ACT.8 ターゲット ロック オン


例えばこの草むらの中に死体が数体放置されていたとしても、ハルは見過ごす自信があった。360度、同じ木が規則正しく生えているため方向 の感覚がない。真上に青空が見えるのがせめてもの救いだった。しかし日没も近い。これで夜にでもなられると不気味過ぎる、既に烏は頭上 を連れだって飛び、巣に帰っているようだった。
「この井戸で合ってるんだよな?どっちか分かんの?」
シオが頷いて久しぶりにメモ帳を開いた。分厚かったそれが今ではもう1センチほどに減っている。
《アメフラシが住んでることがあまり知れないようにわざとこういうところにしてあるの。森を少し行けばすぐ里に出る》
「……隠れ里ってわけね」
  その存在を知られないため隠れてひっそりと暮らす、その生活が充実しているとは思えない。自分たちも人に同情出来るような暮らしぶり をしていたわけではないが、ハルたちには自由があった。
  人は自分たちと違うものに恐怖を抱く、特別視する。珍しければ所有したがり、希少価値が高ければ高いほど狩りたがる。時代が変わり、 世界が変わり、どんなに生物種が新しく増えても人間の本質は他者を受け入れることを拒む。外界を遮断したこの空間が全ての象徴のようで ハルは妙に虚しさを覚えた。
  シオが井戸の縁を指で辿る。鮮明に掘られた小さな矢印を見つけて、ハルに分かるようその通り自分も森を指した。
「なるほどっ、道しるべってわけか。あ、シオちょっと紙とペン貸して」
ハルが何かをさらさらを書いて、今度は辺りを見渡す。草むらの中にかがみ込んで拳サイズの石を見つけると、井戸の縁に置いて紙が飛ばさ れないよう錘にした。
《井戸(いど)の矢印(やじるし)にそって森(もり)を進(すす)め!!まようなよ-ハル》
分かるかな?-シオが口パクで告げる。
「迷ったら……どうにかするだろ。そこまで面倒見切れないよ。やりかねないけどな、あのメンバー」
一抹の不安がよぎる。ケイ救出班の中で絶対の安心感が持てる者が思い浮かばない。そもそもこのメモさえ見落としそうな気がする、がこん な場所で待つわけにはいかない。運は天に任せて、ハルは目の前の道なき道をかき分けて進み始めた。
「行こう。もたもたしてたら夜になる」

  -某所。先刻の工事現場やカメレオン倉庫の一角ではない。室内には清潔そうなベッドがあり、灯りはついていないが照明があり、酒の ボトルが置かれたままの丸テーブルがある。椅子は二つとも引かれたままになっておりグラスは二つ、空っぽのものと僅かにアルコールの 残ったものが無造作に置かれていた。日は落ち、月明かりもない。部屋の中は暗く、静寂に包まれていた。
  否、ベッドの軋む音が響く。丸テーブルにはボトルとグラスともう一つ、血のように真っ赤なバラのピアスが転がっていた。
「ねえ」
吐息混じりに響く声はやはりローズのものだ。再び大きくベッドが軋む。
「欲しいものがあるんだけど」
「あ?」
ベッドが悲鳴を上げるのを止める。低く響いたその声は言うまでもなくシバのものだ、二人の他に室内には誰もいない。幾度かの愛撫を 繰り返した後、シバのあの長い舌がローズの首筋に触れた。
「……何企んでやがる。食えねえなお前は」
「別に何も。欲しいから頂戴って言ってるだけ」
シバの舌に付けたピアスの固い感触が首筋やら頬やらを伝っていく。それを何ら躊躇なく受け入れるローズ、そして自らもシバに接吻る。
「別にいいぜ、好きにしろ。……見返りはたっぷりもらうけどな。どうせ俺のものじゃねえ」
妖艶な笑みを浮かべてローズはシバとの夜を過ごす。灯りひとつない部屋の中で二人の声だけが鳴った。

  「今頃ベッドの中でゴロゴロくつろがれてると思うと腹立つな」
井戸から這い上がったレキが青筋を浮かべながら独りごちる。ここに辿り着くまでにあったいろいろな出来事は口に出さなくてもその形相 と汚れ具合が物語っていた。ハルが残したメモを握りつぶしてジェイに投げ渡す。次々と地上に出てくる残りのメンバーを尻目にレキは 眉間に皺を寄せまくっていた。
「ほんとにこんなところに集落があんのー?何か騙されてない?二人してよろしくやってんじゃないのー?」
「!!?」
乱れた黒髪を掻き上げて暴言を吐くラヴェンダー、想像もしなかった内容にジェイが目を丸くした。隣でエースが思わず吹き出す。
「シオと……ハルがか?まずねえなぁ。マジメの上にクソがつく奴だぞ……言い換えりゃただの根性無しだけどな」
「お前らなぁ……まあ間違っちゃないけど言い方ってもんが……」
要らぬ濡れ衣を着せられたかと思えば今度は理不尽な批判を浴びせられるハル、それもこれも全ては限界点を突破した体力と精神力のせい だ。やっとのことで里の近くまで来たものの、地上に出てからも歩きを強いられるとは思ってもみなかった。誰に向けたわけでもないこれ みよがしな嘆息をして、レキはとぼとぼと夜道を進んだ。
水路をのんびり歩いていたせいで井戸を出た頃には辺りはとっくに夜の空気に包まれていた。
「魔女の森ってかんじだなー。お菓子の家とかありそうじゃん?」
生い茂る杉の木の群を見渡しながらジェイがメルヘンチックな感想を述べる。暗闇の中の朧月や鳥の鳴き声、そして草の中に潜む何百何 千の虫の声は確かに不気味ではあったが、今のレキたちにとってそんなことは些細なことだった。おそらく背後から狼人間が突っ込んできた ところで、当然のように無視を決め込むだろう。レキの口から馬鹿でかい欠伸が漏れた。
「着きゃあ何でもいいよ。慌ただしい野宿も、しばらくは勘弁だな」
伝染したのだろうか、エースの口からも歯切れの悪い欠伸が漏れた。彼の煙草の火以外の灯りは無い。何でもない会話をすることで互いの 位置を確認し合った。それ以外はただ草をかき分ける音だけが絶え間なく聞こえてくる。短調で平坦でつまらない道だ、暗闇に慣れてきた 目が杉の群生を捕らえ続けている。
「シオの生まれ故郷かぁ……エースは行ったことあるんだっけ?どう?どんなかんじ?」
「どうって……何年も前の話だからな。一言で言うなら……」
  前方にぼんやり白い灯りが見える。頼りないエースの煙草の火よりは確かな明かりだ、近づくにつれ強くはっきりとしてくる。そして その数も割合多いことが分かった。
「ド田舎だな」
吹かした煙草の煙が見えるほどに眼前は温かい光で一杯だった。たくさんの明かりは民家から漏れてくる生活の明かりだった、三角屋根の 木の家は背後の不気味な森とは対照的に不思議な安堵をくれる。
  小高い丘に周囲を囲まれた里、その丘のひとつに立ってレキたちはその里を見下ろす形で眺めていた。
「わーーお!早く下ろうぜっ、もう俺腹ぺこっ!」
下り坂になった小道をジェイが足早に駆け下りる。吸い込まれるような灯は幻想的で神秘的だ、がやはり情緒を噛みしめる心の余裕は連中 には既にない。いや、元からない。ジェイに続いてレキもエースも、そしてラヴェンダーも小道を下った。
  三角屋根の木造の家が楕円形の広場を囲むように建ち並んでいて、広場の中央には赤々と燃える大きな松明がある。祀られていると言った 方がいいのか勢い良く燃える炎は絶える気配もない。その側で薪をくべる二つの人影に、レキは安堵と疲労の入り交じった笑みを浮かべて 手を振った。