extra edition#7 靴はなくてもワルツは踊れる


「あー、まあ、ミーミルにはニブル学会の発表を見に来たので、そんなような立場かもしれません」
「学会。じゃあ研究者さんか? どっちにしろ肝の据わった兄さんだよ、あんた。名前は?」
「サクヤです」
「おう。じゃあサクヤ先生にもちょっくら手伝ってもらうことにするか。やっつけようなんて考えるなよ、土台俺たちには手に余る生きもんなんだからよ」
 バルトが選別して手渡したのは、穴掘り用シャベルと大人数用のパスタ鍋。
「これにさっきの泥を持てる程度につめといてくれ。せっかく温泉に浸かりにきたんだ、奴さんも美肌にしてやろうぜ」
「なるほど。確かに目くらましにはもってこいかも」
 バルト自身はライフルと即席の火炎瓶を二本だけ持つと、静かにバリケードの椅子を移動させ、テラス席からサクヤにも合図を送った。かくして水泳用パンツと各々の心もとない装備だけを身に纏って、二人は緊張の面持ちでニーベルングのほうへにじり寄った。
 取り残された女性の姿はすぐに確認できた。岩場の陰で蹲っているのがそうなのだろうが、悲鳴をあげるどころか身動き一つとらないから生きているのかどうかは判然としない。
「俺が手負いのほうにたたみかけて、ギャーギャーうるせえチンピラの注意もひいておく。その間にサクヤが、女性を救助してくれると助かる。意識がないなら引きずってくることになるが、できそうか?」
「やってみます。でもあの手負いを狙うのは……危険では? どうみてもあの二体、カップルじゃないかなあって……。そうだ、水辺のハンターとも言われたカワセミの求愛行動にも、ああいう献身的な──」
「やりにくくなるようなこと言うなよっ。カワセミ? 知らん! そもそもニーベルングに雄とか雌とかあんのか? どっちも同じに俺には見える」
「実は雌雄の違いははっきりしてないんですよ。あの二体みたいに比較的小さい個体は少なくないないんですが、幼体らしきものは未だに未確認ですし、それならどうやって生殖を──」
「あ~~~~! やめてくれっ! 想像したくもないっ。今はニーベルングさんのそっちの事情に配慮してやるような状況じゃないだろうがっ。いいか? 5カウントでやるぞ。危険だと思ったら女性のことはいいからお前はちゃんと逃げてくれ」
 サクヤが黙って頷いたのを見て、バルトは小声でカウントダウンを開始した。ゼロカウントはなし。その代わりとばかりに、思い切り振りかぶって火炎瓶を投げた。ほとんど間を置かずガラスの割れる軽快な音がして、ニーベルングの皮膚が燃え盛る。
「よぉし! 行け行け! ニーベルングさんはこっちだ! もう一本ある、ぞ!」
 バルトが投げた二本目の火炎瓶は、立ちはだかったバルト曰く「チンピラ」の羽根でいとも容易く弾かれた。今の今まで手負いの前で壊れたスピーカーのように鳴いていただけだったのに、ブレーカーを落としたみたいに静かになった。そして全速力でこちらへ突進してくる。
「闘牛かよ……! いいのかあ、彼氏! 彼女のつぶらな目ん玉弾けとんじまうぞ!」
ライフルを構えて、宣言通りの場所をできるだけ狙い撃った。ここはあくまで出来得る限りでいい。もともとライフルの扱いはそこまで得意ではないし、狙って当てられるなら火炎瓶など準備しなかった。撃った先で水柱があがるのを見て、「チンピラ」ニーベルングは急ブレーキをかけ踵を返した。
 下手に当ててはならない。ニーベルングの皮膚に着弾すれば、それが何の脅威にもなり得ないことがばれてしまう。脆い岩に、浅めの湯だまりに、とにかく必要以上に派手に弾け飛んでくれる何かを狙って引き金を引いたつもりだった。
 バルトの左耳と肩の間を何かが通過した気配があった。確かではない。肉眼でそんなものは確認できないから状況から鑑みての想像でしかないのだが、ニーベルングが振った尾がライフルの弾丸をはじき返したように見えた。
「ナイスショット……」
 ガラクタに成り下がったライフルを投げ捨てると、バルトは無我夢中でパスタ鍋をひっつかんだ。そしてそれこそ闘牛士がムレータを操るみたく軽やかに、一心不乱に突進してくるニーベルングに向けて鍋ごと中身をぶちまけてやった。タオルで何往復かしてようやく拭き取れる重さと吸着力を持った、ミネラルたっぷりの泥だ。見開き、血走った眼球にこれが思った以上にうまく命中してくれた。逃げるなら今しかない。
「サクヤ! そっちはどうだ!」
 返事はなかったが、カフェテリアのテラス席に女性を横抱きにしたサクヤの姿が見える。いわゆる「お姫様抱っこ」とかいう抱え方だ。てっきり死体をそうするようにずるずる肩から引きずっているものとばかり思っていたが、なるほどそういうスマートなやり方があったのかなどと混乱した頭で感心してしまう。
 一度は視線をニーベルングに戻したのだが、またすぐに高速で振り返る羽目になった。カフェテリアのバリケードの奥にちらほらと人影を確認。避難した客がわざわざ危険な目に遭いに戻ってくるはずもないから、バルトはただただ我が目を疑うほかなかった。その人影は、あろうことかほいほいとテラス席に躍り出てくるではないか。
「おいあんたら! なんのつもりだ、危ないぞ!」
「いや、バルト少尉のほうが危ないんで、とりあえず極限まで伏せてもらっていいですか!」
「何言ってやがるっ、今伏せたら……」
肩越しに振り返った先には、方向感覚を失った泥パック中のニーベルング。手当たり次第にニブルを吐いて尾を振り回しているから、半径3メートル以内には近寄れない。この予測できない盲目の殺戮マシーンに巻き込まれるのだけは死んでもごめんである。そう思って今一度テラス席を見上げたのだが、バルトはその瞬間ほとんど脳で判断することなく、渾身のヘッドスライディングを決めた。テラス席の人影たちは、皆バルトに向けて銃口らしきものを一斉に構えていたからだ。そしてそれは予想通り、何の躊躇もなくあっさりと発射された。
 爆撃音が耳をつんざく。今の今までニーベルングが狂乱していた場所で、とてつもない規模の水柱があがった。温泉が新たに噴き出たのかと思うほどの衝撃と水飛沫がバルトを襲う。それは紛れもなく外部からの爆撃だった。熱いだとか痛いだとかを感じる前に、溺れ死ぬんじゃないかという量の湯を飲んだ。
「バルト少尉っ、大丈夫ですか」
 サクヤの声が聞こえたかと思うと、力強く引き起こされる。
「一体全体どうなってる……」
「グングニル本部の二番隊が、たまたま中部の狩りに参加していたみたいで。思ったより早い到着になりました。後はこっちで処理しますから、大丈夫ですよ」
「こっちって」
 バルトを撃ってきた(正確にはその後ろに控えていたニーベルングを撃ったのだろうが)連中は、黒いシャツに灰色のジャケット、誰がどう見てもグングニル機関の制服だ。
「とりあえず上に。ここだと巻き添えをくいます」
 それはたぶん、もうくった後なのではないだろうかという細やかな疑問が脳裏をよぎったが、今は冗談めかしている余裕はない。飲んでしまった湯を強制的に吐き出してサクヤの誘導に従おうとした、刹那。また撃たれる。今度は、サクヤもろとも爆風に吹き飛ばされた。
「ユキノ! 撃たないでくれって言っただろ!」
 ニーベルングが突如襲来しても悲鳴ひとつあげなかった男が、仲間に爆撃されて初めて声を荒らげた。それが功を奏す様子はない。まるで知らんぷりの女は、銃口をこちらに向けたまま微動だにしない。サクヤは小さく舌打ちして、テラス席に舞い戻る。バルトも訳も分からず後を追った。
 カフェテリアはいつの間にやら、十数人の灰色のジャケットで貸し切りになっていた。皆年若い。軍隊のように一目見てそれと分かる屈強さはないが、似て非なる独特な威圧感は持っていた。その中に混ざりきれていないというか、違和感しかない水泳用パンツの男・サクヤ。その緊張感のない出で立ちのまま、先刻の女と何やらもめ始めた。
「一般人の救助が最優先だよ。それにあの二体は同時に討ちたいって説明したじゃないか」
「は? その人、軍人なんでしょ? 対象外だよ。あとさっきのわけわかんない意見なら、却下だから。討てるんだから今討つ。っていうか早くしないと逃げられる。非番の“一般人”は引っ込んでてよ」
 痛烈な皮肉にサクヤが押し黙る。再び「発射台」に位置どろうとする女性隊員を諫めたのは、一際異彩と威光を放つ上官らしき男だった。たったの二言三言で女を黙らせる。その男が所在なさげなバルトに気づいて、敬礼もそこそこに駆け寄ってきた。