extra edition#9 吊られた男のクロッキー【Ⅰ】


 瓶については本当に無意識だった。言われれば確かに、元は抗ニブル剤の薬瓶だったような気がする。シグにとって価値があったのは他に類を見ないそのサイズ感で、魔弾のストックと一緒くたに携帯できるところがお気に入りだった。中身はその時々だが、胃薬と眠剤は常に入っていたように記憶している。
 シグは見えるはずもないラベルの記載を食い入るように見つめていた。そんなことをしても何の解決にもならないことは重々承知している。すべては後の祭りだ。
 そうこうするうちに、サクヤが声を殺して笑い始めた。声を上げて高笑いするような時間帯でもなければ、そういう元気もないのだろう。が、彼が置かれている状況を鑑みるに、確かに笑うしかない。シグは一から十まですべてが過失なわけだから、見方を変えればサクヤが勝手に自爆しただけの話なのだ。
「オフレコなら見なかったことにします」
 シグは至って真面目にそう告げた。ここで自分も一緒になって爆笑するわけにもいかない。
 サクヤも、こみあげてくる吐き気と可笑しさに懸命に耐えながら、出来得る限りで真面目に答えようと努めた。
「そういうわけじゃないんだけど、今の状態は伏せておいてくれると助かるよ。疲労がたまっているだけだから、みんなにいたずらに心配をかける必要はない」
「分からなくもないですが」
 言葉の通り、一応は理解できる。不特定多数から望まぬ心配をされて、むやみやたらに気遣われるのが煩わしいのだろう。人気のない時間帯と場所でこんなことになっている理由としては納得できる。それと同時に、ごくわずかに反発心のようなものも覚えた。いろんな人に心配されるような恵まれた人生だったんだろうなと、冷めた感慨が脳裡をよぎった。
(っていうのはさすがに、うがった見方だよな)
 さざ波のようにじわじわと確かに侵食してきた感慨は、シグの表層をさらっただけで呆気なく引いていく。未だ立ち上がる気配のないサクヤを前にして、卑屈な感情を持っている場合ではない気がした。かと言って、下手に先回りして同じ轍も踏みたくはない。
「僕のことは本当に放っておいて大丈夫。こうなっている直接の原因は単純に寝不足だからね。吐き気が落ち着くまではもう少しここで風にあたっていくよ」
 シグの葛藤を多少なりとも見透かしたのか、サクヤのほうが先手を切った。
「……ひょっとして、夕方は仮眠室に?」
「正解。自業自得とはいえ、タイミングが悪かった」
 サクヤはヒューズとの不毛なやりとり、ひいてはその後の作戦会議に恨み節を言ったつもりだったのだが、シグはそれで、自分もサクヤの休息を阻害した一因であることに思い当たる。これで余計に身動きがとれなくなった。しかしながら、見張りの交代時間も刻一刻と迫ってはいるのだ。
 何に期待したわけでもなかったが、不意に監視塔を見上げた。それが思いのほか、功を奏した。
「そういうことなら、監視塔に行きますか? ここからなら兵舎より近いし……風通しだけは抜群にいいというか、まぁ、半分野宿みたいになりますけど」
「監視塔。──あれか」
 サクヤの顔がようやく上を向いた。そのまま間を置かずおもむろに立ち上がる。
「確かに、このまま兵舎に戻るよりは面白そうだ」
 これで負け惜しみじゃないなら変人だ。サクヤは、身を起こしたものの両ひざに手をついたまま暫く微動だにしなかった。シグはその様子を黙って見守る。どうしていいか分からないからだ。倒れたり意識を失ったりしたのなら運べばいいのだから簡単だ。それと比較して今のこの状態は難易度が高すぎる。
「吐きながら歩いても大丈夫だと思いますよ。見張りの交代以外、別に人通りもないんで」
 考えた挙句、ふり絞った気遣いがこれだ。サクヤは地面を見たままついに笑いを噴出した。


 東監視塔の内部は、上へあがるための階段以外はがらんどうで、一階は倉庫として使用されている。倉庫というよりは保管庫というべきか、使わないこと前提でそれでも処分できないものが堆く雑多に積み上げられているばかりだ。
 サクヤは階段を上りきると、そこで力尽きた。遠くにぽつぽつと灯るだけの町明かりと夜風に抱かれて、しばらくは泥のように眠りこけた。おそらく普段はこうではないのだろうが、このときばかりは何の憂いもなさそうに無防備に寝息をたてていた。
 シグはシグで、眼前ののっぺりとした夜景に異変がないかをぼんやり確認するという大事な任務がある。今日はそれに追加で、隣の男の寝息に異変がないか気にかけておくだけの話だ。幸い、サクヤの寝息は規則正しく、いきなり苦しみだしたり咳き込みだしたりという分かりやすい危機は訪れなかった。だからやはりどうしても、シグは誰の目を気にすることなく思い切り欠伸を漏らしてしまう。
「寝不足かい?」
 全開まで口を開けた瞬間を見計らったかのようなタイミングで、サクヤの声。つい数秒前まで置物か植物のように静止して寝こけていたのに、いつの間にやら半身を起こして胡坐をかいていた。寝ざめが良さそうでなによりだ。そしてそれが少しうらやましく感じる。
「いや、俺の場合は寝てはいるんですけど。やたらに夢を見るんで、そのせいですかね。気分はどうですか」
「おかげ様でかなりいいよ。ここはなんていうか……穴場だなぁ」
「そうでもないですよ。中部の隊員はほとんどがここのことを知ってるんで、そこそこ競争率も高いですし」
「なるほど、定番なわけか。でも今回は助かった。どうも、君には借りをつくってしまうね。返せる準備をしておかないと」
 思ってもみない申し出にシグは目を丸くした。サクヤはこれを、友人同士のような対等な貸し借りだとみなしたらしい。大して面白みのない、いっそ物寂しいといえる夜景を相談相手に考えを巡らし、早々に何かに思い至ったようだ。
「そうだ、グラスハイムに君におすすめの場所がある。次の定期報告のときにでも八番隊に寄ってくれれば案内するよ。こっちは僕以外知らない穴場だからね」
 得意満面のサクヤをよそに、シグは胸中で疑問符を浮かべた。聞きなれない小隊番号だと思った。ただ聞き覚えはあるような気もして記憶をまさぐる。
「ああ、確か新しく小隊を立ち上げるって……」
 特別必要だとも思えない遊撃小隊が新しく設置されるという噂は知っていた。その隊長に、サクヤ・スタンフォードが据えられるらしいという情報が出回るようになり、新設部隊への注目は一気に高まっていた。誰もが“もう一つの二番隊”を期待したからだ。
 シグを含めた一部の見解は違う。サクヤが直々に声をかけているらしい構成員の顔ぶれを見れば、そんなお上品な隊ができあがるはずもないことは一目瞭然だった。問題児を一手に引き受けた掃き溜めか、巧妙に爪を隠した鷹の群か──シグの注目といえばそんなところだった。
 昨日までは確かに他人事だったのだ。それがサクヤ本人と接して、危機感にも似た焦燥に変わりつつある。この男は、おそらく自分の命の期限を知っている。そのうえで選択したことが八番隊の設立と隊員の選別だとしたら、そこに意味がないはずがない。大げさな話ではなく、理を大きく変える毒か薬になる予感があった。グングニル機関にとっても、シグにとっても。
 予感を──胸騒ぎにも似たそれを──信じることにした。
「定期報告には行ったり行かなかったりするんで……良ければ今、聞いてみたいことがあるんですが」
「僕に? もちろん構わない。答えられる範囲のことならだけど」
「昼間の『個人的な基準』について、聞いても?」
 サクヤにしても、それは思ってもみない切り返しだった。あれは互いに興味本位の、あるいは単に場つなぎのための世間話として落とし込んだのだと理解していたからだ。
 それからサクヤは、夜目にも分かるくらいの思案顔でこれみよがしに唸りだした。
「壁が薄いところでは……いや、そもそも壁がないしなあ、ここ」
 晴れた日には大陸の東側が見通せる超開放的空間である。問題点がそれそのものでないことは、当然サクヤも分かってやっているのだが、それにしてもわざとらしい。彼は今、胸中で秤にかけている。