ACT.21 ペルソナ


  酒の力は偉大だ。開始直後までは互いに火花を散らしていたフレイムとブラッディ・ローズの面々が二杯目三杯目では隔てなく語り合い、笑い合っている。隔てが無さ過ぎてエースなんかはどさくさに紛れ、目に付く女に片っ端から腕を回したり腰に手をやったり好き放題だ。無法地帯一歩手前でかろうじて留まっているのは、そんなエースの見境いの無い行為を、これまた片っ端から阻止しているジェイとラヴェンダーのおかげだろう。妙に息が合っていて見ている方の笑いを誘う。
  ちなみに先刻から壁により掛かって傍観者を決め込んでいるのはハルだ。中ジョッキに持ち替えて、半分ほど中身を残したまま苦笑いしている。
  寸劇鑑賞に浸っていたハルの視界がいきなり真っ青に染まった。目の覚めるような青色だ、実際ハルは驚きの余り目を見開いて仰け反った。仰け反ると、その青色がカクテルグラスのそれであることが判明する。ついでにそれを悪戯にハルの眼前に差し出した白い手がシオのものであることも判った。期待以上のリアクションに目を丸くしたのはシオの方だ。
「《マスターが作ってくれたの。ハルもどうかなって》」
シオの手にはハル用にもう一つグラスが握られていた。受け取りながらマスターに視線を向けたが、彼は黙々とジョッキ洗いに没頭中だ。
  中身の残った中ジョッキを適当なテーブルに置いて、ハルは奨められるままに口をつけた。甘みと爽快感の際だつカクテルだ、酔いつぶれるつもりもなければつぶれるわけにもいかないハルにとっては丁度良い。
「《最後の最後でハルと別行動だとは思わなかった。エースも、ラヴェンダーも、……みんなで一緒にクレーターに行くんだと思ってたから……》」
  すぐ側でベータが一気のみを始めて、その周りを囲んだ数人が手拍子とコールではやし立てている。凄まじい雑音の中でもシオとの会話に支障は無い。
  ハルはすぐには答えなかった。シオも特にハルの反応を期待していたわけではないようだった。
「……不安?」
虚をつかれたのはシオの方で、思いがけず抑揚の無いハルの声を耳にしてそれこそ一瞬不安が過ぎった。実際彼に目をやると単にぼんやりしているだけで、特に意図がないことを悟る。
「《正直少し、ね》」
「……心配してなくていいよ。場所が違うだけで、俺たちの目的はいつもひとつなわけだし。今度は絶対止めたい。……って、キャノン止めなきゃシオたちもクレーターも粉々だもんなっ」
末恐ろしい冗談に苦笑いがこぼれる。シオは微笑んでいた。カクテルで仄かに赤らんだ頬を両の手の平で冷ましながら、穏やかに笑んでいた。
「《ハル。うまく伝えられないけど……ハルには感謝してもしきれないと思ってる。もちろんみんなも。……いつも、心強かった。私一人じゃきっとここまで来ることもできなかったね》」
「俺たちも同じだって。シオがあの日ロストシティに迷い込んで来なきゃスタートさえ切らなかった。何も変わらないつまんない毎日過ごして、変えようとも思わなかったよ。」
グラスに映る自分の顔を見つめる。傾けると一瞬揺らめいた。
「シオには……いっぱい大事なもの教わった気がしてる。お礼は何にもできないけど、明日は絶対守るから。側にはいないけど……必ず、俺が守る」
  ハルは始終シオの方を見ようとはしなかった。がなり合うブラッディ・ローズの女たちや、ヤマトに小言を言われているフレイムの面々、大笑いするブレイムハンターたち、そういった光景をぼんやり瞳に映してはいたが、だからといってそれを見ていたわけでもない。もっと漠然としたものに、ハルの心は集中していた。
  と、黄昏る二人の視界には幾分相応しくないものが躍り出てくる。ハルが置きっぱなしにしていたジョッキを取って、ジェイがシオを挟む形で隣の壁にもたれかかった。
「なにしみじみ語り合っちゃってんの? そういう場じゃないでしょーっ。明日の心配なんてするだけ無駄無駄! ……エースとハルの分は俺がしっかり活躍するしさ」
赤らんだジェイの口角が上がる。覗いた前歯が無邪気さを演出しているようでもあったが、二人にとっては単なる酔っ払いの戯れ言に過ぎない。
「《期待してるよ》」
「任せなさいって!」
ジェイの緊張感のない顔が逆にハルの不安を駆り立てていようとは本人は露知らず、得意気に胸を叩いた。
「そういやさ、レキ見てね? 開けたがってたワイン、さっきマスターが出してくれたんだけどさー」
「カウンターに飾ってあったやつ!?」
ハルが身を乗り出す。先刻までの渋みはどこへやら、妙に瞳に生気が宿る。話題のワインは実のところハルも気になっていた一品だ。この店に訪れる度否応なしに目に付く太った瓶、今当にそれの栓が引き抜かれようとしている。
  酒盛り中の連中が真面目な話を保てるのはせいぜい二、三分だ。--ちなみに常時でも彼らの場合十分程度ではある。スキップするようにカウンター席へ向かうジェイとハルを見送りつつ、シオは深々と嘆息した。
  ワインに夢中の二人より先にカウンター席に陣取っているのはエース、ラヴェンダー、そしてユウの三人だ。三席ほど空けて、宝石でも見るような目でワイングラスを見つめている男二人を横目に、ユウは真っ赤に光るカクテルに口を付けた。カクテルの名はブラッディローズ、やはりマスターが頼まれてもいないのに作ったものである。その赤は両耳のピアス同様彼女にはよく似合う色だった。
「……てっきりローズはレキについて行くもんだと思ってたけど」
ラヴェンダーは最初からビール一筋だ。ジョッキも変わらず大のまま、なおかつ平然として半量を豪快に流し込む。エースは真横で一筋の汗を流しながら、手も口も止まっていた。
「冗談でしょ。金魚のフンじゃあるまいし」
「その余裕はどっから来んのっ。レキの奴、見張ってないと最後でびびってやめるかもよ?」
同じようにまた半量を流し込む。ユウの手がカクテルグラスに添えられたまま止まっていた。透明感のある赤い液体の表面で、無表情の自分が微かに揺れる。ラヴェンダーの背筋に瞬間冷たいものが走った。
「マジになんないでよ……それこそ、冗談、なんだけど」
ラヴェンダーの困惑気味の声に気付いて、ユウも振り払うようにカクテルを飲み干した。妖艶な赤色が視界から消えると同時に、一息つく。
「事情が分かっててびびらねぇ方がどうかしてる。俺なら逃げてぇな。誰だって自分が一番かわいい」
「そうね」
エースの呟きはどっちのフォローだかよく分からない。彼は本音を吐いただけで他意は無かったし、ユウにしてみてもラヴェンダーの冗談に腹を立てているわけではない。
  カクテルに映し出された自分の表情に、ユウ自身が驚いたほどだ。デッドスカルに身を置くことで覚えてしまった顔つきが、不意をついてこうして現れる。何も感じず、何にも心を痛めず、何をも恐れない自分を演じるための仮面が、いつしか彼女の意志とは無関係に表出するようになっていた。困惑しているのは寧ろユウの方だった。
  唐突にエースが席を立つ。
「女は素直が一番かわいい。ついていきたいならそう言やあいいさ、我が儘につき合ってやるのが男の甲斐性ってもんだ」
格言めいた決め台詞を残してエースが向かった先は、言うまでもなくハルとジェイの席だ。目当てはその二人ではなく、二人が満喫しているグラスの中身である。ラヴェンダーの唖嘆がやけに軽快に響いた。
「……だそうだけど」
「行かないわよ」
「石頭ね」
「行ったら--」
「うわっ!! エース! チーズ口に入れたまま喋んなよ! くせぇ!!」
ジェイの渾身の絶叫がユウとラヴェンダーの会話を妨げた。元を辿ればエースが原因なのかもしれないが。ついつい視線をそちらに移すと、鼻をつまんだままのジェイが元気良く手招きしているのが見えた。ユウが笑いをこぼすのとは対照的に、ラヴェンダーはひどい顰め面を晒す。
「男も素直なのがかわいいじゃん」
ユウが笑いながら椅子を引く。ラヴェンダーは合流する気がないらしく、これ見よがしに頬杖をついていた。
「行ったら、……何?」
ユウが肩越しに少しだけ振り返った。
「一緒に行って、土壇場で怖じ気づくのはたぶんあたしよ。……止めそうだから」
「いいじゃん、止めれば」
「もうやった」
--鉄の翼の頂上で。そしてその時もレキはかぶりを振った。
「もうブレーキにはなりたくない。レキが何を選ぶにしろ、迷わせたくないからあたしも迷わない」
ラヴェンダーは頬杖をつくのをやめた。ゆっくり体を起こして何度か頷く。
「了解。じゃ、私はそれにつき合えばいいわけだ。ま、ヘッドの我が儘につき合ってやるのがサブヘッドの甲斐性ってもんよね」
ラヴェンダーの視線の先でハルが大きくくしゃみをかます。あまりに突然だったせいかハルにしてはめずらしく周囲に損害を与えたようだ、仰け反ったジェイとエースから非難を浴びせられる。
  ラヴェンダーの意味深なウインクを受けてユウが久々に声を上げて笑った。それが奴らを呼び寄せてしまったらしい、ラヴェンダーに合流の意志が無くても結果的に群の中央に収まってしまった。
  夜が更ける。北風は更に冷たさを増し、刃物のように肌を刺すほどになる。窓から覗く丸い月はそれでも温かな光を帯びているようだった。残念ながら多くの者はその温かさに気付くこともなく、ひたすらにどんちゃん騒ぎに徹していた。
  屋外にいても月光は弱々しく、地を這う者に安らぎを与えてはいなかった。