ロフトへの階段を上りきると、別空間のように喧騒が遠のいた。シーリングファンのまわる微かな音が耳に止まるくらいだ。光度を落としたオレンジ色の照明の下に、男はいつもの風貌で座っていた。変化といえばロイドサングラスが新調されているくらいか。京の姿を視界に入れても慌てもしないし騒ぎもしない。カフェレストラン「赤りんご」でそうしていたように、場違いを承知の上でブラックコーヒーをすすっていた。
「よく会うな」
僅かに口角が上がったように見えた。京に向けてか小雪に向けてなのかは分からないが、いずれにせよ親しみすら感じられる静かな口調だった。
「……腹の穴はもう塞がったのか?」
「そっちこそ、予定より二日遅れで納品された眼鏡のかけ心地は?」
「へえ、良く調べてあるねぇ。おかげで一割引だったんだ、逆についてたよ」
座っているソファと同じ程の高さにあるローテーブルに、難儀そうにカップを置いた。
「……逃げないのか」
「うん? 特に必要を感じないな。種は既に撒いてある。咲くか咲かないかは天命であって俺の関知するところではない。それより君のほうこそ、撃たなくていいのか?」
反応だとか反論だとかをする前に、耳元で臼井の有無を言わさぬ声が響いた。「挑発だ」とか「動揺を見せるな」とか今更分かりきったことを懸命に訴えてくる。この期に及んでは鬱陶しいアドバイスだ。
「今日を逃せば次はないかもしれないぞ」
「お気遣いどうも、見当違いだけどな。俺はあんたを殺すためにセイバーズになったわけじゃない。……大神良治。連続プリズム狩り及び“BLOOM”拡散の案件において、あんたにセイブ許可が出てる」
「セイブ、許可」
ウルフ──大神にはやはり動揺はない。言葉を区切ったのは、各々の単語の語義や響きを吟味しているからだった。肩幅に開いた両足の間で指を組んで、しばらく思索に耽った。そして嘲笑とも苦笑ともつかない複雑な笑みを浮かべた。
「“守る”のに誰かの許しが必要。相変わらず難儀な組織だな、セイバーズってのは」
「言葉遊びをするつもりはない」
「まあそう意気込むなよ。会話をしようと言ってるんだ。俺は君に少なからず興味がある」
大神は淡々と言葉を並べながら、前髪で見え隠れする額の銃痕をトントンと中指で叩いた。その仕草が癖のようなものではなく、意図的になされたものであると感じずにいられない。大神はどの時点でか、目の前にいるスプラウトセイバーズが自分の額に銃痕を残した男だと気付いている。
「お宅らの言う“セイブ”ってのは、根本的に誰も守らない、何も変えない。アイ細胞のリサイクル活動でしかない。そのサイクルは半永久的に続く。例えばそうだな……スプラウト自身の“ブレイク”への恐怖? スタンダードとスプラウトの確執? “セイブ”された者の哀しみなんてのは、その最たるものなんじゃないかねぇ」
社会が問題視するスプラウトの現状を、大神はまるで他人事のように挙げ連ねて見せた。
「何もかも堂々巡りだ。そしてそれを現状での最良の策だと謳う。その“現状”も半永久的だ。“セイブ”ってのは結局、この現状を守ることだろう。堂々巡りでも秩序は秩序。流す血は必要最低限がいい。お宅らを貶めているつもりはない。その場凌ぎは必要だ。ただ俺は現状維持ってのは嫌いでね、この社会のシステムは、もう少しまともに機能すべきだと考える。円滑に進むべきというか……ううん? 難しいな」
「その手段がこれだとでも……?」
黙っていることができず小雪が口を挟んだ。ロフトの柵から下に広がる「BLOOM」の売買・乱用現場、三人は距離を保ったまま眼下の光景を見た。と、大神は何を思ったかロイドサングラスを外し、ケースに丁寧に収めるとコートの内ポケットにしまった。たったそれだけの何気ない動作で身構えてしまう。大神のプリズム・アイは極彩色に輝いていた。同時に京の目には、それは世界一濁ったプリズムとして今も昔も変わらず映った。
「お宅も俺も、プリズム持ちだ。スタンダードはおろか他の一般のスプラウトより遥かに高い能力を持つ。にも関わらずそれを制してできるだけ目立たぬように生活する、非常に非効率だ。まあ俺のコレはファッションだけどな」
懐に指をあてる。先刻大事そうにしまったロイドサングラスを指しているのだろう。
「プリズムに限らず、優れたアイ細胞はある一定の条件の元でさらなる発達を試みる。そのアップグレードを拒んだ者が精神崩壊、イカレて腐る。それをお宅らが回収してリサイクル。頑張ってもスプラウト連中はアップグレードにびびるばっかり。どうだ? 非効率だろう」
「……ブレイクのことを言ってるの?」
「そう名付けるから、あたかもガンみたいに聞こえる。細胞の進化と言えば?」
京も小雪も、微動だにしない。だから互いがどういう表情でこのやりとりをやり過ごしているのか分からない。選んでいるのか強いられているのかも分からない沈黙だけが、二人の共通の態度だった。
「否定しないってことは、思い当たる節があるからだろう?」
ブレイクしたスプラウトは腕力も体力も尋常ではなくなる。元々能力値が高いプリズムはその非ではない。火事場の何とかだと言う説もあるが実際に相対すればそうでないことは何となくわかる。──そのブレイクスプラウトに対抗するために、セイバーズは二人一組以上で業務にあたるのである。
「……で、この馬鹿騒ぎをけしかけることで、あんたの中では何がどう効率的になったんだ?」
「下で見てきたなら分かるだろう。ここにいる連中は誰ひとりとしてブレイクに恐怖感を持っていない。「BLOOM」がそれを取り除く。ブレイクを肯定的に受け入れれば、あの野獣もびっくりの精神パンクを防ぐことができる。安定的に次のステージにいけるってわけだ。歴然としたスタンダードとの能力差を持ってな」
「だからそれで何がどう変わる? あんたの言ってることはめちゃくちゃだ。ただでさえ解決の難しいスタンダードとスプラウトの格差を助長するだけだろう」
「助長? 違うな、ひっくり返すんだよ。完全に。強い者が虐げられる非効率な世界から脱却する。能力の高い者が上へ、低い者が下へ、自然の摂理に近い形に、あるべき姿に」
そこまで聞いて京はおもむろに銃を構えた。頭に血が上ったというのとは少し違う。そうならないための最良の手段だと判断したからだ。小雪に下がるように指示するより、自分が前に躍り出た方が手っとり早い。
「俺は非効率でいいわ……。俺にもセイバーズにもまだやれることがある。それに、互いに理解しようとする気持ちまで失ったら、それはもう、スタンダードとかスプラウトとか関係なく人とは呼べないだろ」
「いいねぇ。そういう夢のある話も嫌いではない。相互理解のために人は武器をとり殺し合う生き物だからね」
京は口の中で小さく舌打ちをした。大神は言葉を慎重に選び、語義や比喩にやけにこだわる。そういうタイプを論破する能力は生憎京は持ち合わせていない。シンか乙女がここに居れば状況は違ったかもしれないが、現場にいるシンが合流してくる気配は微塵もない。そうやって京がしびれを切らす前に、より無情で絶対的なものがその瞬間に切れようとしていた。
『浦島、時間だ。二十秒後に全出入り口を封鎖、中のスプラウトを一斉セイブする』
イヤホンからの臼井の淡々とした声。
『いいか、そっちにすぐ応援が行く。早まるなよ』
シンはどうだかわからないが、今の状況下で京と小雪が返事をすることはできない。緊張してカウントダウンをする他、二人にできることはないようだった。ただ無為に時間が過ぎて行くものだと思われた。大神が、ゆったりとした動作で席を立つ。懐に手を入れたのを見て、京はトリガーに指をかけた。
「少年」
この場所に文字通りの少年はいない。大神の意味不明な呼びかけは呪文のようでもあり異国の挨拶のようでもあった。しかしそれが呼びかけであることには、不思議と確信があった。
大神の一言を皮切りに全てが動き出した。階下の入り口がこれでもかというほど乱暴に開かれ、荒木、城戸を含む笠原班が何か状況を絶叫しながら突入してきた。悲鳴が轟き、テーブルや椅子が倒れ、いくつかのグラスが割れる。一斉セイブと銘打たれたその光景は、圧倒的な力で有象無象を押さえつける、ひどく空々しいものに映った。