ACT.9 ヒガシズム、ソノサキ


  ナガヒゲの診療所の裏手に空き地があった。レキのブーツの踵ほどの高さで野花が揺れる以外は特に目立った生息物もない。どこかで 蛙らしき鳴き声が響いていたが姿は見当たらなかった。
  霧が霞む前方で何かがくるくる回転している、かと思うと静止しておもむろに指を組み祈る。そんなシオの姿をレキは声もかけずに 背後から見ていた。たぶん踊っていたんだと思う、確信はないが彼女のしなやかな身振りはそれに相応しい気がした。暫く黙って立って いると、シオの方がこちらに気付く。途端に力を抜いてレキの方へ寄ってきた。怒ったような困ったような顔で歩きながらメモにペンを 走らせた。最初は筆談に戸惑っていた両者だが、今では手慣れたものだ。
《いつから見てたの?》
どうやら恥ずかしさが先行したようだ、ほんのり赤くなったシオの顔を見てレキが笑った。
「今さっきだよ。何してんの?何のダンス、今の」
にやつくレキ。普段あまり隙を見せないシオだから余計楽しく感じるらしい、珍しくいじる気満々で話を掘り下げる。シオはメモを 手にしない。俯き気味に早口で唇を動かした。たった4拍だ、想像力もプラスすればレキだって読める。
「……雨乞い?」
一度だけ大きく頷くシオ。対してレキは空を見上げて真剣に目を見張った。無意識に掌を上に向けて雨粒の感触を待つ。空は曇っては いるが雨雲特有のどす黒いそれではない。 レキが半信半疑で雲を睨み付けていた矢先、肩を二回叩かれて向き直る。目の前に出された 仮名付きの文にすぐさま目を走らせた。
《雨は降らないよ。私が声を出したり歌ったりすれば降る。今のダンスは歌と一緒に踊る、付け足しみたいなものなの》
「あ、そ」
何となく胸をなで下ろす自分がいる。気分は洗濯物を干しっぱなしでバーゲンに出掛けた主婦だ、つまらなそうに返答したものの、また 上空をチラ見する。いつか誰かが言っていた雨乞いの儀式の一部なのだろう、想像より遥かに軽快なことなことを知りレキも少し感心 していた。一人勝手に物思いに耽るレキの肩を、またシオが二度叩く。
《……雨嫌い?》
レキが一瞬笑いをこぼしたのは、メモの内容にではなくシオの下がりきった眉じりと律儀に書かれた文字の前の「……」にだ。声など 無くても表情とメモさえあれば彼女は十分に気持ちを表現できる。
  レキの意味不明な吹き出し笑いに、シオは眉を顰めた。
「シオは好きなんだっけ?アメフラシってくらいだもんな」
《レキは?》
間髪入れずにメモに付け足す。はぐらかされつつあることに気付いたらしい、レキもあまりの俊敏さに目を丸くした。頭を掻く。
「あー、……好きとか嫌いって言うより、苦手、かな。体が重く感じる」
それを好きな人の目の前でそれを否定するのははっきり言って気が引ける。だからとりあえずお茶を濁そうと頭を掻いたのだが、シオは 意外にも眈々と、いかにも“そうなんだふーん”のような頷き方でメモをしまった。そう言えばレキが勝手に決めつけただけで彼女は 一言も雨が好きだとは言っていない。
  気を取り直そうと軽く頭を叩いていると、今度はシオの熱視線にぎょっとする。はじめは自分の目を真剣に見つめていると思っていた のだが、どうやらそれは大いなる勘違いというやつであったことに気付く。シオの真っ黒な瞳の奥にはレキが、と言うよりはレキの左手 にある、今はもう消えかかった血の滲んだ跡だった。ゆっくり唇を動かす。
「え?何?」
シオが自分、を指さそうとして出した指をレキの左腕へ当てた。それで何となくの察しはついたのだが、やはり何となくシオの“言葉” の続きを待った。
《守ってくれってありがとう》
今度は一言一句ゆっくりと、丁寧に動かす。レキの解釈が間違っていなければそのように言った。微笑みを浮かべるシオを見て、レキは 自分の読唇が間違っていないことを確信する。確信して数秒、見に覚えがないような顔をして半眼で笑った。
「何のことだっけ?忘れたわ」
しらじらしい口調でかわすとシオも苦笑に変わった。
  彼女の言っていることは勿論分かる。ユナイテッドシティのブレイマー騒ぎにおいて、レキがシオをかばって左腕に傷を負ったことを 気にしているのだろう。がレキにとっては無意識の行動で、当たり前のことだったから礼を言われるとは夢にも思っていなかった。もう 少し言えば今の今まで左腕の傷のことなど忘れていたのである。
《ありがとう》
言われ慣れてないせいか照れる。なので照れ隠しにシオの頭をぐりぐりかき回した。手荒なシャンプーに藻掻くシオ、それが何とも笑い を誘う光景だった。無造作ヘアならぬ台風後ヘアが完成すると、レキは一人で笑いを堪えて腹を抱える。先刻までの真面目な空気が 台無しだ、無言で髪を整えるシオも半眼で、笑い転げるレキにしょぼいパンチを繰り出してきた。
「いいね~お前っ。それであの井戸にでも立たれたら俺泣くかもっ」
こりゃだめだ-そんな感じの目でシオは長い黒髪をひたすら手櫛でとかす。
  一通り笑いが通り過ぎるとレキは大きく嘆息した。
「あー、なんか……元気出た。考え込んでもろくなことねーし」
シオが意外そうな顔をする。里に着いてからのフレイムメンバーはどことなく妙な空気が流れていた、それは気がついていたがレキが 考え込むほど凹んでいたとは予想外だ。途端に心配色を顕わにするシオを、レキは微笑して軽く撫でる。
  そこからは悪ふざけなのか大サービスなのか不明だが、レキは不意打ちとばかりにシオの頬に軽いキスをお見舞いしてやった。蛇足 ではあるがレキは別に酔ってなどいない、そもそも酒も飲んでいない。付け加えてキス魔でもない。強いて言うなら気分だった、という やつだ。
  満足そうなレキに対してシオは魂がすっ飛んだように前方を向いたまま放心している。レキが顔を逸らして再び笑いを我慢している のもお構いなしといった感じだ。
「いやいや、サンキューな。ご褒美ご褒美」
何の!?-普通の男女ならこの後この会話が成立するのだが、シオは押し黙ったままだしそれが当然である。レキは最近憐れむどころか それを逆手にシオをいじる傾向にあった。しかしながら、シオもそれが別に苦痛ではないしレキと活力と元気が戻ったならまあ万事解決 と言った具合である。未だ訳は分からないものの、鼻歌混じりに宿に向かうレキの背中を死も微笑して追った。

  宿のベッドの上、一人黙々と愛銃を磨き上げるエースがいる。昨夜は全員疲労がピークで細かいことを気にしていなかったようだが 今夜は確実に、この二つしかないベッドの争奪戦が起こる、そう踏んでの自然な陣取りだ。ご機嫌に鼻歌をかまして煌めく三丁の銃を 入念にチェックしていく。
  と、エースの歌以外は音の無かった空間に御簾のめくれる音が乱入した。
「あれ?エース一人?みんなは?」
居酒屋の暖簾をめくったような仕草、入ればいいのにその態勢のままハルが中を覗き込んだ。
「さあなー誰も帰って来てはねえぞ」
「疲れてるんなら大人しく寝てりゃあいいのに……。変にあいつら元気いいからな」
結局中に入って、空いているベッドに勢い良く倒れ込む。よそよそしく銃を片づけ始めるエースは明らかに故意だが、ハルにベッド 予約の意志はない、あくまで悪気のない行動だ。
「なあ、エース……」
気で巧みに編まれた屋根、天井を仰向けになって見つめながら呟く。悪巧みがばれたのかと必要以上に反応するエースを不審な目で見る も、すぐに天井に視線を戻した。