京は必死だった。今ここに新たな出会いが生まれようとしている。出会いとは、第一印象。つまり今このときをしくじれば、この出会いは無かったも同然となる。それは許されざる事態だ。瞬時にそれだけのことを考えた結果、ご自慢のプリズム顔負けのアイで有田女史を真剣に見つめることにした。相手は当然極上の苦笑いだ。
「浦島です、浦島京介。社内のことで分からないことがあったら是非俺に聞いてね。ちなみに俺の携帯番号は」
「はーいはいはい、浦島くーん。君んとこ今そんなことやってる暇ないでしょう? アイチェックは済んだんだから、さっさと仕事に戻りなさい」
「いや! まだ彼女との愛チェックが済んでいないので!」
必死且つ真剣なまなざしだ、だからこそ始末に困る。勢いとどさくさに紛れてしっかり両手を握ってくる京から逃れるべく、先刻からエビ反り状態の有田。彼女の愛想笑いも引きつりはじめた。
「浦島くん、その若さでパワハラセクハラストーカーの最悪コンボ決めてくるのはやめてね? 金熊課長すっ飛ばして直接法務課に言いつけちゃうわよ」
慌てず騒がず落ち着いて、柳下はティーカップに口をつけたまま諭す。発せられたいくつかの単語に思うところがあってか、京は反射的に両手を挙げた。
「これだから……ちょっと口説くとすぐ変態扱い……。奈々ちゃん、君は今貴重な男と女のトキメキと出会いを木端微塵に撃ち砕こうとしてるんだよ。俺としてはそっちの方が重犯罪だと思うね。そうだよ! ね! こうやって出会いの場が激減した結果、独身男女が増えに増えて少子化! 国力衰退! そして俺たちスプラウトへの皺寄せ! ってな現象につながってきたわけで──」
「なかなか興味深い見解をありがとう。続きはまた今度聞くわ。はい、さようなら~」
柳下は渇いた笑顔を保ったまま、力技で京を廊下へ押しやった。これ以上戯言を聞いている暇は彼女たちにもなく、実のところ京にもないはずなのである。
後ろ髪引かれながら有田に手を振ると、彼女は困ったような笑顔で手を振り返してくれた。天使である。殺伐としていたI-システム課に舞い降りた天使。京は感動にうちふるえながら鼻唄混じりにエレベーターホールへ向かった。
(脈あるわ今回……)
こみ上げてくる笑みをなんとか押し殺しながら、手のひらを開いては閉じ、を繰り返す。先刻の有田の手の感触を確かめるためだ。傍から見ればこれ以上ないほどに気色悪いのだが、生憎エレベータホールは無人、この気持ちの悪い生物を諌めてくれる者はいない。
しかし確かに今回、彼の思う「脈」とやらが無いこともないのは確かだ。握った手に忍ばせた携帯番号のメモを、有田はなんだかんだで受け取っているからである。
(やばいな、最近俺モテすぎてないか……? 弁当屋の娘だって明らかに俺狙いで……)
京の思考を遮るようにエレベーターの到着を知らせる簡素な音が響いた。京は乗りこまない。それどころか体を完全に反転させて、自分の背後に伸びる長い廊下を怪訝そうに眺めていた。誰かの視線を感じたからである。気配ではない、確かな視線だ。
廊下は隅から隅まで相変わらず無人だ。奥の方でこだましている声はおそらく柳下か、有田のものだろう、一拍置いて小首を傾げると京は腑に落ちないまま閉まりかけた開閉扉に手をかけた。フロア番号のボタンを押そうとして、そのプレートにうっすらと映しだされた自分があまりにも無表情で面食らう。
(なんで……よりによってあんな風に殺されなきゃならない……?)
エプロンに三角巾姿、笑うとえくぼがはっきり表れる幼さの残る人だった。「唐揚げ、ひとつおまけしておきましたよ」だとか「今日の味噌煮はよく味しみてますよ」だとか、他愛の無い会話を惜しまない人だった。それはおそらく、自分のためだけに発せられていた言葉ではないはずだ。そんな彼女から笑顔で弁当を渡されることは、もうない。
入ったままになっているメモの切れ端を、ポケットの中で弄んだ。メモにはもう持ち主のいない携帯の番号が記されている。そこに書かれている名は、今、彼女とは縁もゆかりもない刑事たちから不躾に呼び捨てで呼ばれているのだろう。その些細な事実が、京の気分をひどく暗いものに変えた。
しかし保安課のドアをくぐるなり一瞬で、彼のどん底気分は急浮上することになる。課長席の前に人だかり(と言っても保安課職員のみなのでたかが知れている)ができていた。マグロの初競りかバナナのたたき売りでも始めるつもりなのかと興味薄に見やっていた京だったが、人垣の中心がみちるであることに気づくと有象無象(と言ってもやはり知れている)を押しのけて最前列に躍り出た。
「みちるさんっ。大丈夫なんですか!? 会社なんか来ちゃって!」
みちるの頭部にはお洒落な帽子のように包帯が巻かれている。極限まで眉尻を下げた情けない京とは対照的に、みちるは普段と変わらない穏やかな笑みをこぼす。
「ごめんね、みんなに心配かけてしまって。本当はまだ病院にいるべきなんだろうけど……」
みちるは言葉を濁すと金熊に助け舟を求めた。金熊がそれに気づいて仰々しく咳払い。
「青山くんを襲撃した犯人、およびその目的が不明な現状では、考えたくはないが再び犯人が襲ってくる可能性は捨てきれん。で、警察の警護付きで病院に缶詰って案が出されたんだがな、あんまりだろ? 幸い、青山くんの勤め先はスプラウトセイバーズ、中でも精鋭揃いの保安課って部署だ」
金熊が年甲斐もなく目配せなんかをしてみせる。それも相手は荒木だから、見ていて気持ちの良いものではないのだが、当人たちは「青山みちるのボディガード」というかつてない重要任務に心躍ってそれどころではない。
目配せ相手の荒木が説明を引き継いだ。
「そういうわけで、今後しばらくは俺たちが交代で青山の身辺警護をすることになった。と言ってもカンパニーにいる間は危険なんかないからな、要するに行きと帰りの送り迎え中心ってこった。夜中は夜中で警察やさんが張り込んでくれるから俺たちの出る幕は無しってね」
「美味しいとこ取りじゃないですか」
シンの真顔の指摘に全員しみじみと頷く。
「被害者本人の希望だからな、意見も通るってもんだろ。後でシフト表作っとくから全員喧嘩しないで仲良く警護にあたるように」
いつにも増して歯切れの良い返事が響く。各々が自分のデスクに向かって散開していく中、京は腰を沈めるついでに立ててあるファイルのひとつを抜き取った。黒く分厚いアクリル製のファイル、頁の開き部分は手あかで変色して灰色がかっている。京はその薄汚れた表紙を暫く見つめ、開くことなく机の上に置いた。
「荒木さん」
ファイルの壁の向こう側、ボディガードシフト表を作成し始めた荒木が視線だけを上方へ向けた。京が少しだけ身を乗り出している。
「殺しの方、亀井に請求されてる資料は俺が手配します」
「そうしてくれると助かる。表立ったのは俺と城戸で片づけるから、お前らは亀井刑事と連携してくれ。双方そっちの方がやりやすいだろ」
荒木の本音が垣間見える言い草に苦笑しながら、京は手元の受話器をとると内線番号を押した。送るべき資料は、この黒いファイルの中身と一致する部分が多い。全ての資料番号まで記憶してあるファイルをわざわざ開く必要はないように思えた。
数秒のコール音の後、落ち着いた男性の声で「法務課です」とだけ名乗られた。
「保安課浦島です。辰宮主任を」
事件から二日目の朝は大あくびを漏らしての出社だった。朝だけはやたらに肌寒い。しかしその肌寒さは眠気を吹き飛ばすにはいささか威力が足りない。珍しく缶コーヒーなどを買ってぼんやりとした挨拶で受付を横切ったところを、受付嬢の一人に手招きで呼びとめられた。吸い寄せられるようにカウンターに身を乗り出す。
「あれ、なになに? 朝からデートのお誘い?」
数秒前まで開いているのかどうかも疑わしかった目をきらきらと輝かせて、軽快に缶コーヒーのプルタブを開けた。受付嬢は至っていつも通り、平静である。
「ネクタイ、上まで絞めた方がいいですよ。あと寝癖、一度御手洗いで確認されることをお勧めします」
但しいつもは注意しない、身だしなみについて口添えされる。京は疑問符を浮かべながらほんの少しだけネクタイを上方へ押し上げた。