ACT.10 カウントダウン ゼロ


  レキが砂をはたきながら面倒そうに立ち上がった。少なくともハルにはそう映った。
「お前シオのこと好きなのか?」
事もなげに言ってのけるレキ、ハルは耳を疑った。何も答えられずにいると、レキは勝手にそう判断してうっすら笑みを浮かべる。 困惑の色を隠せないハルを半ば嘲るような笑み、レキは取り乱すどころか落ち着き払っていた。
「ならちょうどいいや、付き合えよ。俺が言ってやってもいいし」
「……は?」
ハルの脳裏に先刻の光景が刻々と蘇る。笑い合い、唇を重ね抱き合うレキとシオの姿、見間違いなどでは決してない。確信するからこそ レキの言葉の意味を解することができなかった。混乱が頂点に達しようとしている。
「何言ってんだ、レキ……好きなのはお前だろ?シオだってだから……」
「俺が?シオを?いつそんなこと言ったよっ。何とも思ってなくても男と女なんだからどうとでもなるだろ。気ぃ悪くしたなら謝るよ。 手ぇ出すつもりなんかなかったんだけど……ま、成り行きでな」
もう作り笑いを懸命に浮かべている場合ではない。聞き流すことも不可能だった。レキは嘘をつかない―そのことは長年の付き合いで あり、サブヘッドであるハル自身が一番分かっている。
「……やったのか、シオと」
絞り出すような声でそれだけ言うと、縋るような目でレキを見た。淡々と嘆息するだけで頷きもしないし、否定もしない。ただ極まりが 悪そうに伏し目になる。
「だから謝るって―」
言葉を飲み込んだのは故意にではない、襟元を鷲掴みにされて声門が詰まったせいだ。無論掴んだのはハル、彼の表情にはもう微塵も 笑顔はない。やりきれない怒りと困惑で歯を食いしばっていた。
「好きでもないのにやったのかよ!……お前はどう思ってるか知らないけど……っ、シオはレキが好きなんだよ!!ふざけんな!」
レキは別にハルの言動に対して憤りを感じることはなかった。寧ろ意表を突かれたような顔をして見せた。ハルが自分に対して、胸座 を掴んでくるなどとは予想もしなかったからである。相手が本気だとわかるとレキもはぐらかすのをやめにした。掴まれた襟元を振り 払う仕草はない。
「シオがそれでもいいっつったんだよ、無理やりやったわけじゃねえ」
思いの外冷静に返してくるレキとは対照的に、ハルは頼りなく眉尻を下げた。レキが振りほどく前にハルの方から掴んだジャケットを 放す。レキは軽く服を正しただけで、それ以上のことは敢えてしなかった。
  ハルがシオをどんなふうに見ていたかは知る由もないが、その幻想を壊してしまったことだけは確かなようだ。焦点の合わない虚ろな 目で、ハルは独りごちるように呟く。
「……嘘だ」
「嘘なんかつくかよ」
抑揚のない口調でレキは間髪入れずに応答する。その短い否定はなくてもさほど支障はなかったのである。レキが嘘をつかないことを ハルは一番、フレイムの中では誰よりもよく知っているのだから。
「嘘だ……!」
拳に行き場のない怒りが集中していく。何に対しての憎悪なのかハル自身もわからなくなってきていた。
  ただ、一つだけ確実に言えることがある。カウントダウンは限りなくゼロに近付いていて、止めることはできない。後戻りは、もう できない。
「レキは……本気で人を好きになったことがあるのか?」
落ち着いた声、それでもハルの顔は今まで見せたことのない緊迫を帯びていた。対してレキは口を真一文字に結んだまま、答えられない のか答える気がないのか沈黙を貫く。最後の引き金はハルの手に委ねられたようだった。
「あるわけないよな。……あってたまるかよ。誰かを本気で好きになったことある奴が、こんなことできるはずないだろ!!」
感情的に叫ぶハルをレキは冷めた目で見ていた。二人の温度もやはり両極端で、それが余計にハルの神経を逆なでしていることは明白だ。 ポーカーフェイスを気取れるほど器用じゃないことは、ハルじゃなくても知っている。眉ひとつ動かさないレキの態度はハルに対する 威圧に思えた。
「……ねぇよ」
またそれだけ呟くのかと思いきや、ハルが反発するのを遮るように早口に付け足す。
「……でもそれをお前に批判される筋合いもねえ。シオが誰を好きでも俺には関係ねえし、そんなんでお前に当たられるのもごめんだ」
レキも苛立っていた。ポーカーフェイスも冷めた口調も、ある意味ではその表れだったのである。普段口にしない厭味も、このとき ばかりは考えるまでもなく口をついて出た。
「結局ユウもそうだったのかよ……。あれだけ一緒にいたくせにフレイム抜けるとき引き止めもしなかったもんな」
「……ユウは関係ないだろ」
「隠してたつもりか知らねぇけどレースの後毎毎度二人で会ってたよな。同じだろ?好きでもないのにやってたんだろ?」
その挑発の無意味さを互いにどこかで分かっているはずなのに、二人の感情は坂道をころころと転がり続けて加速、辿り着く先が最悪 な結末だということも、知っていても落ちていくしかなかった。
「……黙れよ。お前に関係ないだろ」
「ユウがシバんとこ行ったのも必然だろ。……お前が行かせたんだよ……!誰かは傷ついてんだ!!傷つけてんだよ!レキが!」
レキはあからさまに苛立っていたしハルもそれはわかっていた。それだから手の早いレキのこと、殴りかかってくることも十分に予想 された。が、事態はそんなに簡単なものでは既になくなっていたのである。
  ハルが叫んで数秒、レキは何も言い返すこともなくハルも何も言えなかった。代わりとばかりに向けられた銃口に、ハルはただただ 目を見開くしかできない。レキが、ハルに銃口を向けている。形だけでないことは沈黙の間にやけに響いたコッキング音で理解せざる を得なかった。
「黙れっつっただろ」
期待どおりにハルは一瞬にして口をつぐんだ。しかし銃がそうさせたのではない、“レキがハルに銃を向ける”という事実そのものが ハルの動きを止めたのである。仲間に銃を向けないレキの、その行動が何を意味しているのか考えた途端黙らざるを得なくなった。
「こんな話してる場合かよ。シオの気引きたいなら科学者のラボ見つけるとかした方が賢明だろ。……時間ねぇんだよ」
銃をしまう。無論撃つ気などさらさら無かったが、問題がそこではないことは明らかだ。
「そうだな。よく分かったよ、レキにとって“こんな話”程度ってことがさ。…………お前一生、誰も愛せないよ」
それはおそらくハルの本音だった。そしてレキにとってタブーでもあった。が、胸に刻みつけられたその言葉を今更他人に言われたところ で何も思うところはない。立ち去ろうとするハルに向けて何の感慨もなく答えた。
「お前に言われなくてもそんなこと知ってるよ」
―あの手紙を開けたときから。
  ハルは何も言わずそのまま砂浜を跡にした。ようやく人の声のしなくなった砂浜で思い出したように波の音がし始める。実際はずっと していたのだがハルとのやりとりの間、それがひどく小さくなった気がした。もっとやかましく響いてくれれば、先刻のやりとりの内 のいくつかは聞き流せていたかもしれない。後悔しても後の祭りだ、だからしない。諦めに似た脱力感が一気にレキを襲った。何度と なく握りしめた封筒、型のついたそれを内ポケットの中で玩んだ。
「わかってんだよ……とっくの昔に」
ハルの言葉とシオの言葉、そしてこの手紙、すべてがレキの頭の中で駆け回って離れない。
  宿に戻る気は起きなかった。かと言ってこのまま海岸に留まるつもりもない。呼び寄せられるようにレキは石段を登り、あの岬へ 足を進めた。レキの憎しみの矛先の全てが、そこにあってレキの憎しみの全てを受け入れてくれる、そんな気がした。登り終えて岬 まで来ると、その先端にある木の根元に腰をおろした。もう残り少なくなった村の明りと朧月、温かくて優しいその光を半ば鬱陶しそうに 視界の隅に追いやって、レキは自分の腕に顔をうずめた。そしてただ、波の音だけを聞いた。