ACT.20 キミノタメニフルアメ


  ハルはいつにも増して慎重だった。話しかけるタイミングを五メートル手前で窺っている。シオはこちらに背を向けた状態であるから、 ハルが話しかけでもしない限り振り向くことはないだろう。そう悠長に構えて第一声をシュミレーションしていた矢先、ハルの意志とは 全く無関係に事は起こってしまった。
  目映い花火のように、雷が空一面を一瞬金色に染めた。見上げたシオが背後の気配に気付いておもむろに振り返ってしまったのである。
「……ハル……いつから……」
第一声は彼女に先を越された。近づくハルから、シオは途中で目を逸らす。降り注ぐ雨も気に留めずまた空を一心に見つめた。
「レキたち、帰ってきた?」
そのままの体勢シオがぽつりと呟く。すっかり忘れていたが二人が戻ってきたら伝えるように頼まれていたのは事実だ、シオのその 質問は別段不可思議なものではなかった。ハルは軽くかぶりを振る。
「そう……。雨に、降られてないといいね」
  ハルは答えない。いつもならそれを不審がってこちらに視線を向けるシオが、今もまだ天を頑なに見つめる理由はたったひとつだ。 頬を次々と伝う水が何であるか、傍目には断定できない。
「シオ、もう中に入ろう。冷えてきたし、風邪引くよ」
結局ハルは準備していた言葉の中で一番順当なものを選んだ。同時にハルとシオには聞こえない位置で派手な舌打ちが飛ぶ。言わずと 知れた覗き魔連中だが、とりわけ好奇心剥き出しなのは言い出しっぺのエースだ。従って舌打ちも彼である。
「もう少しだけ」
「シオ」
「もう少し……。雨は私の味方だから」
  好きなものを好きと言う、その権利をシオもまた失った者の一人だった。好きだの嫌いだの、嬉しいだの悲しいだの、人が思わず 言葉にする全ての感情をシオは生まれてから今まで押し殺すことに慣れすぎた。それを黙って聞いてくれるのはこの、降り注ぐ雨だけ だった。シオが一番声を上げて泣きたいときに、この雨は彼女を救うように降ってきた。
「シオ、帰ろう。……俺も、シオの味方だよ。雨が降っても降ってなくてもシオの気持ちは伝わってるし、それって凄いことだろ……? 俺も、みんなも、……レキだって、シオの味方だよ」
「でもね、ハル……」
  それは誤魔化しようのない美しさで以て証明された。大粒の涙がシオの瞳からあふれ出す。ハルは息を呑んだ。
「私一度もレキに言えなかった……言ってあげられなかった……!言葉にしてたらもっと何か違ったのかなぁ?もっといっぱい…… 伝えることができてたら、レキを傷つけずに済んだのかもしれない……!!」
雨とは確実に違う、シオの涙は透き通っていて光を反射する。
「レキは……」
ハルはいつにも増して、とにかく今までのどの場面よりも慎重に言葉を選ぶことに徹する。
  シオとは全く正反対の後悔がハルには数え切れないほどあった。それでもレキを前にして憶することがないのは、彼(レキ)が言葉に それほど重点を置かない人間だからである。レキはいつも言葉の先を見る。それハルはよく知っていた。
「レキは、シオに救われてるよ。言ったろ?……ちゃんと全部伝わってる。言葉じゃない方法で気持ちを伝えたり、相手を理解したり ……そういうの、俺もレキもシオに教わったんだよ。でなきゃ俺はレキを許さなかったし、レキも、俺を許さなかったと……思ってる」
シオは真っ直ぐにハルを見た。不安そうなその表情と久しぶりに合った視線に、ハルは逆に安心して微笑した。
  シオが無造作にした瞬きで、溜まっていた涙の雫がこぼれて落ちていった。
「……シオがもうちょっとここに居るって言うなら、俺も残るよ。一緒に帰ろ」
  シオは今度はすぐさまかぶりを振った。濡れた髪が数本肌にまとわりつく、それはハルにも言えたが彼の場合は貧相にぺちゃんこに なっていると言った方が的確だろう。
「ううん……帰ろ。このままじゃハルまで風邪引いちゃう」
  悲しい笑顔だと思った。しかしもしかしたらハル自身がそうだったのかもしれない、シオは時に鏡のように相手の心を反射する。
  ハルは言葉の吟味をやめにして、右手を差し出した。まるでダンスに誘う紳士のように、その手の平を上に向け今度こそありったけの 想いをつめて笑った。シオがまた無意識に反射するように。
「帰ろ」
シオはその手を取った。
  ここで小さく指を鳴らして舌なめずりした男が--居ても居なくてもハルとシオはその存在に気付いていないしどうでもいいと言えば そうなのだが、ジェイとラヴェンダーが一歩後ずさって客観視するほどエースは展開に夢中になっていた。それだけに今後の結末という やつは、エースにとって拍子抜けもいいところで期待はずれを軽く通り越していた。
「ごめんね、ハルまでずぶ濡れ。何か温かいもの作らなきゃね」
(よし!行け!)
エースが胸中で合図する。言うまでもなくハルにそれが伝わるはずもない、寧ろ伝わってもらっては困るのである。エースの筋書き通り なら今この機を逃さずシオを抱きしめて濃厚なキスだ、事実ハルとシオの間隔は十分なほど縮まっていた。そのようにできたかもしれな いし、定かではないがハルにもそんな気持ちはあったかもしれない。全ては実現されなかった未来の話だ、手を合わせてハルがやったこと と言えば--。
「ハ……ックショイ!!」
このため感のある本気のくしゃみくらいだ。シオもこれには目を丸くする。ハルは鼻をすすりながら軽く辺りを見渡した。
「うん、あったかいやつを……よろしく」
  笑うシオ、今度はハルがそれを反射して顔がほころんだ。
  一応--もはやこう記すしかない--シオの手は引いたままハルは宿の方へ踵を返した。唖然としているのはわざわざ雨に濡れてまで 行く末を見届けに来たエース、そしてジェイとラヴェンダーだ。後者二人はどちらかというとエースの熱狂ぶりに対しての反応だったが、 いずれにしろお粗末な結果に終わったことに違いはない。
「使えねえな……!ちゃんと下ついてんのか!」
「まあハルにしてはよくやった方じゃねえの? さっさと俺らも戻ろうぜー」
「アホか!!小学生の学芸会じゃねえんだぞっ、くだらねーもん見せやがってっ」
  ハルに否は無い。あるはずもない。理不尽な理由で自分勝手に立腹するエースに今回ばかりはジェイとラヴェンダーが息を合わせて 肩を竦める。
「素敵じゃない。だいたい覗き見なんて悪趣味なのよ、他人のラブシーンなんて見て何が楽しいんだか」
「人聞きの悪いこと言うな、俺はハルの行く末を案じてだな……」
「もうどっちだっていいから戻んないとやばいって。見てたのばれるぜ?」
  他人のラブシーンより、行く末より、何はともあれ自分たちのことが第一だ。ジェイの一言で目が覚めたか、エースが一瞬で青ざめて これまた我先にとスタートダッシュを決める。ジェイもラヴェンダーも文句どころか溜息ひとつつく間もなく、苛立ちを押さえて後を 追うしかなかった。
 
  その雨の音は静かで、どこか心地よいリズムを刻んでいるようにも聞こえる。しかしそれを音楽のひとつとして片づけることができない ことはレキも、そしてユウも知っていた。
  今のところ雨に打たれて全身ずぶ濡れ、というとこかの二人のような事態は避けられている。小川のすぐ側に構えていた大木が二人を 雨から守ってくれた。同時に全ての喧噪と煩わしさからも、遠ざけてくれているような偉大な抱擁力がある。今日に限っては雨が有り難く 感じるのは皮肉ではなかった。この宿り木の下に自分を隔離してくれるおかげでユウをより長く腕の中に抱くことができる。甘い夢に 溶けていられる、それは視界から彼女以外を追い出してしまうことでより完全なものになった。
  視界から、そして思考から、全てを閉め出すのに雨は寧ろ手助けしてくれているようにも思えた。
「レキ……、雨……」
  唇を塞ぐ。余計な会話を拒むように、レキは何度も唇を重ねた。首筋に、頬に、確かめるように、互いの存在をなぞるように、ユウが 吐息をつく暇すら与えない程繰り返す。
  重なり合う二人のすぐ側に、水の重さに負けた枝が頭を垂れてきた。静かな雨音と、二人の息遣いを裂いて水の塊が落ちる大きな音 が響いた。レキはそれでも動じない。目を泳がせたのはユウの方だった。
「……レキ……」
「いいよ、もう」
極端な話、今命が尽きたとしても--短い返答で終わらせると彼女の胸に顔をうずめた。
  極端でない話を持ち出せばレキは残念なことに至極現実的で、甘い夢に溶けているようでこれがいつか醒めると知っている。ただこの 本当に刹那的な時間だけは、忘れたふりをしていたかった。自分という醜い存在を--その証明である手紙を--この小さな紅い石を、 誰かを愛し愛されることがどれほど切なく苦しいかを、この手で結局自ら断ち切るしかない現実を、そして決してこの先繋がることのない 未来を、嫌になるくらい心が知っている。何度唇を合わせても、吐息を重ねてもそれらはいつもすぐ側でレキを監視していた。
  二度目の水音でレキは確かな恐怖心を抱いて顔を上げた。見えもしないのに唇が青いのが何となく分かる。辺りを意識したところで 今動けないことに何ら変わりはない、落ち着こうと忘れかけていた呼吸を今更夢中でした。それはどうしようもない速さで現実を連れて くる。
「レキ」
先刻より頭の中にはっきり響くユウの声が拍車をかけた。
「大丈夫。あたしがいるから……ずっとレキの側にいてあげる。飽きるくらい側にいて、うんざりするくらい愛し合える。重いもの はあたしに半分くれればいいから」
  レキは消え入りそうな細い声でユウの耳元に返事をした。恐怖や焦燥や悲愴、常にあり続けるものが消えることはもはやない。しかし それらが和らぐのを確かに感じることができた。