信号が青に変わる。人の流れに逆らって、京はそのまま立っていた。店のショーウィンドウに映し出された浦島京介は、中でポーズを決めるマネキンと同じように無表情だった。それでも気を奮い立たせて足を踏み出した刹那、くしゃくしゃのまま持ち歩いていた上着から微かな振動を感じた。と同時に、素っ気ない呼び出し音が鳴っているのも聞こえる。京は慌ててポケットから携帯を引きずりだした。ディスプレイには見慣れない番号が表示されている。どこかの公衆電話からのようだった。京はすぐさま通話ボタンを押した。
「……もし、もし」
相手の反応はない。微かな息遣いだけが受話器を通して耳元をかすめた。ただそれだけで、わけもなく確信した。
「小雪……!? だよな! 今どこに居る!? 」
受話器の向こうは無言だ。聞こえてくるのは周りの喧騒ばかりで、若者たちのはしゃぎ声や笑い声が京の苛立ちを煽った。交差点のオーロラビジョンも信号機の横断音楽も全てが耳触りだ。通話が切れていないことを確認しながら、京はありもしない静かな場所を求めて視線を走らせた。
「小雪だろ!? 切るなよ絶対!」
息を吸う、微かな音が聞こえる。意味は無いと知りながらも携帯を耳に押し付けた。
『……京』
消え入りそうな弱々しい声だった。が、それは確かに小雪の声だった。そしてその声は、京の焦燥を一気に駆りたてた。
『……助けて……』
京はもう一度ディスプレイを見た。見覚えのある局番だ、そう遠くない。管轄内か、そうでなくてもタクシーで行けない距離ではないはずだ。どうでもいい類推が巡る。自分で自分に苛立った。
小雪はそれきり一言も発さなかった。微かに受話器を握りしめる音だけが聞こえ、それは通話終了の合図のように思えた。年末まではまだ早いのに、スピーカーを通したカウントダウンが聞こえる。聞き覚えのあるラジオDJの声のような気がした。何かのイベント会場にでもいるのだろうか。
イベント会場──? そう思った瞬間に通話は途絶えた。後には京を嘲笑うように繰り返し機械音が鳴っているだけだ。今度こそ本当に自嘲した。
「……我ながら最低だよなぁ」
──心当たりは、あった。京しか知り得ない、小雪の居場所。
もう一度全速力で走った。吐く息だけは相変わらず雪のように白いが、寒さを感じている余裕は無かった。
同日午後8時。港湾区、藤和埠頭公園前。
駅の改札を抜けると、そこには別世界が広がっていた。公園の街路樹という街路樹は全て赤や緑、幻想的な青色のライトで星空のように輝く。この地に足を踏み入れることができるのは、運命の赤い糸で結ばれた恋人たちのみ、とでも言わんばかりに周囲はカップルだらけだ。当然、京は浮く。それでも乙木の中央通りをひた走っていたときよりは、彼を見る好奇の目も幾分和らいでいるように感じた。皆自分たちの雰囲気づくりに忙しい。
メイン会場は階段を下りた先、波止場が一望できる広場だ。その中央に本日の主役、馬鹿でかいクリスマスツリーが我物顔で聳え立っているのが見えた。主役だけあって、他のどの街路樹よりもきらびやかに着飾っている。中身の知れない無数のプレゼントの箱、とぐろを巻く銀色のモール、大中小のジングルベル、兎にも角にもピカピカ忙しなく光る。訪れた人々は皆、魔法にでもかかったようにそれらをうっとりと眺めていた。
小雪を見つけるのに時間はかからなかった。広場からは遥か上の休憩場所、公衆電話のボックスが申し訳なさそうに彼女に寄り添っていた。いくつかあるベンチには小雪以外誰も座っていない。
10メートル程手前で互いに姿を確認した。近づいてくる足音に対を、小雪は力の無い苦笑いで出迎えた。
「セイブ命令が……出たんでしょ?」
彼女の第一声は、その精いっぱいの苦笑いと共に吐きだされた。京は答えなかった。言葉で受け答えができるほど呼吸が整っていなかった。白い息が蒸気のように次々と夜空にあがる。そのままベンチまで走った。
「ていうか、なんて格好してんのそれ。今日の気温知ってる? 夜中には雪が降るかもって──」
京が目の前に立った。かと思うと、思いきり腕を引かれて小雪はよろめきながら立ちあがった。自分ではただ立ったつもりだったのに、次の瞬間には京の腕の中にいた。混乱したのは本当に一瞬で、こういう方がこの場にはふさわしいのかもしれないな、などとどこか他人事のように考えた。京の肩越しに見える景色が、ひどく綺麗だ。先刻まで同じ景色を眺めていたのに、今初めてそんなことを思った。
「カウントダウン、終わっちゃったんですけど」
抱きしめられてすぐさま思いついたのは、どうでもいい類の憎まれ口だった。
「ごめん」
いつもは余計なことまでベラベラ喋るくせに、こういうときに限って京は無口だ。それとも何か喋っているのだろうか──もう自信がない。
「周りカップルだらけで、ナンパすらされないし」
「……ごめん」
震えが止まらないのも寒さのせいではない、のかもしれない。自分のことすら不確かだ。頬を刺す風、視界を埋め尽くす美しい光の数々、聴こえ続けるクリスマスソング、そういうものはなおさら自分とは別の世界の出来事のように感じる。全てが不確か。そして感覚を支配していく恐怖だけが確かな存在としてそこにあった。
「ねえ、私……どうなるの……?」
抱きしめられたまま独り言のようにつぶやいた。聞こえていないならそれでもよかったが、その言葉をきっかけに京はゆっくり身を引いた。
「……うそ。ちゃんと分かってる。セイバーズですから」
小雪はいつものように笑った。いつもより、柔らかく笑ったかもしれない。京が珍しく真剣で優しいから、こちらもそう言う風に応えようという気になった。
「通常であれば──」
優しいというのは錯覚かもしれないけれど、と思った矢先に京は口火を切る。
「アイ細胞の検査と諸症状の経過観察に、少なくとも三日は要する。でも、もし俺を信じてくれるなら、その三日は必要ない」
「なに……? どういう──」
訝しげに顔を上げた瞬間、京と目が合った。そして同時に思い出した。
──今の言葉、嘘はないな? 俺の目十秒見られるか──
小雪の入社当初、二人でセイブに当たった末期のブレイクスプラウトに、京が言った台詞だ。何の冗談、あるいはパフォーマンスかと仰け反ったのを覚えている。だが今なら分かる。浦島京介はその十秒に、セイバーズの誰よりも特別な意味を持たせることができる。その十秒で、彼はブレイクスプラウトを判別することができる。
小雪は少しだけ笑いをこぼしながら、両目のカラーコンタクトを静かに外した。これから始まるのは、ここにいる恋人たちのようなロマンチックな儀式ではない。クリスマスに二人きりで、こんなに綺麗なイルミネーションの中で見つめ合うにも関わらず、だ。それが無性におかしかった。
「十秒? 数えればいい?」
イルミネーションより数段美しく輝く、小雪のプリズムアイ。その瞳の中に、相変わらず無表情の京が映し出されている。その顔に京は自分で驚いて、また声も出さずに頷いた。
「1……」
小雪は真っ直ぐ京のアイを見返したまま、ゆっくりとカウントアップを始めた。
「2……3……4…………」