「それで、どうなんだ浦島。彼女、ブレイクしてないんだろ?」
イズミには城戸の質問の意味が分からなかったが、無論京と城戸の間では通じる会話だ。頷く京を見て城戸は満足そうに微笑した。
「オーナー、イズミさん。そういうわけでここは厳重注意で手を打たせてください。調書はとらせてもらいますが、宜しいですか」
「あ、ええそれは勿論。イズミちゃん、君もほら頭下げて」
「ちょ、な~んでよ~う。あたしの尻はプリズムよりよっぽど高級なんだからねー!」
その尻に敷かれているだけのように見えたオーナーが、イズミの頭をやんわり押さえる。彼女はブレイクではない。京の十秒チェックが無かったとしても、城戸はそう判断するだろう。
セクハラ男を厳重注意の後追い返して、イズミの方の調書をとる。結果的に調書には「尻」という単語が並ぶことになったが致し方ない。報告書にまとめるときに城戸が笑い死ぬ惧れがあるが、それも不可抗力である。一通り「尻」について熱く語られ調書がまとまると、オーナーが申し訳なさそうにオードブルをテーブルに乗せた。サービスのつもりらしい。
「お飲み物は何になさいますか」
「いや、オーナー。我々も仕事中なわけで」
「ノンアルコールもお出しできます。御手間をかけたお詫びということで」
オーナーの悪戯っぽい笑みに負けて、城戸も片眉をあげ降参した。二人でノンアルコールビールを頂くことにする。泡立つ黄金のグラスが置かれたところで、イズミが席を立った。
「歌、聴いていきなよ。せっかく来たんだし」
「だから仕事なんだけどね」
イズミは聞いていない風で、こじんまりとしたステージに立った。スタンドマイクにミラーボール、背景にはジュークボックス。まだ日がある時間帯にも関わらず、ここだけは夜を切り取ってきたかのように妖艶だ。
「バンドは夜しか来ないから、生演奏じゃなくて悪いけど」
そう言ってオーディオのつまみをひねるイズミ。流れてくるスネアのリズムに腰を揺らしスタンドマイクに手を添えたときには、まるで別人のような顔つきをしていた。低く透き通る声、圧倒的な声量は先刻まで尻が尻がと連発していた女と同一人物とは思えない。
城戸はグラスに口をつけながら素直に感嘆を漏らしていた。
「なかなかうまいな。コアなファンがつきそうだ」
京は一拍置いて「そうですね」とだけ口にした。興味がないのかと思って城戸が横目に確認したがそういう風でもない。寧ろ城戸よりも真剣に、その歌声に聴き入っているようだった。
(こういうのがタイプってわけではなかったよな)
くだらない確認を胸中でとりながら視線をステージに戻す。イズミの歌は生命力に満ちていた。決して底抜けに明るい曲ではない、かと言って悲恋を歌ったような沈んだ曲でもない。ただその存在の力強さを知らしめるような、美しく惹きこまれる「歌」だった。
超スピードのピアノソロが終わり、スピーカーから流れるのがその余韻だけになるとイズミはつまみをひねり、一礼した。たった二人の観客は各々おもむろに拍手を送る。
「悪いね、あんまりメジャーな曲じゃなくて。でもあたし、これが一番得意なんだよ。良かったろ?」
ステージから一歩下りたイズミはやはり別人だ。口さえ開かなければアダルトな魅力あるジャズシンガーなのに、残念極まりない。それは城戸の感想だった。京のものは少し異なる。
「いや、この歌よく……知ってるよ」
“A puppet in the broken world ”──四十年ほど前に流行った歌だと、よくこれを口ずさんでいた人が教えてくれた。小さなキッチンで二人分の料理をしながら、夕陽の河川敷で手を繋いで──その度に場違いだろうと思っていた。鼻唄で歌うような陽気な歌でもないのに。
「へえ、意外だね。お兄さんジャズなんか聴くの? だったらまだおいでよ。あたしは週末いつもここで歌ってるから」
「そうだな。今度は生演奏で聴きたいね」
オーナーとイズミに礼を述べて、二人は店の外へ出た。板チョコドアを開けると、まだ空は薄ぼんやりと明るいことに気づく。城戸の腕時計の針は16時過ぎを指していた。今から一気に日が暮れる。
「どうする浦島。せっかくだから一杯飲んで帰るか」
城戸は凝ってもいない肩をほぐし始めた。何か気を遣われているらしい、気付いて京は項を掻いた。確かに先刻の自分の態度は、分かりやすく変だった。城戸とのサシ飲みもそれはそれで興味はあるが、今は思いだした用事を済ませてしまいたい気分だった。
「あー、すいません。俺、このあとちょっと寄りたいところがあるんで」
「別にいいさ、俺も少し時間つぶしてから帰ることにするよ」
社用車の鍵を城戸に渡して、京は足早に階段を駆け上がった。
南駅から三駅で乙木本町に着く。駅の改札を出た先にあるロータリーからスプラウトセイバーズの本社ビルが見えたが、ここに用事は無い。一瞬だけ視線を移して、京はすぐに興味薄に歩き出した。歩くには遠いがタクシーを使うほど金銭的余裕はない。いつもそうしていたように、ロータリー前のバス停にのっそりと佇んだ。
程なくして、回送かと見間違うほどほとんど人気の無いバスが停車した。これも昔から──15年前から何も変わらない。バスの終点は「スプラウト保養・研究所」、数名しかいない乗客はおそらく皆そこへ向かう。一様に陰鬱そうな顔で俯いていた。この葬列に並ぶような雰囲気が嫌で知らず知らずのうちに足が遠のいていたのかもしれない。自らに言いわけをしながら入り口に近い一人掛けの席に腰を下ろした。そして窓の外の無機質な風景を見つめるように努めた。
15年前には無かった高層ビルがバスの窓枠には収まりきらないほどたくさん生えている。平屋の住宅街は確か何年か前にあらかた撤去されてショッピングモールになったはずだ。遊び場だった資材置き場や工業廃水専用のドブ川も、今は跡形もない。それらの記憶をまさぐっても京は別段懐かしいとも忌まわしいとも思わない。無くなったものに未練は無い。但し思い出だけは別だ。それは記憶よりも遥かにしぶとく強力で、街並みが変わろうが無くなろうが関係ないとでも言いたげにそこに横たわっていた。
コンクリートと鉄筋で囲われたこの殺風景な街で、怜奈は死んだ。
はじまりがいつだったのかはもう思いだせない。物心ついたときには京は彼女とこの街で暮らしていた。恋だの愛だのの色っぽい関係ではなかった。怜奈とは随分歳が離れていたし、周囲からも仲の良い姉弟だという評判だった。京もそう思っていた。新堂怜奈は、京にとってかけがえのない、たった一人の家族だった。
スプラウトには親も兄弟もいない、試験管の中で生まれたった一人で死んでいく──そんな風に言っていたブレイクスプラウトがいた。実は概ね合っている。幼児の頃にありとあらゆる項目について膨大な量の検査が行われ、その中で器量の良いものから順に「登録リスト」の上位に記載される。そして養子縁組の話を待つ。それが無かったということは、浦島京介は器量良しではなかったということなのだろう。怜奈にその手の話が無かったとは思えない。彼女は突然変異種の「プリズム・アイ」を持つスプラウトであった。生きた宝石と呼ばれ、暇と金を持て余した上流階級の人々が当時こぞって欲しがった代物だ。それを差し引いても申し分ない美しい容姿の女性だった。彼女がどの養子縁組も断っていたのは、シンガーになる夢を叶えるために他ならなかった。
「京っ! 聞いて、ビックニュースっ。この前来てくれたお客さんがね、もう少し大きなホールで歌ってみないかって声かけてくれたのっ。どうしよう、どうするっ!? ついに私も歌姫だよ? 歌姫っ」
ある日の午後。今にも床が抜けそうな平屋の台所で、エプロン姿におたまを振りかざす自称「歌姫」に、京はランドセルを置きながら脱力していた。腰まであるウェーブがかった栗色の髪は、かなり雑に項で束ねられている。所帯臭い歌姫もあったものだ。
「それさあ、また騙されてるんじゃないの。変なおっさんだろ? どうせ」
「ところがどっこーい! ダンディなおじ様! ライブを見て回って? 有力新人をピックアップする? スカウトマンらしいわ、オーナーが言ってたもの」
「うわっ……うっさんくさ……」
「こういう業界はねー、胡散臭い人しかいないの。疑ってたらきりないんだから」
得意気におたまを振りまわす怜奈。鍋の中ではカレーがことこと煮えている。嬉しいことがあった日の御馳走は決まってカレーだった。これがまた、格別にうまい。