ACT.10 カウントダウン ゼロ


濃厚な白、明らかにミルクだ。気遣いなのか嫌がらせなのか判別しにくいそれに、ジェイは黙って口をつけた。
「最近レキ、変じゃねえ?」
恋の悩みかと思いきや、出てきたのは我らがヘッドの名前でエースとしては拍子抜けだった。例え恋話だったとしても話題はすぐ側で 空のジョッキを積み上げている女のことだろうから、どちらにしろ興味深いものではない。
「ローズのことやらエイジのことやらいろいろあったからな。……ゼットの奴のことだって顔には出してねえけど堪えてたんだろ」
「いやまあ……それもあるんだけどさ。もっと前っていうか……ここ一年くらい」
ジェイの発言はまたまたエースの虚を突いた。予想だにしない返答にエースが肩を竦める。
  エイジが死に、ローズが離れ、そしてゼットが裏切った。フレイム自体ばらばらの状態だ、しかしジェイが危惧しているのはそこ ではなかった。
「3、4年前にさ、レキがむちゃくちゃやってた頃あったじゃん?ほらデッド・スカルの連中とも何回かやりあって……」
「ああっ。シバの腕へし折ったりしたな!サンダーのあほも有無を言わさず半殺しにしたりな」
ラヴェンダーが二人の会話に耳を寄せてきた。ブラッディ・ローズが結成される前の話であるから彼女は当時の在り様をよくは知らない。
「しょっちゅう撃たれたり刺されたりしてたよなあ。その分撃ったり殴ったりしてやがったけど、殺人者になんなくて良かったぜ」
「……そんな暴れてたの?あのレキが」
遠い昔を思い出すように噛みしめてエースが適当に頷く。
「……俺一回聞いたことあんだよ、レキに。『死にたいのか!?』ってさ。そしたらあいつ『そんなもん恐くねえよ』って。……今も、 そう思ってんのかな」
三年以上経てば、そんな些細なやり取りはたいてい忘れるものだ。実際ジェイも今まで覚えていたわけではない、不意に思い出したの である。偶然と言ってしまえばそれまでなのだが嫌な胸騒ぎを覚えていた。
「今もそう思ってりゃとっくの昔にデッド・スカルとは全面抗争してただろ。お前の思い過ごしだろ、なんでまた急にそんなふう思った んだ?」
ジェイは暫く答えなかった。というより答えを考えるために飲みかけのミルクに口をつけたため、少し間沈黙が流れた。何か吹っ切れ たのか中途半端な笑みで以て無理やり納得する。
「うん、そうかもな。たぶん、そうだ。なんとなく雰囲気があの頃と似てるっていうか、そんな気がしただけだしなっ」
もはや数滴しか残っていないミルクを、場を凌ぐために飲み干すふりをした。飲みたくもないのにおかわりもする。翌朝か、もしくは 今夜あたり腹痛がジェイを襲うだろうことが予想されたがエースもラヴェンダーも特に忠告する様子はない。彼らもまた、残っている グラスの中身を思い出したように飲み干した。
  カウントダウンは、続いていく。

  ジェイたち三人が酒浸りになり、宿をとっている頃には夜であった。サンセットアイランドの醍醐味とも言える日の入りを目の当たり にしたのは結局のところ岬にいたレキとシオ、二人だけということになる。
  とりわけハルは時間が経つのも忘れて大爺さんの家で学会の帳簿を探していた。シオと交代してもう4時間は経っている。手元が真っ 暗なことに気づいて辺りを見回すと、手元どころか視界が全て真っ暗であることに思わず声をあげる。大爺さんもハル同様時間の経過に 無頓着だったようで、暗闇の中ほぼ手探りで棚をあさっていた。
「大爺さん、この辺にしない?また明日、明るくなってから探せばいいよ」
大爺さんも手を止めて辺りを見回す。ハルの存在自体半ば忘れていたらしく、慌てて古風なランプに油を注いだ。
「(ランプ……)」
「いやあ、すみませんでした。明日までに私がなんとか見つけておきましょう。君は残りのみんなと合流したらどうかな?」
迷うことなく頷く。正直腰や間接が軋みはじめていたところだ、ボランティアもここまでくると表彰ものだろう。軽くストレッチをして 凝った部位を解した。
「もう夜かあ……あいつらちゃんと宿とってくれてんのかな」
  暗がりの石段を一歩一歩慎重に下って、村の明かりがはっきり見え始めたとき、何気なく海辺の方へ目をやった。予想としては、誰も いない砂浜に波が規則正しく打ち寄せる静かな光景、のはずだったが全ては悉く外れていた。
  石段のカーブは大きく海沿いに向けて曲がっているから、その声はよく聞こえる。波の音に混ざってはしゃぐ声と、規則性のない 水飛沫のはじける音が鼓膜を通り過ぎていく。いつもなら夜のカップルの馬鹿騒ぎにいちいち干渉などしないハルだったが今回は違う。 立ち止まって言葉を失った。楽しそうに笑っている声には聞き覚えがあった。そしてそれは、夜の遠目にも分かる赤い髪で確信に変わる。
  思わず目を背けた。レキと、―シオだ。聞こえる声はレキのものであるし、姿を確認できるのも彼だけだ。相手はぼんやり程度にしか 見えなかったがシオとしか考えられない。何故か唐突に虚無感がハルを襲った。再びおもむろに視線を移す。波打ち際に両足をつけて、 互いが水を蹴り上げて掛け合っている。レキが教えたのだろう、シオもぬれるのをお構いなしに大きく足を振り上げていた。
「(何やってんだ俺……っ、出歯亀じゃあるまいし……!)」
思いながらも視線を逸らせずにいると、急に声が止んだ。この石段からは二人が何をしているかまでは見えない、が当然のように予測 はついた。声が聞こえないだけで波の音は今も鳴っているはずなのに、ハルには全ての音が止んでしまったかのように思えた。代わり に自分の心臓の音が激しく、その静寂を埋める。
  ハルは残りの石段を一気に駆け降りた。極力浜の方は見ないように、しかしその努力も敢え無く無駄に終わる。最後の一段を踏み終 えた直後。
「ハル!今まで爺さんの家に居たのか?」
最後の鼓動かと思うくらい、心臓が一度だけ大きく唸った。呼び止められて無視するわけにもいかず、ハルはでき得る限りの平然な顔 で振り向く。意外だったのは呼んだレキの方が未だ浜に居て、シオが自分の数歩圏内に立っていたことだ。シオを先に宿に向かわせ ようとしたのだろう、少し考えれば簡単なことだった。
「明日までには何とか探しとくってさ。あの分じゃどうだか分かんないけどな」
作り笑いが微妙にひきつってしまう。ごく自然に「おつかれさん」などと口にするレキと、それを真似て口パクで言うシオをまともに 見ることができない。
《宿、人数分とってあるから休めるよ》
まともに見られない上この暗がりではシオの唇を読むのは困難だ。ハルはまた適当に頷いて作り笑いで誤魔化すと、シオは何事もなかった ように宿の方へ去って行った。シオの顔を今は見たくないし、自分の顔も見られたくはない。シオがいなくなった後、海辺に一人座り こんだレキを自分がどんな目で見ているか、ハルはわかっていてももはや取り繕う気力もなかった。
「昔さあ、バイク飛ばして海行ったことあったよなあ。砂とかもっと汚かったけど」
レキが海を眺めてあっけらかんと話すも、ハルは黙っていた。後方に突っ立ったまま生返事さえしない彼を、訝しげにレキが見る。
「どうした?」
やはり黙ったまま、こちらに歩み寄るハル。砂を踏みしめる軽快な音とは裏腹に、妙に足取りは重い。不自然なハルを気にかけてレキは 半身を後方にひねったままだ。ハルが重い口をようやく開く。
「悪い……見るつもりなかったんだけどさ」
一番最善な台詞をハルは考えて、選んだ。例え自分の気持ちとはかけ離れていても、それを選べば少なくとも自分以外の誰かが嫌な 思いをすることはないだろう。ハルは昔から損な役まわりを自ら引き受けるタイプだった。
「いつの間にそういうことになってたんだよ、……良かったなっ、シオかわいいし。みんなには黙っとくからさ、心配すんな」
ハルは平然を装うことの難しさを思い知った。ともすれば震えそうになる口元を懸命に堪えて、できるだけ気に止めない感じで笑う。
無理のない笑顔を浮かべている自信は正直なかった。