ACT.22 マスカレイド


  好き勝手に飲み、食べ、暴れること数時間、バー内は死んだように静まり返った。店主がひたすらにグラスを洗っては拭く洗っては拭くを繰り返し、その規則的な音と時計が針を刻む音だけが静かに響いていた。
  テーブルの下、つまり床にはごろごろと生ける屍が転がっている。と言っても無論ゾンビなどの類ではない。高らかにいびきをあげる者、寝息をかく者、唸る者、寝言を言う者、明日の作戦を思えば百歩譲って頷ける光景ではあるがそれにしても無法地帯だ。そしてそれは懐かしい風景でもある。店主にとってはただただ最強の迷惑集団に他ならないが。
「こういうのってちょっと懐かしいよな。全員寝ることに関しては天才的だもんな、約一名例外はいるけど」
  例外であるレキは階段の一段目に腰かけて、屍だらけの店内をぼんやり眺めていた。それに便乗してきたのはハルだ、転がった連中を上手く飛び越えて階段近くの壁際に腰を下ろす。
「ハルも何だかんだでいつも寝そびれてねえ? よく見るぜ、今の」
「俺はいつもレキに付き合ってやってんだろ。今日くらいしっかり寝てくれよ」
ハルが心外そうに軽く肩を竦めてみせる。彼のいわゆる体操座りはいつ見ても妙に様になる。レキは気付かれないように笑いを咳ばらいで誤魔化した。
「シオがさ、終りが近いと思ったらいろんなこと考えるようになったって言ってたんだけど、俺も……少し考えた」
「……何を」
ハルの表情が急に険しくなる。
「あ、つーかさ、ジェイとユウ連れて海行ったとき夢の話したろ。あれ、今も変わってねえの? 正義のヒーロー」
  ハルの表情は一瞬更に険しくなって、僅かに赤くなりながら嘆息する。
「それとこれと何の関係が……」
「そろそろ次を考えろって話。俺もお前も、さ。……今までのことなんて考えなおしたって仕方ねぇだろ。一応考えなおしたから言うけど俺には向かねぇっつぅか、……しょーもねー」
  記憶をほじくり返してみるとロストシティを出てから、それ以前からそうだったのかもしれないが、とりわけロストシティを出てからというものろくなことがなかったし、してこなかった。エイジがブレイマーに殺され、ゼットが裏切り、ローズ――ユウが仲間を捨て、レキを取り巻く全ての環境が一変した。
  少しの退屈は穏やかさの裏返しで、それを失う替わりにレキたちは様々な真実を手にした。
「あのなぁ……人のことさんざん振り回しといてしょうもないって……。あぁ、でもまぁ――」
ハルは眼球を天井に逸らしたかと思うと直後に立ち上がる。
「俺が選んで、振り回されてきたわけだから文句言えないか」
「マゾっぽいな……それ」
「それはレキの方だろ」
いつものように目を剥いて反論してくるのを期待したのだがハルは冷静に受け流した。流石に何度も似たような手でからかわれればかわすコツも学ぶ、学習能力がなかったのはどうやらレキの方らしかった。
  脳が限りなくスポンジに近いことは認めるが、マゾ扱いはごめんだとばかりにレキが口をへの字に歪めた。
「は? 俺が? なわけねぇだろ、俺はどっちかっつーと」
「“悲劇の主人公”役はもういいのかよ」
ハルにしては――皮肉がきついとか何とかの感想はすぐに捨てた。少し学がある奴は癇に障る言葉をよく知っているものだ、更にハルは一旦本気にさせると非常に厄介であることをレキはもうこれでもかというほど知っている。身を以て味わっている。どれくらい厄介かというと、歯と歯の隙間に挟まったピーナッツと同等、あるいはそれ以上の手の施しようの無さである。
  癇には障るがハルの表情にこれといった変哲は見られなかったため、レキも軽く受け流すことにする。
「そっちこそ“報われない友人A”役は満喫したのか?」
目には目を、歯には歯を、歯に詰まったピーナッツには歯に詰まったピーナッツを、詰め返してやるのがレキの流儀だ。案の定口元を引きつらせるハルに、レキは満足そうに菩薩の笑みで応えた。
「だいたい何だよ悲劇? これのどこが。悲劇ぶる要素も何もねえのに」
「今は、だろ。……今だって、無くなったわけじゃない。レキが自分のこと、隠してたのが何よりの証拠だろ」
「もうみんな知ってんじゃん」
「お前が話したわけじゃない」
間髪入れずのハルの応答にレキは思わず口ごもる。ハルの表情に相変わらず目立った変化はない。が、実はそんなものは宛てにならないのである。ハルは誰かと違って巧みにポーカーフェイスを使いこなす。
  レキは考えるのを放棄し、結局白旗を揚げることにした。
「まさかそれ……根に持ってんの?」
「別に。俺がレキなら誰にも言わないと思う」
レキの困惑具合にハルもそろそろ同情心が湧いていた。煙を上げるか爆発するか、もしくは泡を吹かれる前に解放してやるのが良さそうだ。
「言ったろ? 俺は自分の意志で、選んで、今もここにいる。レキだってそうだろ。選んだろ、……いろんなものから自分の進む道」
  レキは顔を上げた。レキの頭がスポンジなら、ハルは肉汁たっぷりの餃子並なのかもしれない。ハルはおそらく、レキが考えた以上にいろいろなことを思い返し考えたのだろう。そういうところはシオとよく似ていた。
「けどさ、たぶんお前もっと……レキが見てない選択肢だってたぶんいっぱいあったよ。お前が最初から見向きもしなかったような道」
「ハル……悪ぃけどもうちょっと分かりやすく……」
「全部話して良かったんだ、本当は」
ハルの声が僅かに上ずった。奥歯を軋ませた音が、この静かな空間では否応なしにレキの耳にも届く。「そしたら今ここにこうしてなかったかもしれない」
「してたよ」
今度はレキが間髪入れず返答する。階段の一段目からようやく腰を上げた。
「どんだけ道があっても俺はこの道を選んだ。俺は俺の意志で。……シオと出会えばの話だけどな。もしもの話なんか意味ねえだろ、『今』しかないのはみんな同じなんだからさ。だから俺は『先』の話をしようっつったの。……先の方が道は多いだろ?」
報われない友人Aが頷く。もたれていた壁から彼も身を起こした。
「なら別にいいよ、俺はもしかしたらレキが今になって迷ってんじゃないかと心配しただけで」
「迷うかよっ」
レキは笑い飛ばしたが、ハルはそれを曖昧な笑みで見ていた。迷っていたのは自分だったかもしれない――ハルは胸中で嘲笑を浮かべる。
  レキが気持ちのいい大欠伸をかますのを横目に、実のところ興奮のせいで眠気のねの字もない自分を憐れんで深々と嘆息した。
「さぁて俺もそろそろ寝っかなー。ハルもいい加減寝床確保しとけよ」
今度は欠伸につけて関節を鳴らしてほぐす。ハルは適当に相槌を打って手を振った。
  レキはこの鮨詰め状態のバー内では寝ないらしい(正しい判断だ)、のろのろと出口の方へ足を進める。
「レキ」
呼びとめられたら振り返るのは条件反射とは言え、若干嫌々さがにじみ出たターンになった。そんなものは慣れているハルは、完全に無視して悠長に呼吸を整える。マイペースな振る舞いにレキの方が続きを促そうとした矢先――ハルは口にした。
「もう俺に、隠してるようなこと、無いよな」
浮気がばれる寸前の亭主の気分を、独身の身で体感することになろうとはレキは思ってもみなかった。
「ねーよ。くだらねぇこと気にしてねーでもう寝ろ! ネタが増えたら一番に教えてやっから!」
間を置かずレキは答える。できるだけ間を置かず、それでも先刻のように間髪入れずとはいかなかった。そのほんの少しの隙間を迷いと呼ぶのなら、レキはその一瞬迷ったのかもしれない。
  感覚の鈍い左手を握りしめた。ハルの疲労の詰まった嘆息を背中に受けて、バーを出る。風が先刻外に出たときよりも一段と冷えていた。
  レキは嘘をつかない――正確にはつけない、だ。すぐ顔に出る。いつしかこのフレーズは決まり事のようにフレイムメンバー内で共有されるようになっていた。それこそが大いなるデマだったことに一体何人が気づいていただろうか、少なくともハルは最初から最後までこの信憑性もへったくれもない迷信を疑うことはなかった。
「寒っ……」
それはレキにとって救いだった。
「まさか“雪”とか降らねえよな」
それはレキにとって痛みだった。
「……降るわけねえか」
それはレキにとって、守らなければならない約束だった。嘘だらけの自分がハルにとって、ユウにとって、フレイムの皆にとって真実だったから、彼はその嘘を常に完ぺきにつき続けた。偽らなければ存在さえ苦しみでしかなかった。嘘が本当になり、偽りが真実になり、存在が許される。
  明日、自分の嘘を暴きに行くだけのことだ、そこに迷いはない。しかしまた、レキは嘘を重ねた。ハルが口にしなければつかなくて済んだ嘘だった。苦しくはない、空気は冷たく、恐ろしく澄んでいて綺麗だ。
  『嘘』はレキにとって真実で、約束で、存在そのものの証明であったから――ひとつ大きく深呼吸をした。
  終わりの始まりはレキに様々なことを考えさせた。それでも、全てのことが明日の自分に繋がっていく。その先のことは何も考えなかった。過去と未来のもしもの話を、考えていく中でレキは切り捨てた。