ACT.10 カウントダウン ゼロ


―レキへ。
最初にあなたに謝らなければいけません。あなたを残して遠くへ行く母さんをどうか許してください、ごめんね。
あなたがこの手紙を読んでいるということは、誰か、大切に想う人があたなたの前に現れたのだと思います。
私との約束を覚えていてくれてありがとう、レキ。
こうなることは仕方のないことなのかもしれないけど、できればこの手紙は読んでほしくありませんでした。
あなたは、私とお父さんが愛し合って生まれた大切な子供です。でも、私にとってはそうでもこの世界、他の人たちにとって あなたはそうではないのです。
あなたは雨の日が嫌いだと言いましたね、それはあたなのお父さんも同じです。
なぜならあなたのお父さんは、人ではなくブレイマーの姿だったから。この意味が、わかる?レキ。
もし、あなたが愛した人が本当に大切な人なら傷つけないために、このことを教えておく必要があったの。
どうすべきかはあなたが一番よくわかっていると思います。本当にごめんね、レキ。幸せになって。
それともうひとつ、言っておかなければならないことがあります。それは―

レキは手紙を封筒にしまい、いつものように内ポケットの奥にしまった。
「……母さん……」
無意識だった。口をついて出てきたその単語にレキ自身戸惑ったくらいなのだから。しかし、驚愕はそれだけでは終わらなかった。 普遍的だった周りのいくつかの音に、聞き慣れない音が加わったのである。ごくごく単純な音だ、枯れ木を踏み潰したときのあの派手な 屈折音。
「誰だ!!」
返事はない。何を思ったのか、レキは咄嗟に銃を音のした方へ構えていた。それだけでなく人差し指は今にも引き金を引きそうなほど 力んでいた。自らの行動の異常さに気付いても、レキは銃を下ろさなかった。
  と、小道の両脇に立ち並んで生えている茂みの中から何かが飛び出してくる。思わず人差し指に力が入るのを堪え、レキは目を凝ら した。そしてその瞳孔は破裂しそうなほど大きく見開いた。
「……な……!」
息が詰まる。全身を凄まじい早さで悪寒が走り、鼓動が早鐘を打つ。息が、詰まる。レキは銃をゆっくりとおろした。息が―
「……何してるんだ、こんなところで」
詰まりそうになるのを何とか振り払って、不自然にも平静を装った。彼女は事件の犯人さながらに神妙な面持ちで両手を挙げていた。 レキを探してこの岬へ来たシオ、両手は下ろしたもののそこから微動だにせずレキの質問にも答えない。
  心臓は落ち着くどころか破裂寸前まで脈打つ。
「……何してるんだよ、ここで」
再度、同じことを問う。シオは答える気がないのか、それとも答えられないのか、やはりそのままの状態で立ち尽くしている。それは レキに最悪な返答をしているも同然だった。いつから?どこから?そして何故、いろいろな疑問詞と疑問符がレキの胸中だけで飛び 交ったが彼がそれらを口にすることはなかった。言ってもシオは答えないだろうし、何より平静を保つのにも疲れてきた。
  レキは座りなおすと俯いて、両手に顔をうずめる。足音が近づいてきて、レキの隣で止まるのが分かった。おそらく隣に腰をおろした のだろう、シオがそこに居ようが居まいがもはやどうでも良かった。顔さえ上げなければシオと「会話」をせずに済む。嗚咽が漏れそう になるのを必死に堪えて、レキは込み上げてくる涙を両腕の下で流し続けた。静かすぎておかしくなりそうだ、しかしシオは確実に傍に いる。気配がその存在を証明していた。
  心地よい静寂の中でいつしか心臓も常音を取り戻す。非常に短い暫くが経過した。おそらく4、5分、いや2、3分だろう無造作に 顔をあげてレキはぼんやり海を眺めた。隣でシオがそうしていたので真似をしてみたのだが、これが意外にもつまらない。シオが気づく のを待つつもりだったが、彼女は気づいていてそうでない振りをしていたからレキが切り出すより他仕方がなかった。
「……気持ち悪いだろ、ブレイマーの子供なんて」
シオはすぐさま反応して、大きくかぶりを振った。面と向かって肯定する者はいないだろう、それでもレキは意外そうな顔をした。同時に シオがどこから見ていたかも把握する。最初から最後まで、である。大爺さんの話を聞いた後で、これを見れば誰だって察することが できる。
「シオは、そんな風に思わないか……っ」
力なく作り笑いをするレキにいたたまれなくなったのか、シオは固く瞼を閉じて頭を下げた。レキは忘れていたのである、彼女には言葉 などなくても気持ちを伝える手段があることを。深々と頭を垂れるシオ、その肩をレキは軽くたたいた。
「いいよ、もう。あいつらには黙っとけよ?言う必要なんかねーんだし」
シオは大きく一度だけ頷く。真実を黙っているのと、嘘をつくことにはどれくらいの差があるのだろう、ふとレキの脳裏にそんな疑問が よぎった。それとも同等の罪があるのか、少なくとも罪悪感は同じのような気がした。
  レキは随分前から自分のことは知っていたし、今更どうということはない。しかし他人は違う、事実シオは相当なショックを受けている ようだった。気遣う相手が逆のような気がしながらも、レキは重い空気を払拭しようとくだらない冗談をいくつか思案し始めた。
「ああ、だからくれぐれも俺を好きになったりせんでくれよ?……なんてなーっ。めちゃめちゃあつかまし……」
かぶりを振るシオ。思わず言葉を飲み込んだ。レキの目をただまっすぐに見て、もう一度大きくかぶりを振る。“好きにならない”を 否定しているのか“あつかましい”を否定しているのか、一瞬考えてみたがすぐにどちらにしても同じだということに気づく。
「いや、だから……」
こんな時、どうしようもなく言葉は無力だ。何を言うべきか、迷った挙句に口ごもる。あの言葉、レキを戒め続けたあの母親の最後の 言葉がうるさいくらい頭の中で響く。
「シオ、それは―」
言葉は無力で、無意味だ。シオの視線や口元、動作のひとつひとつの方がよほど力がある。たてまえや嘘、お世辞や虚勢で飾り立てら れた言葉よりもはるかに意味があって、真実そのものである。
  シオからの意外なキスも、彼女の心を虚偽なく示す真実だった。
 “愛してはだめ”―そんなことは言われなくても分かっている。“愛されるのもだめ”それも、とっくの昔に分かっていたはずだ。 だからシオの気持ちはレキにとって意味を成すことはない、わかっていても唇が離れた後シオを抱き締めずにはいられなかった。 また溢れそうになる涙を必死に堪える、そのために奥歯をかみしめる。それでも優しく抱き返されると自分の意志とは無関係に涙が 流れて、頬を伝う。
「俺は……シオには何も返せない」
肩の上でシオが頷くのが分かった。彼女も分かっている、わかっていてレキを抱きしめる。
「それでもいい、そばに……いたいだけ」
シオの声を耳にするのは、随分久しぶりだった。消え入りそうな小さな声で、泣いているのはシオも同じだった。
  彼女の一言で―あの一言でも―天気雨がざっと降る。熱帯地域のスコールは別にめずらしいことではない、誰も不自然には思わない だろう。
  キスを繰り返す。何度となく、唇を押しつけあって、視界を互いで埋め尽くす。岬の上、暗くなりかけた空の下で二人は抱き合った。 それはすべての不変を否定するように。カウントダウンは既に始まっていた。

  すっかり酔いは醒めていた。それなのにジェイとエースは未だにこのオープンな酒場に腰を据えていた。先刻と違うのはハルが座って いた席にラヴェンダーが収まっていることくらいだ。しかしそうなると、それだけを理由にジェイが居座るのは必然で、エースも、ものは ついでと言わんばかりにラヴェンダーに引き留められた。ラヴェンダーが大ジョッキの地ビールを一気に飲み干すのを二人は唖然として 見ている。
「うまいっ!心が洗われるわー」
彼女の飲みっぷりにはジェイでさえも苦笑いだ、アルコールも抜けているせいかやたら冷静に状況を見ている。隣ではエースがしつこく 冷酒なんかを受け取っていた。そんな中、珍しくジェイが小さく溜息を洩らす。
「どうした、めずらしくクソまじめな顔して」
エースがジェイの前にも細長いグラスを置く。遠慮しようと手を伸ばした矢先、その中身の色を見て口元を引きつらせた。