SAVE: 01 「よし」の笑顔をセイブせよ


「外部より入電。女性スプラウトが飛び下り自殺をはかり立てこもり。現場は東区第一ビル屋上、現在近隣住民が説得中。保安課職員はただちに急行してください。繰り返します」
「来た! 俺の最重要任務が」
 二度目の同じ内容に耳を傾けることなく、寝起きの男は倒れた椅子の下敷きになったままのスーツの上着を救出しネクタイを締めなおした。
「荒木さん、俺とシンで現場に向かいます。そういうわけなんで課長、話はまた後で!」
「いや待て、浦島。今日は大事な話が……浦島!」
振り向きもせず猛スピードで逃走する男、駆け抜けていった廊下に空しく金熊の声だけがこだました。思わず伸ばした行き場のない右手をそのまま額に押し当てて深く長くため息をつく。
 荒木は見て見ぬふりを貫こうと火のついていない煙草をくわえたまま報告書の入力に専念することにした。隣のデスクからはこらえきれないのか、時折噛み締めた笑いが聞こえた。
「城戸……笑い事じゃない」
城戸と呼ばれた穏便そうな笑顔の男は、小さく謝りながらも顔を背けて笑い続ける。それらの様子を黙って見守るしかない小雪、金熊に声をかけようと口を開いた矢先──。
「しっつれーい。京、居ますー?」
 女が、保安課の入り口で顔だけを覗かせている。不在のデスクに一瞥くれてから金熊に視線を移した。
「残念だったな。『最重要任務』に向けてすっとんでいったばっかりだ。すれ違わなかったか?」
「あら、そうですか。ま、どっちだっていいんですけどね、帰ってきたら渡しといてもらえます?」
女は躊躇なく室内に入ると、「浦島」の煩雑なデスクの上に封書をねじこむ。きつくアップにした髪とパンツスーツといういでたちは、いかにも「デキる女」風だ。少しきつい目元もその印象に一役買っているように見えた。一連の行動を目で追っていた小雪と、ふと視線がかち合う。
「……で、彼女は?」
「おお、ちょうどいいから紹介しておこう。白姫小雪くん、期待の新入社員だ。白姫くん、こちらは法務課の辰宮主任。今後何かと世話になるだろうから、しっかり挨拶をな」
 法務課──玄関先で右往左往している今現在修羅場真っただ中のはずの部署だ。その主任としては予想外に若い。どうやら「デキる女」風ではなく、実際にデキる女のようだ。一瞬面くらったものの、小雪は慌ててふかぶかと敬礼した。
「失礼しました! 本日付で保安課に配属されました白姫です、宜しくお願いします!」
 法務課主任は特に気にした様子もなく口元で笑みを作った。
「法務課の辰宮乙女よ、気軽に乙女さーんって呼んでちょーだい。私も小雪ちゃんって呼ぶから」
 法務課主任は肩書よりも見た目よりも、気さくな性格のようだった。整った笑顔に小雪もほっと胸をなでおろす。その中で金熊だけが億劫そうな顔で唸っていた。
「あー、辰宮くん。ものはついでにちょっと頼まれてくれんか」
「何のついでです? 私こう見えて結構忙しいんですよ」
「いや、なに、ちょっと白姫くんを現場に乗せてってくれんかな。……彼女はしばらく浦島の下につけることになってるんだが」
金熊の歯切れの悪い頼みごとの中にその名が出た途端、乙女の顔が驚愕の色に染まった。そうかと思うと含み笑いに耐えかねて口元を押さえる。
「京の……。あらー……それはまた、お気の毒に。いいですよ、本部に所用もありますから近くまで送ります」
乙女は再び整った笑みを作ると、入って来た時と同じように颯爽と保安課を後にした。後を追う小雪が、急激に不安を募らせたのは言うまでもない。


 藤和市東区第一ビル。現場である屋上を臨もうと太陽に手をかざすも、眩しさは軽減されず顰めつらを晒す。しかしすぐに口元がゆるみ、締まりのない笑みが後から後から漏れてきた。 ビルの下は東区が運営する公園となっており、いつもなら近隣の企業の社員たちが早めの昼食を広げている時間帯だ。しかし今日は弁当どころではない。公園は日常を奪われ、緊迫した空気に包まれていた。散歩途中の老人と犬が、手作り弁当を持ったままのOLの団体が、情報交換に勤しんでいたママ友の群れが、フットサルを楽しんでいた大学生の男女が、足を止め皆一様に天を仰いでいる。彼らの視線の先にいるのは、世を儚んで飛び降りようとしている美しく可憐な女性スプラウトだ。浦島京介の主観をふんだんに交えるとそういう解釈になる。ちなみに現在の確定情報として出回っているのは「女性スプラウトが飛び降りようとしている」というもののみで、それ以上の情報は彼も野次馬も持ち併せていない。
「京、どうするの? 上がる?」
 社用車の運転席から小柄な若い男が出てきた。アイドル顔という形容がふさわしい童顔の左手には、自分の顔の二倍はあろうかという厳つい拡声器が握られていた。そこに、着なれたスーツと落ち着き払った態度も加わって、彼がどこそこの事務所の売れっ子アイドルではないことは証明される。
「いや、とりあえずセオリー通りいこう。刺激してもまずいしな」
パートナーが持つ特大の拡声器を顎で示して、浦島京介──京は、野次馬を掻き分けてビルの真下に陣取った。特に異論も唱えず、アイドル顔の男──京のパートナーである桃山心太郎も後に続いた。野次馬の中から「セイバーズか?」「警察か?」などの声がちらほら聞こえたが、京もシンもいちいち名乗るような真似はしない。最優先事項は野次馬ではなく、屋上に佇む美しく可憐でか弱い女性スプラウトである。
「あー、テスッ、テスッ」
京が拡声器の電源を入れるなりハウリング音がけたたましく鳴った。当人は気にせずお決まりのセリフを第一声にご満悦である。ひとまず屋上の女がこちらに注目したであろうことは間違いない。視覚情報として得られるのは、現時点で「割と細身の女性スプラウトが飛び降りようとしている」というもののみに留まるが、それをどのように脚色しようかは各人の自由である。京は瞳を輝かせて、屋上に目を凝らした。
「えー、第一ビルのー、屋上から身を乗り出しているおねいさーん。聞こえますかー。聞こえていたら大きく両手を振ってみてくださーい」
「京、バカ。振ったら落ちるよ。あれ、もう柵乗り越えちゃってんじゃん」
「バカとはなんだバカとは。……えー、さっきのは無しでーす。聞こえない場合、元気よく両手を振ってくださーい」
シンが間髪いれずつっこんだのに続き、野次馬の方々からバカ認定されるのもやはり気に留めず、京はまた満面の笑みを浮かべた。屋上の女にこれといって反応は無い。
「よし、ばっちり聞こえてるみたいだな! そんじゃまあ、気合い入れて」
京は一旦拡声器から顔を離すと大きく息を吸い込んだ。公園内の緊張感は未だ持続中である。
「いいですかー! あなたのような美しい人がそんな高いところから落ちてきたら、誰がキャッチするかで下界がすったもんだの大乱闘になります。それを避けるためにも、下りてきて、じっくり話しましょーう」
拡声器を下げ、神妙な顔つきで待つこと30秒。屋上からの返事はない。人影は進退どちらをするわけでもなく始めから同じ体勢を保っている。京の口から小さく舌打ちが漏れた。
「駄目か……っ」
「まあ駄目だろうね」
「仕方ない、時は一刻を争う! シン、上がるぞっ」
「りょーかーい」
争うべき一刻は既に浪費したようにも思えたが、シンは今回も文句を言うことなく黙って後に付いた。
 無傷では済まない高さから飛び降りを図ろうとするスプラウトに対しては、できるだけ地上から説得をすることが望ましい。「ブレイク」しているにせよ、正常であるにせよ、興奮状態にあるスプラウトに近距離で接することは、そのものがスイッチになりかねないからだ。しかし、地上からの渾身の説得に失敗したからには、屋上に赴いてフェイストゥフェイスを実行するしかない。彼らがエレベーターに乗り込んだのは、あくまでやむを得ずであり、順当な判断なのである。

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