ACT.23 カタルティック アンセム


  “動”のユニオンチームと相対してクレーターチームは相変わらず、完全な“静”の中に居た。いつしかブレイマーのけたたましい唸り声も遠のき、空気そのものが静まり返っていることに気づく。静寂の中に三人の足音だけがこだましていた。
  規則正しかった足音のリズム、そのひとつが急に消える。それに合わせてレキも顔を上げた。
「どうした?」
立ち止まったのはジェイだ、無論先頭車両が停止すれば必然的に後続車両も停止を余儀なくされるわけで、レキはライトを点けて前方を照らした。ジェイの応答より先に、レキ自身が前方の異常に気づく。
  ここまでただ縦横無尽に広がっていた洞窟が、はじめに見た横穴のように一気に狭くなっている。その穴の奥は微かに明るいようにも見えた。
「おいおい……まさか出口とか」
「じゃないと思うよ、風が吹いてない」
ジェイも同じことを考えたらしい、人差し指を一舐めすると目の高さ辺りで掲げた。
「ゴールかな」
「そう思いたいな」
  がむしゃらに洞窟内を歩くということがどれほど肉体的、精神的疲労をもたらすかということをレキは思い知った。実生活に役に立ちそうもない知識だが、忘れられそうにもない体験だ。ただひたすら歩き続けた両の足が僅かに震えていた。
  人知れず苦笑いなどこぼしていると、ふと足音の更なる乱れが耳につく。砂利のこすれ合う音がしたかと思うと、レキは背後のシオの手を掴み支える。
「大丈夫か? さすがに疲れたな」
シオが礼の代わりに柔らかく笑む。すってんころりんを未然に防ぐことができた安堵とバカバカしさからレキも笑いをこぼした。
「だから後ろで雰囲気作んのやめろって……っ。進むよ? いい?」
ジェイが呆れ気味にさっさと先を急ぐ、その勇ましい足取りが徐々に緩む。レキとシオもそれは同じで、ジェイに歩調を合わせたつもりでもないのに三人仲良く再び立ち止まってしまった。
  開けたドーム状の空間に出た。
「うわっ……ほんとにゴールだっ」
ジェイの口からついて出た言葉は事実だ。地下鍾乳洞で天と地の差というのも妙な話だが、背後に広がるブレイマーの巣窟とここは当にそれくらいの空間の差があった。深淵は数歩前で途切れ、目の前には柔和な薄明かりが広がり、満たされていた。
「ジェイ、ライト……消して大丈夫だ」
「え? あ! すげぇ何これ岩が光ってるっ」
  目算十メートル四方程の丸みを帯びた壁という壁が、豆電球のような頼りない光を放っている。ひとつひとつは頼りないが質より量だ、ライトを消しても視界が閉ざされることはなかった。
  青白い光の中で目に映る全てが幻想的に輝いた。岩壁に触れようと手を伸ばしたジェイが寸前で身を強張らせる。
「まさかこれも例のバクテリアとかってやつ……?」
シオが大袈裟にかぶりを振った。
「(苔じゃないかな。そういうのあるって本で読んだことある)」
「へー。光る苔ってこと? すげぇな電気要らずじゃん」
明るいと言っても互いの顔が確認できて歩くのに不自由しないという程度で、できれば電気はつけておいてほしかった。などと思い肩を竦めながら、レキは足下に視線を落とした。レキが訝しげにしゃがみこむと、シオもそれに気づいて腰を落とした。
  地面に苔は生えていない。しかしそこには僅かな明かりを最大限に反射するレンズの役割を果たすものが一面に敷き詰められていた。花弁から茎、葉に至るまですべてが透明なガラスで作られた花、ひとつひとつが少しずつ形状を違えている。それらがすべて青く淡い光を反射して煌めいていた。
  レキとシオが無言で顔を見合わせる。
「今度は何」
「花。……ガラスの」
ジェイが興味津津に座り込むのと逆にレキは淡々と立ち上がった。極力無表情を保って辺りを改めて見渡した。すると、ツッコミどころがあったのはせいぜい苔と花だったようで、他に場を繋いでくれるようなものは一切無いことが分かる。美しさと幻想と、侘しさと殺伐を併せ持つ妙な空間であることだけは確かだ。
  足元ではジェイが先刻と同じように感心して喚いている――はずだったが、予想に反して静かだった。むしろ今までで一番強張った、複雑な顔色に変わっている。ジェイも立ち上がって、レキと視線の先を合わせた。
「ひとつひとつ、微妙に違うんだな。……この面積一帯敷き詰めんのにどんくらいかかったんだろ」
歳月が経費が、あるいは気持ちが――ジェイの目的語のない呟きにレキは様々な憶測をした。どれにしてみても測りかねるもので、また知る必要のないもののような気がして自らを制する。この場所とこの空気に感情移入してしまったら最後だ、どこまでも部外者でいなければ次の一歩が踏み出せなくなる。
  僅かな体重移動でガラスの花が砕けて弾け飛ぶ。レキはそれを気にも留めずゆっくりと中央へ向かって足を進めた。
  三人は同じものを見ている。この空洞中央に、ガラスの花に見守られるように佇む長方形のガラスケース、それが一際鮮やかに光を帯びていた。レキが歩き、進み、そこで近づくにつれてガラスの割れる音が一瞬鳴って消えていく。ためらうことなくレキは地面を踏みしめた。
「おいレキっ……待てって……っ」
ジェイが足元を気にしながら大股でレキに続く。砕けたガラス片はそれでもなお、青白い光を反射し続けた。
  レキは足を止め、無造作に懐からルビィを取り出した。シオが最後にゆっくりとその場所へ歩く。
「シオ」
レキはまた無造作に、ルビィをシオに差し出した。薄青い視界の中にルビィの濃い紅は完全な異物であった。ルビィの強い光に照らされた三人の顔は自然にはない赤みの強い紫色に染められる。
  シオはルビィを受け取ると、優しく両手のひらで包み込んで胸に抱く。
「緊張してんの?」
レキは場違いなほどあっけらかんと笑った。シオは、答えない。
「ここにあるのは全部……嘘ばっかりだ。花も、光も、ルビィもブレイマーも全部……。本物なんかひとつもねえよ。ここは天国じゃない」
レキはガラスケースの中で眠る女に囁いた。あるいは独り言だったのかもしれないがシオにはそう見えた。
  ガラスケースの中に栗色の長い髪を広げて、女が一人眠っている。真っ白なワンピースとそう区別がつかないような真っ白な肌、両手の指を胸のあたりできちんと組んで眠っている、ように見えた。この女も極論を言えば偽りの品である。生きてもいなければ死体とも言えない、その中間の眠ったままの姿を装い続けるイミテーションである。これが全ての引き金となった科学者の精神を今もここに繋ぎ止めている、彼が愛した女性だ。
  レキにはそれ以上の見解や感情は無かった。それにひどく安心している自分がいた。
  ここにある全ては美しい。美的感覚のないレキでもそれくらいは感じる。ただ、それだけの空間だ。美しいだけの牢獄に、この女は長い歳月ずっと捕らわれたままだったのかと思うとやけに切なかった。 かぶりを振る。共感も同情も、今となってはするつもりもなかった。
  レキはガラスケースの縁に張り巡らされた金の装飾に触れた。重厚で荘厳な留め具にいびつな形のくぼみがある。いびつだが、計算されたいびつさであることは明白だ。
  レキは黙ってシオを見た。彼女は伏し目がちにガラスケースをぼんやり眺めている。
「ここ、だな。分かりやすくて助かる。こんな目立つとこにそんなもんがはまってたら、盗ってくださいと言わんばっかりだけど」
「最初に盗んだ奴も頭どうかしてるよなぁ、俺だったら絶対盗らないっ」
「“墓荒し”にどうもこうもねえだろ」
レキは笑う。それに対してシオは心底不愉快そうに眉を顰めた。一度あふれ出た感情をそうそう簡単に押し込めることはできない。シオはルビィを握りしめて、歪んでいく表情を隠すために俯いた。その時間、沈黙が広がり空気が止まる。
「……シオ?」
レキの呼びかけにシオはかぶりを振った。力強く振った。大丈夫、何でもない――そういう意思表示のつもりで、レキとジェイもそのようにとった。二人は静かにルビィがはめ込まれるのを待つ。
  ――無言で待つこと数分、シオは一歩後ずさった。ガラスの花が勢いよく四方に弾ける。
「シオ」
シオはまた一歩、後方によろめくように足を動かしガラスケースから距離をとる。ルビィを握る指先が震えていた。
「シオ……どうしたの?」
ジェイも心配そうに顔をのぞかせる。レキも答えを待った。
「……シオ……」
シオはまたかぶりを振った。何度も、何度も、無言のまま振り続けた。それが“大丈夫”の意味ではないことは容易に察しがつく。彼女の周りに鮮やかに散る涙の粒がそれを物語っていた。
  レキがまた彼女の名を呼ぶ前に、シオは射るような眼差しをレキに向けた。瞳に溜まった雫もそのままに、その真っ直ぐな目は全てを見透かして全てを伝えてくる。レキは、というとものの数秒経たない内に視線を逸らしてしまった。
(勘がいいな……)
シオのそれを勘と呼ぶに相応しいかどうかは疑問が残ったが、些細なことだ。ブレイマーのことを一番よく知っているのは学者でもブリッジ財団でもない、その頂点はおそらく彼女だ。
  レキは頭を掻いた。レキにとって強敵はユニオンでもなく、やはり財団でもない。シオのような気がしてならなかった。