ACT.1 ロストパラダイス


 ところ変わって廃ビルの中を通る街道。コースで言えば終盤にさしかかるあたりでドリフトをかますバイクのホイール音が反響していた。閑静というよりはむしろ殺伐とした風景、風景と呼ぶにはあまりに代わり映えのないスラム街をエンジンとホイールの音だけが異様に駆けめぐる。
 斜め前を猛スピードで走るローズの黒いバイクを、スタートしてからずっとレキは目で追っている。対するローズは、バックミラーを省みることもなく、目が合うことなどはただの一度もなかった。
レキがようやく視線をコースに移す。密着していた車体を徐々に離して最後のヘアピンカーブに備える。
「こちら最終コーナー、ベータ! やべぇぞ、ヘッド外側に追いやられてるよ! 今、併走しながらこっち来てる!」
 久しぶりにトランシーバーから聞こえる情報は、ジェイの落胆を促すものだった。立ち上がる気力をなくして、落書きだらけの壁にもたれて腰をおろした。
「ヘッド負けてんスか?」
 ぶしつけに問われて、ジェイがつまらなそうに顔をあげる。
 派手なスケートボードを右手に抱えた男が、廃人さながらのジェイの顔をのぞき込んでいた。棒ピアスやら鼻ピアスやら、しゃべると舌にもいくつかついているのがわかる、明るく金色に染めた髪をハリネズミのようにたてて照れ笑いする顔には、まだ幾分幼さも見えた。
「ゼット、すまん……今月も肩身の狭い生活になりそうだ」
「まだわかんないっすよ! ヘッドの男気でなんとかなるかもしれないっす」
「あいつのそんなもんあったかなあ……」
 ゼットは最近フレイムに仲間入りした、言うなれば新入りである。レキのどこに憧れを抱いたのかは不明だが、本人が熱望してやっと認められた加入だけに、レキに対する羨望も人一倍だ。
 が、ジェイのあきらめっぷりに流石のゼッドも不安を感じたのか、そそくさと様子をうかがいに行った。ジェイも重い腰をあげようとした、刹那。
「すげぇぞ! あぁ、もう言えねぇぇぇ~! とにかく見ろぉ!」
 トランシーバーからの絶叫が、ジェイの動きを機敏にする。おそらくこのてんてこ舞いの情報は、最終コーナーにスタンバイしていたベータによるものだろう。
 百聞は一見にしかず、ましてやこの話にもならないおたけびよりは、自分の目で確認した方が有益に決まっている。盛り上がりっぱなしのギャラリーをかき分けて、ジェイは最前列に進み出た。
 ゴール手前500メートルに見えるヘアピンカーブを外側から廻ってくるということは、常識的に考えて不利だ。が、レキの銀のバイクは外側から回ってきたにも関わらず、抜群のタイミングで、完璧なカウンターを効かせて一気に加速する。派手にタイヤを磨り減らしたらしい、鈍い悲鳴をあげながらも後輪は見事に弧を描いた。
 初めてローズがレキの方を振り向く。今度はレキがわざとらしく無視して、そのまま加速を続けた。
「すげぇッス! ヘッドすげえっす~!」
「よっしゃー! ヘッドでかした! ざまあ見ろ、ブラッディ!」
 最終コーナーを抜けた後の直線で、レキは車体の頭半分飛び出してゴールラインを突破した。途端にハイタッチし合うフレイム勢、文句ひとつ言わず撤収するブラッディ勢、勝敗が決した後の両者の態度は、天と地がひっくり返ったように逆転した。敗北したブラッディ・ローズは、今日から一ヶ月“肩身の狭い生活”が待っているわけだ。
 ラインから少し過ぎたところで銀のバイクと黒のバイクが停車する。レキが満面の笑みで振り返ると、ローズのかなり不機嫌そうな顔つきが出迎える。
「何あれ、タイヤイカレてんじゃない?」
 心配というよりは負け惜しみといったふうだ。まだ熱いマフラーからしきりに排気が出るのを恨めしげに見やって、ローズは疲労の溜息をもらす。
「連敗はちょっとな。新入りも入ったし」
「あのぎゃーぎゃーうるさいハリネズミ? こっちのやり方にいちいち文句つけられていい迷惑なんだけど。下っ端の教育くらいちゃんとやってくれない?」
 とにかく最後の最後で逆転されたことが腹立たしくて仕様がないらしい、棘のある口調で嫌味を連発するローズ。半眼で対応するレキの方に浮かれきった仲間たちが砂煙をあげて突進してくるのが見えた。レキもこれにはひきを感じて仰け反る。
 ローズは、興味なさそうに再びエンジンを吹かした。
「帰んのか?」
「当然でしょ。せいぜい束の間の栄光を楽しんで。じゃあね」
 軽く地面を蹴って、ローズは黒いバイクと共に去った。それを意味深に見つめるレキ。哀愁たっぷりの背中に、そんなものはおかまいなしのむさ苦しい歓迎が突撃する。
「えらいぞ! よくやった!」
まずはジェイの軽めのヘッドロック。
「さすがヘッドっす! フレイムは無敵っす!」
新入りゼットを先頭に、スタート地点に待機していた連中がまっさきにレキを取り囲む。ゴール側からベータが、少し遅れて各コーナーで実況していた者たちも駆けつけてきた。
「宴会だー! 祝杯だーっ、アジト帰って飲もうぜ! そうしようぜ!」
「賛成ー! よし、ゼット先に帰って準備してこい。つまみ調達も忘れんなよ!」
ひとしきりレキと、レキのバイクを無造作に叩いて、フレイムのメンバーはさっさとアジトへ向かう。レキが青筋を浮かべ始めるころには男どもはほぼ豆粒の大きさになるほど遠くにいた。
コーナーでレースを見ていたケイが、我らがヘッドを気の毒そうに見守っている。高くアップにした金髪のブロンド、真っ赤なマニキュア、ぶかぶかに着こなした男物のTシャツがトレードマークのフレイム紅一点である。残念ながら、こういう場合の細かい気配りができるタイプではなく、、男たちの後に続いてレキを置き去りにして行った。
「どいつもこいつも! 誰がレースの主役だと思ってんだよっ」
 独りごつレキの下で、銀色のバイクが少ない街灯を反射する。極端に磨り減ったタイヤに対して 愚痴でも漏らしているのかもしれない。しかし、実際は物も言わず、その存在をアピールしていただけだ。
 レキが軽く車体を撫でる。
「まぁ、主役は……こいつか」

 星も月もくすむ夜、晴れ渡っているはずの夜空に漆黒の闇だけ広がっている。
道を示す明かりも何も無い中で、銀のバイクのヘッドライトだけが瓦礫だらけの街道を照らした。