ACT.20 キミノタメニフルアメ


「……そんなもん、必要ねえよ」
やっとのこと、絞り出すように喉を通った言葉がたったのこれだけだった。喉がやはり焼け付くように熱い。体と心が揃ってこれ以上 言葉が口をついて出るのを防ごうとしている。それが偽りの瓦解を意味することを、レキ自身痛いほど知っていた。
「やりたいことは片っ端からやってきたし、欲しいものも、そこそこ無茶やってかき集めたしこれ以上なんか別に望まねぇよ」
「もう……足りないものは無い?」
「お前、そんな欲張ってどうすんだっ。フレイムは史上最強のチームだし、ギンは世界一速ぇし、仲間が居て、目的があって、…… これ以上何を欲しがれって……」
  レキは何ひとつ手に入れてなどこなかった。仲間と同じだけの時間も、生きる目的も、死を安らかに迎える余裕も、彼が心から望んだ ものは全て決してレキには与えられないものばかりだった。誰もが抱える“無い物ねだり”で、それが自分の場合あまりにも単純なもの だっただけに過ぎない。当たり前のものが欠けているのに、その上を望むのは到底浅はかな気がして、レキはどこか諦めていろいろな ものをかき集めてその穴を埋めようとした。底なしの穴だと知っていて、それでもひたすらに足掻き続けていた。
「一番欲しいものは、無理だからさ」
  ハルが数日前に言ったことを思い出した。--好きなもん好きって言う権利まで放棄すんな--果たしてそのあたり前の権利が、 レキにあるか。レキは、それが一番欲しかった。全てを引き替えに手に入るのなら、そのたったひとつが欲しかった。
「無理じゃない。あたしが手に入れてみせる。もうそのくらいしかできること無いから……」
ユウの危機迫る物言いにレキは思わず笑いを吹き出した。危機迫るものはあるが、いささか見当違いの発言である。可笑しくて笑って いるはずなのに目蓋を閉じると涙が出そうになる。ユウがどう見ているかは分からない。目を開けたら、最後のような気がした。
  暗闇の世界で感じる現実は意外にも温かい。静かな小川のせせらぎと、夜の帳を連れてくる少し肌寒い風、ユウの吐息が溶けた空気、 そして握りしめた右手に伝わるこの世で一番温かいぬくもりを失いたくなくて、レキは目を閉じ続けた。
「一番欲しいものは……手に入れた瞬間手放すしかなかった……」
「ここに、あるじゃん」
  ゆっくり目を開ける。レキの欲しかった全てはいつも、そこにあった。手を伸ばせば手に入るところに。   レキは手を伸ばした。それが失うことと紙一重であることも互いに知っている。その道を選ぶことが正しいかどうかを考えるのを やめにした。握り返した手をそのまま引き寄せて唇を重ねる。
  愛しいと思えば思うほど悲しく、幸せを感じる度に胸が締め付けられるように痛む。時が止まったような長いキスに、レキは全ての 想いを乗せた。せつなさの全てを分かち合うように、悲しみの全てを押し殺すように、息を止めた。

  空が見渡す限り濃い灰色に包まれている。しかし肉眼では濃淡など気にする余地のない闇が広がるばかりだ。今宵の湿度は、アメフラシ の里でも稀なほど高く、外をうろついていたシオの髪はすでに降られた後のようにぬれていた。視界に不自由しないのは里の中央の 大松明が力強く周囲を照らしているからで、雨の日も決して絶やされることのないその神聖な炎は里のどこへも光を与えた。
  シオはゆっくり、けれど艶のある動きで腕を回し、一度舞う。“雨乞い”の儀式の一端である舞をシオは一人、いつもの空き地で舞った。 彼女はひたすらに待っていた。
ぽつん--この一粒、一滴を。そして--。
  堰を切ったように雨が降り出した。シオが舞うのをやめる。雨が髪を伝い、頬を伝い、指先を伝って地面に落ちていく。雨はシオの 味方だった。汚れた空気と同様に醜い心を流していく。涙を隠してくれる。シオの心に堆く積もった気持ちを聞いてくれる。
  シオは大きく息を吸って雨を乞う歌を唄い始めた。里の者なら誰でも知るその歌を、雨が降った後に唄い始めるのはシオくらいのもの である。彼女は唄い、そうすることで涙を押し殺し、汚い心の声をぶちまけずに済むようにした。息を吸う度に溢れそうになる涙を堪えて 代わりにできるだけ澄んだ歌声を雨に乗せる。静かな雨音とシオの歌は美しさと気高さとの象徴のように里に響き渡った。

「遅ればせながらやっぱり降り出しやがったな。せっかくの男前が台無しだ」
エースが雨に降られて愚痴りながら宿の扉(に見立てた袈裟)をくぐる。ナガヒゲ宅から缶ビールを調達するほんの僅かな移動の間に ずぶ濡れだ。濡れてへしゃげたハットの水滴を払いながら自分のベッドを確認する。
  二つしかない例のベッドの上には、仰向けに寝ころんだジェイと陣取りのためのエースに荷物がある。それが変わらずその場所にある ことに満足し、我が物顔で座ると缶ビールを開けた。軽快な泡の吹き出す音にジェイがつられて身を起こす。
「しょうがねえな」
哀願するジェイに一缶を投げ渡す。室内に再び軽快な音がこだました。
「レキは。まさかまだ帰って来ねえのか?どこまで行きやがったんだ……」
「さあ? …行けるところまで行ったんじゃね?」
唇の上にういた泡を舐めて拭くと、ジェイが冗談めかして眉を上げる。対してエースは短い間凝固していたが、またすぐ思い出したように 後ろ手で頭を掻くと缶に口をつけた。
「なんだ……焼けぼっくいに火が点いちまったか」
「引火したんだろ。爆発しなきゃいいけど」
ジェイはお膳立てした割には他人事のようにあっさりとした態度だ、徹底するかのごとく勢い良くビールを流し込む。
  理由はきちんとあった。得る者がいれば、裏には失う者もいる。そしてどちらかというと後者に共感した人物が、ジェイの視界の端に 目障りにもちらついている。
  物音が止むと、雨音に混ざって透き通るような歌声が耳元をかすめた。エースがぎょっとして辺りを見回す。
「シオか、ありゃ。まだ外に出っぱなしかっ」
「何となく放っておいた方がいいかなぁと思ってさ……」
「つったって限度ってもんがあるだろうがっ。いい加減中入らねぇと風邪引くぞ」
言いながらエース自身が品の無いくしゃみをかます。癖付いているのか顔を背ける分には一向に構わないのだが、背けた先はジェイの 方向だ。唾液と、おそらく風邪菌をまき散らされてジェイは青筋をたてた。
「……歌ってるんだよ」
どこからともなく、しかし極近くからこの世の終わりを嘆くようなか細い声がする。エースもまた険しい顔つきで周囲を警戒、と部屋の 隅に肩をすぼめて小さく座っているハルが目に留まる。見つけたら見つけたで、更に口元を引きつらせる絵面である。ちなみにハルは エースが帰ってくる前からずっとここに居た。
「びびらせんな! 居たのかよっ」
  ハルは答えない。ヤマトにもお墨付きの存在感の薄さがある意味でウリの彼も、一度発見すると気になって仕方がない負のオーラを 放出している。エースは渋々腰を上げると、また一缶ビールを持ってハルの前に供えた。
「いいよ」
「鬱陶しいんだよ、ただでさえジメジメした中で室内までこれじゃあ気分が滅入る」
割と容赦のない物言いだが的を射ている。
  遠くでは彼女の悲痛な声が、そして程近くではエースの長い嘆息が響く。
「ものにできねぇんだったら潔く諦めろ。そうじゃねえなら今行かないでどうすんだ。いつまでレキのおまけでいるつもりだよ」
  ジェイは空になった缶に口をつけたまま飲んでいる振りをして、小さく何度か頷いている。
  エースはこのメンバーの中では最年長のはずだが、すこぶる面倒見が悪い。その面倒を一手に引き受けているのがハルのせいか、 殊ハルに関しては彼もいつになく口を出す。背中は押すが、やはり押しっぱなしなのがエースらしい特にハルの反応を待たずして さっさとベッドに舞い戻った。
  ハルがこんな隅で小さくなっている原因は、中央のベッド二つがくしくも占領されているせいに他ならないが、その点については 上手くもみ消されたようだ。ビールから煙草に移行して暇を満喫するエースに目に、ハルが立ち上がるのが映った。無言で宿を出ていく ハル、エースの身も蓋もない言いぐさに逆上したのかとも思えるが、彼の表情はある種の決意がにじみ出ていた。
  エースがにやつきながら煙草をもみ消す。入れ違いにラヴェンダーが宿に顔を出した。
「あら、やっぱりいない。じゃあシオでしょ、歌ってるの。っていうかレキは?」
「まぁまぁまぁ……レキたちは待ったって当分帰って来ねぇだろうから暇つぶしに見物に行くぞ」
「は? 何を?」
肩眉顰めるラヴェンダーを無視してエースは半乾きのテンガロンハットを頭に乗せる。十中八九、ハルの行動を覗きに行くつもりだろう。 こういうくだらない発想だけは馬が合うらしく、ジェイも白々しく靴紐を締め直していた。疑問符を浮かべるラヴェンダーの背中を 押して、二人は雨の中出歯亀行為に及ぶことにした。

  歌はいつの間にか止んでいた。それでもシオが居るところにおおよその見当はつく、先刻まで声のしていた方向に進んで行くと案の定 シオが広場の真ん中で突っ立っているのが見えた。
  雨は強くもないが弱くもない。音がそれだけになると無音よりもむしろ静かで寂しく感じた。