SAVE: 01 「よし」の笑顔をセイブせよ


「はい。護身術も身に着けています」
「そいつは頼もしい。保安課はなかなかへなちょこぞろいでな、ここぞというときに役に立たん。……おっとここだ」
扉の先に長い廊下が続いていた。突き当たりから蛍光灯の明かりが漏れている。
「知ってのとおりセイバーズ、特に保安課は二人一組でバディを組んで行動に当たる。白姫君
はしばらく専属トレーナーとそのバディの組に就いてスリーマンセルで動いてもらうことになる。まあ慣れるまでの短い間だと思ってくれ」
「了解しました」


 同時刻、同社5階保安課。早朝から一仕事終えた課内は倦怠感に溢れていた。それぞれのデスクに埋もれるように腰掛け、皆魂が抜けたような顔で天井を仰いでいる。経費が落ちないせいで調子が悪いままの旧型のテレビを何となくつけっ放しにしているのが彼らの日課だった。
 マスメディアは馬鹿にできない。ときに自分たちより早く何らかの情報を掴んで意気揚々と垂れ流したりする。その牽制、と言えば随分格好がつくが実際は単なる惰性だった。
「こういう事件が蔓延、もはや日常茶飯事と化しているわけです。我々は良くも悪くも現状に適応しすぎてしまっている。そこに問題意識を持とうとしなくなっている、それこそが問題です。根本に立ち戻る必要があるんではないですかね」
テレビ画面の中でベージュのスーツを着た神経質そうな中年男性がもっともらしい口調で持論を展開していた。遅い朝はこの手の検証番組が多い。課内で思い思いにだらだらしていた連中がつまらなそうに首だけを画面に向けた。
「人間の脳のはたらきと心臓のはたらきを同時に担う眼球細胞〝アイ〟の培養に成功したのが今から約40年前。ご存知のとおり、そのアイ細胞により生命活動を行う新たな人類が〝スプラウト〟であります。当時、わが国は少子高齢化に歯止めをかけることができず急激に人口が減少、それによる国力衰退という悪循環のさなかにあった。人類を生産するという発想に当時から賛否両論あったわけですが、結局はスプラウトによる国力、人口の補完を余儀なくされたわけですね。スプラウトは完全により近い、第二の人類として期待を集めたわけです」
やたらに顔の整った若い女性アナウンサーが、ベージュのスーツの男による力説に合わせて大きく頷いていた。人一倍真剣に聞いているようでいて、彼女の役割は話したがりのコメンテーターを適度に抑えるところにある。
「しかし近年そのスプラウトによる凶悪犯罪が後を絶ちません。今回のような衝動的、かつ無差別の犯行が多いように思われるのですが教授、何故でしょうか」
教授と呼ばれたベージュのスーツの男は一呼吸置いて、咳払いから始めた。
「スプラウトがスプラウトたる所以のアイ細胞、機能面においてこれがあらゆる細胞の頂点であることは間違いないのですが、同時に重大な欠陥も認めざるをえない。この場合どう称しても語弊を生みますが、アイ細胞は『バグ』を内包しているのです。人間でいうところの脳であり心臓であり、また眼球の役目を果たす細胞ですから、えーとそうですね、船でいうところの船長と航海士、それから舵が駄目になった状態ですかね。当然船体はあらぬ方向に進んでしまう。もしくは病んだ船長がクルー全員におかしな指示を出している、そういう状態になるわけです。これがいわゆるスプラウトの〝ブレイク〟と呼ばれる現象ですね」
「現時点ではその『バグ』の原因は特定できないのでしょうか」
「原因は不明としか言えません。それだから余計に初期段階での対処が重要に――」
 教授のもったりとした口調の説明はそこで途切れた。教授も美人なアナウンサーもフリップを持たされたまま頷くしかなかった男性アナウンサーも消え、突如フライパンの上で踊るエリンギのアップが映し出された。
「ほんっとにしょうもないことしか言わないな、あの何とか教授はっ。この後お得意のセイバーズ批判だろう」
人一倍椅子の背にもたれかかっていた男が毒づきながらリモコンをデスクに放り投げた。無精ひげは朝からの仕事の賜物か、普段から蓄えているのかは定かではない。デスクの上の安っぽいアルミの灰皿には既に山盛り煙草の吸殻が積まれていた。
「まあ荒木さんそう言わずに。せっかく新入りが入るっていうのにそんな難しそうな顔してちゃあ嫌われますよ」
また別の男が比較的まともな姿勢でネクタイを緩めながら無精ひげの男を嗜めた。荒木と呼ばれた男は新しい煙草をくわえ直したが、心外そうに肩眉を上げるとそのまま火をつけずに口先でもてあそんだ。
「しかし奴が専任トレーナーとはウけますね」
結局ネクタイは気持ち程度しか緩めず、物腰の柔らかそうな男は笑いをかみ殺した。
「罰ゲームみたいだな……。しかも女性? だったよな、確か。気の毒に」
荒木はデスクに立ててある資料ファイルを押さえ、向こう側のデスクにいるはずの問題の人物を覗き込んだ。真っ先に後頭部が目に入る。向かいのデスクの男は、あろうことか始業早々うつ伏せになって真剣に居眠りをしているさなかだった。荒木の額に青筋が浮かぶ。
「おい! 頭くるなこいつ、遅刻で早朝セイブに参加もしてねぇくせに」
一定感覚で健やか極まりない寝息が聞こえる。荒木の呆れが感心の域に達し、嘆息が漏れた。その頭上に何者かの気配を感じ視線をあげた。
 金熊が、汚物でも見るような――直視したくないのか半ば顔を背けて――半眼で全力で居眠りに励む男を見下ろしていた。呆れを超え、感心を超え、純粋な怒りだけが残る。荒木が乗り出していた身を元に戻すと、金熊の後ろに控えていた小柄な女と目が合う。どちらともなく挨拶を交わそうとした矢先に金熊が口火を切った。
「浦島!」
それがこの三年寝太郎の名らしい、金熊の呼びかけに対して男は気持ちの良さそうな寝息で返事をした。
「浦島ぁ!」
二度目は容赦なく声を張り上げる。男は大きく身じろぎをしたが、次の瞬間には迷惑そうに顔をしかめると金熊の怒号を避けるように寝返りを打った。誰の指示があったわけでもないのだが、荒木は手際よく新聞を丸めて棒状にすると何も言わず金熊に手渡した。
「起きんか、浦島ぁぁ!」
叫ぶと同時に寝ている男の無防備な後頭部に渾身の一撃を振り下ろす。害虫なら即死したであろう軽快なヒット音が響いた。男は混乱と衝撃の中目を覚ますと、反射的に椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
「すいません先生! 寝てません、寝たふりの練習です!」
 男は背筋をぴんと張って発声練習でもするかのように腹の底から第一声をふりしぼった。視界に真っ先に飛び込んできたのは予定が乱雑に書き込まれたホワイトボードで、その横に、やはり雑多に貼り付けられている無数の手配写真の顔と目があった。男は惜しげもなく疑問符を浮かべた。先刻まで自分は高校の教室で歴史の授業を受けており、スプラウトの成立過程や国政背景なんかの説明を一方的に受けていたはずだった。しかし意識がはっきりしてくると、そういえば随分昔に高校は卒業したことや、歴史の教師は中年女性だったことなんかを思い出し始めた。聞こえていたのは独特にもったりとした男性の声だった。
 状況を半分ほど飲み込むと、のんびりした所作で後頭部を掻く。自分の横で腕組みをして銅像のように突っ立っている金熊にようやく気がついた。
「……あ、なんだ、課長か」
「なんだとはなんだ! 何が先生だ、寝たふりの練習だっ。いい歳していけしゃあしゃあと青春に立ち戻りおって」
「俺はいつでも青春のど真ん中ですよ」
金熊は既に食いしばっていた歯を更に、これでもかというほど噛み締めた。当事者以外は思い出したように資料に目を通したり報告書の入力を始めたりと、手馴れた様子でこれから予想されるさまざまなとばっちりから身を守るため全力を尽くす。金熊が気合いの第一声を発しようと大きく息を吸い込んだそのとき――
 古い電話を連想させるけたたましいベルが室内を駆け巡った。おそらくそれはこの室内だけにとどまらず社内全体にとどろいたはずだ、そのベルには場の空気を一瞬にして張り詰めさせる絶対的な効力があった。5秒弱、鳴り響いている短い時間ですべての雑音が止む。次に社内を駆け巡る情報を一言一句聞き漏らさないためだ、決まりごとのように皆息を潜める。

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