「あれも俺の予想だと、そろそろ根腐れおこす頃合いだ。どっかの誰かが風通しのいいところに植え替えてやると、案外うまい実がなるかもしれないな」
サクヤはもう何も返さなかった。言わんとすることは分かる。それをアサトにけしかけられたのが少しだけ意外だった。
八番隊にシグを誘う構想はもちろんあった。しかし二番隊への栄転を拒否され続けているところに自分が横恋慕というのもいかがなものか、というサクヤにしては殊勝な考えを持ったせいで、積極的な行動には出ないままでいた。振られ続けたアサトへ、というよりは、これから「グングニル最強のエリート部隊」を指揮していかなければならない友人への義理立てという面が強い。それに、優秀な隊員が一極集中しなければならない理由もないのだから、シグがこのまま中部に留まることでうまくかみ合う歯車もあるはずだ。
ただ、アサトの予想とやらは気にかかった。かつて似たような理由で隊から追い出された身としては、捨て置けないものがある。あのとき“腐りかけのドリアン”を救ってくれたのは、新鮮な環境と相関、それからとても大切な出会い──。
「いたー……。アサトさぁーん、お願いですからもう少し目立つところで待機してくださいよ。“あれ”と“それ”がまたひと悶着起こしてるって聞かなかったら、こんな最果てまで普通探しにこないでしょ」
サロンの半開き扉にもたれかかって、リュートが項垂れていた。
「早めに夕食摂って、ついでに明日以降の再編成を。こっちの被害状況もあまり芳しくないですからね」
「あー、そうだったな。ったく、のんびり内緒話もできやしねぇ」
「また二人でこそこそ悪だくみですか? そういうかんじだから、ヒューズが妬くんですよ」
リュートは笑い飛ばすだけだ。変に勘ぐったり遠慮したりしない。彼は彼で、アサトとの悪だくみの時間は別に持っている。
「サクヤ、悪いけどシャワーは諦めてくれ。会議が終わるころには、大浴場が空いてるさ」
「だからもうシャワーは済ませてあるんだって……」
促されるままにアサトとリュートの後を追う。サクヤが珍しく深々と嘆息したのは、この棟へやってきた目的が結局果たせず終いだったからだ。
重い気持ちで窓の外を見た。夕方らしくない夕方だった。遠く、スヴァルト連山の稜線が、分厚い雲と重なり合って滲んでいた。
時計の針が日付変更線をまたいで少し経った頃、シグは夜の歩哨に立つために監視塔に向かっていた。中部第一支部の監視塔は全部で八つ、中でもシグが向かっている東側の塔は夜番としては当たりくじだ。演習場を兼ねた雑木林を抜けた先にあり、グングニルの敷地内ということを忘れるほど静寂に恵まれている。そのうえ防衛ラインとは真逆に位置するために、ニーベルングの奇襲はおろか発見にも至らない。歩哨とは名ばかりの、静かな自由時間を確保できるというわけだ。シグはこの利点のために、度々自ら夜番の交代を申し出ている。
あれから仮眠室で横にはなった。睡眠も摂るには摂ったが、予想通り、ろくでもない夢と現を忙しなく往復するだけの時間に終わった。だから気を抜くと、欠伸が思いきり出る。監視塔まで続く石畳の歩道をランタンひとつ持たずにだらだらと歩いた。路の左右には鬱蒼とした雑木林が広がっている。危険と呼ばれるほどの動物はいないはずだが、勝手に住み着いた小動物がそこかしこに縄張りを持っていて、時折それらの目が煌々と光っては視界の端でちらついた。
雨はもう降っていない。代わりとばかりに少し強めの風が吹いていた。そのおかげで、しつこい埃の塊のように空を覆っていた暗雲が流されていくのが分かる。闇の中で木々がざわめきたち、足元を枯れ葉が舞いながらかすめていった。
慣れていなければちょっとした肝試しコースになるかもしれない。が、シグにとっては万事平常通りの風景だったし、この世ならざる者にも猛獣にもニーベルングにも出くわしたことはない。だからやはり、欠伸は出る。油断といえばそれまでなのだが、このときのシグはランタンはおろか最低限の警戒心すらも携帯していなかった。
そこへ微かに嗚咽が聞こえた。嗚咽だったと認識した。左右の雑木林に生息している、うさぎだかきつねだかが二日酔いで嘔吐いているのでなければ、考えられる正体は限られてくる。グングニル隊員にこっぴどく振られて自殺した女の霊だとか、グングニル隊員を父に持つ病死した子どもの霊だとか、たぶんそのへんだ。一応の予想をたてて、一度止めてしまった歩を進めた。この先に何が横たわっていようと這いつくばっていようと、自分には関係ない。シグはもとより霊的現象といううやつに全くもって興味がなかった。頭から否定もしないが。
歩道と雑木林の境界線に、何かがいることは確かなようだった。全力で無視する意気込みで、ほんの少しだけ気配のほうへ視線をずらす。そのまま目を見開いた。悲鳴はあげなかったが、さすがに二、三歩後ずさってしまった。
「スタンフォード……少尉?」
中途半端に手入れされた低木と低木の間に、はみだし気味に座り込んでいるのは、まぎれもなくサクヤだった。夜の1時に、ランタンも持たず(他人のことは言えないが)闇に紛れてこの男は何をしているのか。ちょっとした奇行癖があるらしいことは風の噂でシグも知り得ているところだが、実際に目の当たりにするとその衝撃は噂の比ではない。
うっかり話しかけてしまったが、サクヤに反応は無い。かと思うと、片手でシグの何かを制する仕草を見せた。言葉はない。その一連の動作でシグも冷静さを取り戻すと、片膝をついてサクヤの項垂れた頭部に視線の高さを合わせた。
「……医務官を呼びましょうか」
「いや、……必要ない。自分で対処できる範囲だ」
しゃべった。その事実に意表を突かれて、シグはまた次の行動を見失った。
(なんだこれ……。経緯が分からなすぎる……)
それは想像しても仕方ないのかもしれない。今判明しているのは、明らかに体調の悪い男が、上官や隊員の目を逃れて夜の雑木林でホラー装置と化しているということだけだ。どうやらサクヤ本人は原因か症状に心当たりがあるようだが、まさか言われるまま放置するわけにもいかない。思考力低下状態が持続しているシグでも、そのくらいの正しい選択はできた。
「あ、じゃあ薬。俺、即効性が高いやつ持ってますけど、使いますか」
シグは手元も見づらい暗闇の中、慣れた調子でジャケットから魔弾の予備カートリッジを取り出した。ケースの底に、魔弾と同サイズの小瓶が納められている。煙草を一本押し出すみたいに軽快に、無造作に、その極めて一般的でない極小サイズの瓶をサクヤに差し出した。
サクヤはシグの一挙手一投足を黙って目で追っていた。差し出された瓶を目の前にして、数秒微動だにしなかった。あくまで数秒だ。その途方もなく長い一瞬で、サクヤは多くの決断と選択をしなければならなかった。意思とは無関係に極上の苦笑いが漏れる。
「まいったな……。僕のことは中部にも普通にひろがっている?」
「え?」
「それ、今は出回ってない抗ニブル剤だろう? コネクションがないと手に入らないやつだ。君はどこでそれを?」
入手経路にそこまでの関心はない。研究者や医療者と個人的につながりがある隊員はめずらしくもなかったし、家族や親しい隊員にニブル病の罹患者がいれば案外あっさり手に入る代物だ。
シグは質問にすぐには答えなかった。意味はないと思いつつ、暗闇の中で瓶のラベルを見返す。分かったのは、ラベルらしきものは一応貼ってあるというどうでもいい事実だけだった。
「抗ニブ……。すいません、これ中身。胃薬なんですけど」
心底申し訳ないと思って謝罪の言葉を口にするのは、随分久しぶりだった。このときのシグに、サクヤを陥れようだとか、カマをかけてみようだとかの悪意は微塵もなかった。寧ろ、無いに等しい善意をかき集めての言動だった。結果、そうとは知らず完成度の高い罠ができあがり、即座に発動、大物をゲットという流れになった。
「てっきり夕食の貝にあたったのかと。すいません、なんか」
タイミングが悪いことに、その仮説はシグの中で今最も信憑性が高いものだったのである。なぜならシグは今まさに、そうした経緯で腹痛に苦しむ同僚の代行で監視塔に向かっていたのだから。