ACT.13 デジャ・ヴ


「たまに恋人のこともね」
ハルがわざわざ省いたところの内容をシオが付け足した。退屈しのぎに本を積み上げてひとりジェンガを楽しんでいたエースがやはり 食いついてくる。シオが喋った(声を発した)ということもエースの気を引いたひとつの理由だ。既に降っている雨に、シオも遠慮 しないことにしたらしい。
「“6月6日、今日も雨のため作業を途中で中段。彼女と過ごす時間が増えたことは純粋に嬉しい。”とかね」
「……のろけ日記かよ」
「そうでもないよ?悲恋物語かも。“彼女”かなり良い家のお嬢様みたい」
ハルにはシオがその話題を広げようとすることが幾分不可解だった。知りたいのはブレイマーに関する内容のはずだ、それともエース 同様飽きが来てしまったのだろうか。
  また暫くページをめくる音がする。エースの欠伸と、ランプの炎の揺らめきが反応しているように見えた。
  その火が随分と弱々しくなった頃、半分寝かけのエースの目を覚まさせたのは、ハルの溜息だった。
「……はずれかな。エースが好きそうな話題ばっかになってきた。途中からクレーターそっちのけ。彼女とあーしたこーしたの話ばっか!」
期待を裏切られたことと無駄な労力を費やしたことに、ハルは苛立ちを隠しきれず毒づいて一足先にエースの方へ寄ってきた。シオは まだのろき日記に没頭している。心なしか先刻よりページをめくる間隔が短くなった気がする。
  ハルはエースが積み上げて遊んでいた本の中から一冊を手に取り、表紙をじっと見つめた。『細胞再生論』、この科学者所有の本は どれもこんな内容だった。研究資料も論文も、死滅した細胞をいかに復元するかといった、どちらかというと医療に近いもので、ハル にはブレイマー(あるいはルビィ)研究者かどうかも疑わしく思えてならない。唯一関連すると思えたクレーター調査も、途中からは 本当にただの恋愛日記になってしまった。
「7月20日。もう10日も彼女に会っていない。連絡も途絶えてしまった。おそらく彼女の両親が外に出さないようにしているんだろう。 それともこの前言っていた見合い話が進んでしまったのか。いや、そんなはずはない。研究が学会に認められれば彼女の両親も私との ことを許してくれるはずだ。集中しなければと思いながら彼女の顔ばかりが頭にちらつく」
前触れもなくシオが朗読を始めた。反応したのはエースだけで、声をかみ殺して苦笑いしている。
「7月23日。もう少しでクレーターに発生するバクテリアの解析が終わる。これが完成したら彼女を迎えに行こう、もう待てない。 あの親に縛られたままでは彼女は幸せになれない」
今度はハルも顔を上げた。クレーターのバクテリア?-ハルが読んでいたところまでには、そんな話は一度も出てこなかった。
  二人は再び興味を示したのを横目で確認して、シオが日記に視線を戻した。
「7月31日。もう逃げるしかない。学会の見解など待っている暇はない。そんなことをしていたら私と彼女は永遠に引き裂かれて しまう。二人でどこか小さな町でひっそり暮らすことを彼女も了解してくれた。明日にでもここを発つ」
シオが日記を開いたままハルとエースの前に差し出した。おもむろにハルがそれを受け取る。
「8月1日から31日までの日記、読んでみて」
その日からは極端に文字が少なくなっていた。日記をつける余裕もないのか、字も乱雑である。ハルはエースも目を通せるように本を 床に置き、開いた。

8月1日
やっと彼女に会えた。もはや地位も名誉も私には必要ない。二人だけの誰にも邪魔されない地へ逃げ延びてみせる。

8月3日
立ち寄った教会で二人だけの結婚式を挙げる。これで私たちは夫婦だ。こんなに幸せなことはない。

8月10日
もう追手が来た。ここには居られない。
最近妻が風邪気味のようなのが気になる。心配だ、無理はさせられない。

8月11日
妻が熱を出した。40度近くある。危険だが今夜の移動は無理そうだ。

8月13日
熱は引いたが体調が優れないらしい。心なしか痩せた気がする。彼女の笑顔だけが今の私の唯一の救いだ。

8月15日
泊まっていた宿に追っ手が差し向けられた。くそ!!ほとんどの荷物は宿の中だ、畜生!
彼女以外は全員死ねばいい。

8月17日
妻の咳がひどい。濁った嫌な咳をする。

8月18日
妻の咳に血が混ざっていた。何なんだ。意味が分からない。どいつもこいつも彼女を苦しめる奴はいなくなれ。

8月20日
症状が悪化。医者に見せたら連れ戻されるに決まっている。彼女もそれで了承してくれた。

8月21日
妻が動けなくなった。咳をする度黒い血を吐く。くそ。

8月22日
今日も血を吐く。

8月23日
久しぶりに自宅に戻ってみた。暫くはここで落ちつくことにする。彼女も嬉しそうだ。

8月24日
大量の血を吐く。

8月25日
今日はずいぶん笑ってくれる。そんなに咳もせず落ち着いているようだ。このまま回復するだろうか。

8月27日
妻の意識がなくなった。バケツ一杯血を吐いた後ぐったりとなり私の呼びかけにも反応しない。
妻が死ぬわけがない。そんな理由はどこにもない。世界中のクズどもが全員死んでも彼女一人の命には敵わない。

-8月28日と29日の日記はなかった。そして次の30日の文字、明らかに今までと違うことが一瞬にして分かる。ハルは息を呑んだ。 大きさも、列もバラバラでまるで暗号のようだ、一種の恐怖を覚えて背筋に悪寒が走る。

8月30日
クレーターに到着。あの小隕石の落下は天からの贈り物。ここには死者の霊が集まる。今だってそこら中をうようよしている。カス同然 の奴等の魂などどうでもいい。-いや、実験台としての価値はあるか。隕石に付着しているバクテリアの再生能力を用いれば、妻を 甦らせることも不可能ではない。

「結局死んだか。しかしやべぇなこいつ……」
エースもなんだかんだで真面目に読みふけっていたらしい、あっけらかんとした物言いにハルの緊張が少しだけほぐれる。が、それも 束の間だった。エースの引きつった横顔にハルもまた目を伏せる。そして最後の日記、それ以降は白紙になっている31日の日記に目を やった。

8月31日
もう終わりだ。全てお終いだ。どの魂にバクテリアも用いても腐った化け物のような形しか成さない。何が足りない?何が間違って いるというのか。何体もの再生体を作ったがどれも人間と呼ぶにはあまりにひどい。異臭とグミ質の体、そしてあの悪魔のような咆哮 に気が狂いそうになる。妻は帰ってこない。もう仕方のないことなのだ。あの美しい姿のまま冷凍保存し永遠に側にいよう。そうすれば 妻は永遠に私のものであり続ける。私が死んだ後も誰にも触れないようにしなければ。
あの再生体を制御する装置を作っておいた。これをショーケースにはめ込んでおくことにする。ルビィに触れば、再生体が動き出し、 魂の飢えに任せて生命体を喰らうだろう。これで私の妻に触れようとする者は食われて死ぬ。最高のシステムだ。 やっと誰にも邪魔されない二人の場所を手に入れることができた。これからはずっと一緒に居られる。幸せだ。

-31日の日記、それが最後。その科学者がどうなったかは記されていないがもはやそんなことは取るに足らないことであった。
  シオは日記をレキとジェイ、そしてラヴェンダーにも見せそのまま読んで聞かせた。抑揚のないシオの声がやけに不快を誘う。
「……これで大爺さんの話は立証された、そう考えていいんだよな。“死者がブレイマーとして蘇る”まだ……これ見ても半信半疑だけど」
何人かがハルに同調して頷く。勿論今更頷かない者もいる。頷かない者、レキにとってはブレイマーがどうのこうのよりもルビィの 存在の方が意味があった。
「要するに……ルビィがブレイマーの制御装置の役割を果たしてたったことだろ。だったらルビィをそのショーケース……元の場所に戻せば ブレイマーの発生は止まるってことだよな」
「理屈はな」
大事なのは何よりその理屈だ。全員それを分かっているからエースの戯言にいちいち反論したりしない。
  雨はいつの間にか小降りになって、シオが喋れるタイムリミットを告知しているようだった。