「ああ、ごめん。そういうつもりじゃ」
「あー鬱陶しい! もうそういうのほんといいから! パイ作戦終了! 撤収! 解散! みんなおつかれー! スワンの処理は後日なー! ナギ車に詰め込んで誰か先帰ってー」
ライアンがてきぱきと終息に導く中、サクヤはもう一度だけスワンの最期の姿を目に焼き付けた。フラミンゴにそうしたように、そうしたからといって何が分かるわけでもない。分かったときのために、ただ忘れないでおこうと心に留めた。
気兼ねなく資料を散らかせる大きな机があって、比較的静かなところを選んだらここ、ブリーフィンルームが最適だった。中部第二支部の基地内は、気候や時間帯、その日の雰囲気によって隊員たちでごった返す部屋とそうでない部屋が明確に分かれる。スワンを「討伐」した今夜は、例のごとく食堂の明かりが未だに煌々とともっている状態だった。耳を澄ませば、その心地よい喧噪が聞こえなくもない。そういう丁度いい静けさだった。孤独になりたいわけではない。仕事を片付けたい、というサクヤにしては至極まっとうな心持でいる。
と、ノックもなしに不躾に扉が開かれる。私室ではないのだから当然といえば当然なのだが、サクヤは思わず作業の手を止めて顔を上げた。室内の空気が変わった気がする。比喩ではなく、たぶん物理的に。
「こんなところにいた。私の分、終わったから取りまとめ手伝おうかと思って」
「早いね?」
「事務仕事はこう見えて得意なの」
入口でナギがちらつかせているのは「私の分」、つまり、ニブル湖に潜水してスワンを引き連れて戻ってくるまでの一部始終の報告書だった。
サクヤは自分の報告書もそこそこに、全ての隊員のスワンに関する記述に目を通していたところだった。スワンも、スワンが眠りについていたラインタイト鉱山も、今回初めて正式な報告書にあがるものだ。一片の齟齬も矛盾も見逃せない。
ナギは、そういう大して面白くもない肩が凝るだけの作業の場に現れた救世主だった。報告書を持つもう一方の手に、湯気の上がるトレイを器用に載せている。そこからおもむろに、ティーカップを下ろしてサクヤの前に置いた。空気を変えた正体はこれだった。二人の間にベルガモットの香りがふわふわと漂い始める。
「いい香りだね」
「そういうのを選んできましたので。少し休憩でもお取りになったらいかがですか?」
ナギはわざと畏まって、そうかと思うともう自分の手元に報告書の束を手繰り寄せていた。うっかりこぼしてしまわないように、自分のティーカップは少し離れた位置に置いてある。
サクヤはナギの心遣いに素直に感謝して、カップを手に取った。
「ありがとう。いただきます」
カップを口元に当てると、より一層かぐわしい香りに包まれる。そのまま暫く香りを堪能して一口、口をつけたかと思うと、サクヤはカップを持ったまま彫像みたいに動かなくなってしまった。不審に思ってナギも手が止まる。随分遅れて、サクヤの喉元が動くのが見えた。
「もしかして、あんまり好きじゃなった? アールグレイ」
「え、いや。そうじゃない。そうじゃなくて……ナギは何か、紅茶を淹れるのが、もの凄く得意だったりするの?」
「……馬鹿にしてる?」
ナギは察しが悪いほうではないし、サクヤの言い回しから意図を解するコツも掴んできていた。今のを直訳すると「とても美味しい」になるのだろうが、たったそれだけのことなのだからいちいち言葉を選んでくれなくていい。そうでないと解読までの間に、毎回どうにも気恥ずかしい目に合わなくてはならない。皮肉の一つも吐きたくなる。
「大げさ。普通でしょ、淹れ方なんて手順通りなんだし」
「でも本当に……」
「だからそういうの、選んできたの。味が……わからないことが多いって言ってたでしょう、前に。だったら、食感とか香りとか、そういうのが強いほうがおいしく感じるんじゃないかなって。グリューワインも気に入ってたし、もしかしたらと思って」
「香り? ああ、そうか。言われてみれば確かに……」
「本当は、私が賭けに勝ったら栄養とボリューム満点のフルコースを平らげてもらうつもりだったんだけどねー。残念ながら負けてしまったので、こっちで妥協するかと」
「賭け?」
「また忘れてる」
ナギの苦笑から数秒経って、ようやく思い当たる。
「でも結局スワンはどっちも討ってはいないわけだから……。いや、そうじゃないか。等級の高いほうを討伐したほうが勝ちだったね」
「そういうこと。私は今回の作戦では一体も討ってないから」
必然的に、湖周辺のイーグル級を撃って撃って討ちまくったサクヤが勝利ということになる。等級別に見ても討伐数でみても、今回の作戦でサクヤの右に出るものはなかった。
それにしても、賭けの報酬がフルコースの提供とは、どちらが勝者か分からなくなるような内容だ。指摘されて以来、気をまわしていたつもりではあったのだが、それでも心配はされていたらしい。
「それで、サクヤのほうは? 結構大変とか言ってた気がするけど、私にできること?」
「そう、だね。君じゃないとたぶんできないことだと思う」
「それは光栄。ニブル湖で寒中水泳以外だとありがたいんだけどなー」
ナギは軽口をたたきながらも、視線と手元は世話しなく動かしていた。手早く、正確だ。その無駄のない動きを、たぶん台無しにしてしまうだろうと分かっていながら、サクヤは続きを口にした。
「僕と一緒に本部に来てほしい。新設部隊の、隊長補佐として」
できるだけ端的に、簡潔に、ただ誤解はないように。そう思って最良の選択をしたと思ったのだが、ナギは予想以上に長い間凝固してしまった。彼女が反応らしい反応を見せたのは、それから約三分後の話である。
スワンの討伐によってサクヤの「冬休み」は、春を待たずして終わりを告げた。実行部隊が作成した報告書と、第二支部長であるディランの報告、それを基にした本部の調査の結果、作戦指揮を務めたサクヤが殊勲賞を受けることになった。その式典のために一時的に戻る、という選択もあるにはあったが、サクヤはこの機に本部に戻ることにした。彼個人が抱えていた宿題の回答を済ませる必要があったし、いくつかの準備や根回しは早いほうがいい。だから叙勲式の二週間前には中部第二支部を後にした。それから二週間は、アルヴにあるスタンフォードの家に顔を出したり、大学の恩師や友人に事の次第を告げたりと身辺整理に費やした。中央・グラスハイム行きの列車に乗ったのは、式典当日の朝だ。それでも少し早めに着いてしまったから、こうして二番隊隊長の執務室に腰を落ち着けている。
アサトもサクヤも、滅多に袖を通すことのない礼服に身を包み、それでいていつも通りチェス盤を挟んで向かい合っていた。
「スワンの討伐がこんなに早く片付くなんて思ってなかったからなぁ……。お前、どうすんだ? 出撃枠とかないぞ? 有給とって釣りでもしろよ。そんでそのまま病院入って永久に静養してろ」
「相変わらず手厳しいですね……」
髪がオールバックだろうが、襟元が正されていようが、アサトの口調とえぐい戦法は通常展開されている。
「は? お優しいだろうが。こんなねじれきった世界にいて、人生捧げて、何になる。何にもならねぇんだから、さっさとずらかって第二の人生でも見つけて来いよって言ったんだよ。賢い俺みたいにな」
アサトは春になったらグングニル機関を去る。五体満足でだ。彼自身は病魔に侵されているわけでも、身体のどこかに不自由を感じているわけでもない。多少歳をとったし、その分体力も落ちたが、技術と経験が劣化することはない。アサトこそが、グングニル最強の名を欲しいままにし、グングニル最強の部隊を作り上げてきた立役者だ。