還早々シャワールームの前に行列を作らずには済んだのはありがたかったが。
 浴びたニブルをできるかぎり洗い流し、冷えた身体を温める。必要最低限の時間でそれらを済ませ、ディランへ現状と成果を報告。夕食後に会議の場を設けようということになり、サクヤはそれまでの時間を早めの夕食に充てることにした。日はまだ高かったが、昼食と呼ぶには遅すぎる時間帯だ。一応窓の外を見てもみる。先刻から降り始めた雪で単調な色に染まっていて、なおさら時間の感覚というやつを鈍感にさせてくれるだけだった。
 誰もいない大食堂の長テーブル、その端の席に座り、シチューポットパイをぼんやり眺める。無意識にか意識的にか、スプーンの背でパイの中心をとんとんとたたいていた。
「……食欲ないの?」
 椅子を引く音と同時に、ナギの声が降ってきた。それに多少驚いて、手元に力が入る。顔を上げたときにはパイの中心には穴が開いていた。
「そういうわけじゃないよ。ちょっと、考え事をね」
「シチューポットパイつついて?」
「なんだか今日こじ開けた、湖に似てると思って」
「なるほど、確かに」
 ナギのトレイの上にも同じようにシチューポットパイが載っていた。それにサラダと、マッシュポテトと、ローストポーク、ペペロンチーノパスタ。この彩り豊かな満員のトレイと比較されれば、何を食べてもどんな様子でも「食欲ないの?」の第一声につながるはずだ。
「思わず座っちゃったけど、邪魔になる?」
「どうせなら思考の整理を手伝ってくれると助かるよ。どうも堂々巡りするというか、決め手に欠けてて」
 そういうことならと、ナギは安心したように頷いて自分の食事を始めた。
「思惑通り、地底湖と連結した狩場は確保できた。問題は、スワンをどうやってあの場所まで誘き出すか……なんだけど、そもそもあのニブル湖自体も完全に危険区域だ。突き落とせば、かけつけ五秒で人が殺せるよ。検水結果見るかい?」
 サクヤは無造作に食卓の上に紙切れを置く。ナギはパスタを口に運びながらそれを手繰り寄せた。一瞥してからこれ以上ない渋い顔つきで、再びサクヤの手元に返す。
「水を抜くにも蒸発させるにも予算がかかりすぎて、秘密裏に、とはいかなくなる。そうなるとあとは潜水するくらしか思い浮かばないけど、ただの入水自殺にしかならないもんなあ……。こうしてる間にも湖にニーベルングは集まり始めるだろうし……」
 サクヤの視界の中では、スプーンに砕かれたパイが次々にシチューの中に沈んでいく。水分を吸って数秒でしんなりと元気をなくしてしまった。
「そのことなんだけど」
 今度はナギが、ジャケットのポケットから四つ折りの紙を引き抜いた。少し迷って、開かないままテーブルの上をスライドさせてくる。
「何?」
「ちょっと前から見せようとは思ってたんだけど、何となくタイミングがなくて」
 どうやら自分が見てもいい、見るべきもののようなので訝しみながらも紙を開く。
 かくしてサクヤは何の準備もせず、「定期健康診断結果」と題されたナギの超個人的数値の羅列を目にすることになった。生年月日に始まり身長、体重、胸囲に腹囲、だいたいそこまでが網膜を通して脳内へ一瞬で浸透する。その一瞬よりも圧倒的に長い数秒、サクヤは凝固していた。
「……ナギ、これはさすがに……見てはまずいものでは」
「そこじゃない、もっと下。血中ニブル」
 ナギが冷ややかな視線とともにテーブルの向こうから身を乗り出してきた。指差してきたのは随分と下の項目だ。だったら初めからそう言ってくれ──胸中で毒づきながらも、サクヤは言われたとおり視線を走らせた。「見てはまずい」はずの項目については、この際さりげなく逆方向に折り曲げてみたりする。手遅れといえば完全に手遅れなのだが、形ばかりの配慮は必要だ。
 ナギが証明したかったのは、「限りなくゼロに近い」と豪語していた血中ニブル濃度の値だった。正直なところ、ナギの驚異的なニブル耐性について、もう疑いは持っていない。第二支部に着任して二か月あまり、彼はナギのマスク姿というものを一度も拝んでいないし、それでいて体調はすこぶる良好、今だってこうして目の前でローストポークをもりもり平らげている。客観的資料よりも眼前の事実のほうが説得力を持っている気さえした。
 だから驚愕はしない──そう思っていたが、いざ数字を目の当たりにすると言葉を失う。できるだけ平静を装った。驚愕も、動揺も顔に出さないようにふるまった。
 ナギが言いたいことは何となく分かる。
「私が潜るよ」
「……氷点下のニブル水溶液に?」
 サクヤは、そう切り返した自分の表情をつかめないでいる。この申し出を、期待していたのか嫌厭していたのか、土壇場になってわからなくなっていた。確かなことは、それが現状ひねり出せる最善策で、サクヤの脳内でも何度も繰り返し検討されたものだということだ。
「何か複雑そうな顔してるけど、そんなに思い悩むこと? 適材適所だと思うんだけど」
「そう思う」
「? だったらこう、もっと『よし! それでいこう!』みたいな顔してもらえると」
「僕からきちんと、話そうと思ってたんだよ」
 サクヤはこれ見よがしに深く嘆息してみせた。プロポーズの先を越されたみたいな凄まじい虚脱感を惜しげもなく見せつけてくる。
「はあ。きちんと、とは」