声の主は、シグを一瞥した後ですぐに視線をサクヤに戻すと、不機嫌を絵にかいたような顰め面でつめよってきた。二番隊の──誰だっけ。さすがに全員の顔と名前と階級を覚えているほど暇でもなければ興味もない。
「シャワー室なんかどうせ混んでる。後回しだ。それより話がある」
「いや、シャワーならもう──」
「それじゃあ、俺はこれで」
無言の威圧をくらう前に、シグは察して辞去した。相手の用件は専らサクヤにあるらしいから、これは良いタイミングだった。
サクヤよりも幾分年若いその不機嫌な男は、顎先だけで奥のサロンにサクヤを誘導すると、無言のままで廊下を突き進んだ。そしてサロンの(もともと半開きの)扉をくぐるなり、ここまで順調にため込んできた不満を一気に投げつけた。
「なんださっきの。ふざけるなよ」
声の調子は平坦だったが、明らかにこれは怒髪天を既についている。彼──ヒューズは、もともと表情を分かりやすく変えるタイプではない。そして始末の悪いことに、それは変えないように努めているだけで感情の起伏は案外と激しい。とりわけサクヤに対してはそれが顕著である。
「さっきの」
サクヤはよく考えたうえでオウム返しした。ヒューズが絡む「さっき」の話といえば、先の作戦、退却時の役割分担についてだろう。本来サクヤは中隊の先駆けとして、ヒューズと二人で退路確保に当たるはずだった。それを土壇場になって半ば放棄した挙句、わざわざ逆走して脅威とはいえないニーベルングの背を討ったのだから、感慨を持つとしたら「ふざけるな」で大正解だ。改めて客観的に自分の行動を整理してみると、まずまずのひどい振る舞いだということに今更ながらに気づく。
「えー……と、『さっき』というと退却時の件だよね? ごめん。ヒューズなら一人でも問題はないと思って」
「それで持ち上げたつもりか? できるできないの話をしているんじゃない、どういう大義ならお前の行動が許されるのかを知りたいって言ってるんだ。あるんだろ? さぞかしご立派な行動規範が」
「規範……そんな大層なものではないけど、いや……ないことも、ないような」
サクヤの歯切れの悪さは、できる限りで誠実に答えようとした結果の産物だった。それがヒューズの神経を順調に逆なでしていることに本人は気づいていない。サクヤが自問自答の最中に気づいたことと言えば、この問答は先刻のシグとのやりとりの延長だなということくらいだ。
そういうわけで、勿体ぶった挙句に出した回答は「沈黙」になる。ヒューズを納得させる論理は持ち合わせていなかったし、納得してもらうことにこれといって利点も見出せない。
押し黙ったサクヤの口から小さく嘆息が漏れたのを、ヒューズは見逃さなかった。
「お前の独りよがりな理念に興味はない。ただ、お前の行動はいちいち任務放棄、命令違反なんだよ。……それをごちゃごちゃ言っては正当化しようとするから腹が立つ」
「そうだと思う。君の言っていることは毎回正しい」
「お前、本当にふざけてるのか」
サクヤとしては全面的に自分の非を認め、白旗をあげたつもりだった。が、何をやってもどれだけ真剣でも、ヒューズの目にはふざけて見えるらしい。サクヤの胸倉に掴みかかるまであと一歩というところで、また別の乱入者が間に割って入った。
「近い近い近い近い。離れろ、距離を置け。鬱陶しいのと気色悪ぃので吐き気を催すわ」
「アサト隊長」
二人の間に身体をねじこませてきたのは、二番隊隊長であり本作戦の総指揮官であるアサト。彼は人の少ないサロンを選んでここへ来たに過ぎないのだが、そこで部下同士の大変面倒くさいいざこざに運悪く出くわしてしまい、不本意ながら仲裁に入ったという次第だ。できればコーヒーをすすりながら傍観していたかったのだが、自分の部下が思っていた以上に短絡思考でそれもかなわなくなった。
「誰かと思えば、だもんな。またやりあってんのか? 俺の采配にご不満が?」
「いいえ。あるとすればこいつの方では」
「え、えぇ~……」
ヒューズのほうが明らかに頭に血が上っていたはずなのに、瞬時に切り替えたのは彼のほうだった。
「ああ、またヒューズほったらかして、どっかのニーベルングのケツ追いかけてたって話だったな。ほんとどうしようもねぇな、お前。どうせ追いかけるならいい女のケツにしとけよ」
「アサト隊長。不用意な発言はやめてください。あなたがそんなだから、前回だって──」
「なんだよ、やっぱりお前のほうが不満なんじゃねえか」
ヒューズの発言をアサトはタイミングを見て遮った。別段どちらの肩を持とうという気もないのだが、「前回」に関して言えば、アサトにも幾分思うところがある。サクヤが責を負うのは少しばかり理不尽に思えた。
「隊長の采配に不服などありません。俺が言っているのは、こいつを甘やかして好き勝手させることに対してです。……付き合わされるほうはいい迷惑だ」
「あぁ、まーそれはそうだな。仲間が超優秀で突発的状況にも難なく対応できちまうとしても、それに甘えすぎるのはなあ? 隊長になってまでこんなかんじじゃ、そりゃあ心配だよなあ」
「そういう、話ではなく……俺はこいつの行動指針そのものについて」
「なんだ、ちがったのか? ま、こういうのも後ちょっとの辛抱だろ?」
アサトのしたり顔に対して、ヒューズは眉根を潜める。あからさまな持ち上げ作戦も、アサトからであればまんざらでもないふうだったのだが、ここにきて元の木阿弥である。
「それとこれとは話が別でしょう。今は組織の規律の話をしているんです」
「……そうだな、悪かったよ。ちゃんとお説教しとくから、とにかくここは収めてくれ。お前ら揃って少ない娯楽の対象にはなりたかねえだろ?」
時すでに遅し──はじめからサロンにいた中部の隊員は数名だったはずだが、いつの間にやら人垣と呼べるほどには増えていた。それでヒューズもようやく周囲を意識したらしい、アサトに会釈をすると不機嫌そうなままサロンを後にした。
「あいつ、俺とお前が隊からいなくなるのが寂しくてたまらないんだろうな」
手元に握り続けていたカップからまだ湯気が上がることを確認して、アサトはしみじみとコーヒーに口をつけた。
「そうは見えませんが……」
「お前もまだまだだねぇ」
普段は海千山千を気取るくせに、こういうことに関しては途端に鈍感というかポンコツになるサクヤが少しだけ心配になる。こうしてみると、やはりリュートのほうが二番隊の扱いは手慣れているといえそうだった。
「ところで──。さっき話してたのは、シグ・エヴァンスか?」
随分唐突な問に、サクヤは一瞬身構えた。おかげで反応が遅れる。気のせいか、空気が少しだけ緊張したように感じた。
「えぇ、まあ。さっきの戦闘について少し話しただけですが。彼が何か?」
「ふぅん」
──出た。アサトのこの、一見興味なさそうな生返事には決まって何か裏がある。
「なんです」
「いや? ただ、話してどう思った?」
「どうとは……。思っていたイメージとは違って、生真面目で礼儀正しかったというか。てっきりもっと高飛車なタイプだと」
アサトの乾いた笑いが響く。
「知っての通り、あれは成績順にひっこぬいていけば完全に二番隊所属の人間だぞ? それをつっぱねつづけて、この形ばかりの『前線基地』に根付いちまってる。十分高飛車だろ」
「アサトさん……」
つい先刻、周囲の目というやつを気にかけたまっとうな言動をとっていた人間が、注目がなくなるやいなやこのありさまだ。しかし、次の一手は声を潜めた。